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五線紙のパンセ|日本における舞台芸術の創造的活動|原田敬子

日本における舞台芸術の創造的活動
Creative activity of Performing Arts in Japan

Text by 原田敬子(Keiko Harada)
写真提供:原田敬子

四半世紀前のこと、山深い豪雪地帯で初めて雪闇夜を歩いた。「きゃーっ真っ暗〜!」と黄色い声を出してしまった筆者に「馬鹿野郎、お前は動物的エネルギーが鈍っているんだよ」←初対面の日だった。またある時は「お前はさ、人間をわかっていないんだな。古典を読んでるか?ちゃんと書いてあるだろ?」言葉は常に直球だ。射抜くような眼の奥で感性がスパークし、相手を超速で解析しているかような複雑な表情、演出家の鈴木忠志氏(1939-)である。筆者は二十歳の頃から氏の演出作品を自主的に観ていたが、直接の出会いは20代後半。氏は当時、(公財)静岡県舞台芸術センター創設時の芸術総監督として座付き作曲家を探しておられ、同市の財団で音楽監督だった筆者の恩師 間宮芳生先生を通じてお声がけ頂いたというご縁だった。さて、最終回の本稿では「第9回シアター・オリンピックス」(2019年日露共催、鈴木氏が芸術監督。以下TO)を軸に、日本における舞台芸術の創造的活動について考える。

第9回シアター・オリンピックスにて世界初演時のリーフレット(表)

話は四半世紀よりも遡るところから。筆者が母校(音大)に入学して特に良かったことは、その環境だった。気儘で変てこな学生も大抵受け入れられた。まず先生方が濃かった。ほんの一例だが、化粧を念入りにしてレッスンに来た学生の楽譜を投げ飛ばし「化粧に時間をかけるくらいなら一音でもまともな音書いてこい!」。レッスンで先生宅の玄関に到着すると「今日は休みます」の張り紙。天気が良ければ先生が「お散歩に行こうか」と武者小路実篤記念館まで皆で歩いたり。筆者は学業修了後、そのモードのまま母校の教員になり、最初は音大を志す子供たちを教えた。それは宝のような時間だったが、ほどなく国内外で作品の発表が多くなり、高等教育機関も合わせて勤務する頃には次々と災禍が(いずれ「頼まれなくても」書き残す(笑))。狭い音楽界の、そのまた狭い同業者の世界。どうやらいずれも各人の私的な精神状況に起因した言動らしいが、芸術には関係がないし、揉まれる必要もない単なる害だった。誰でも青い時期はこんな現実に幻滅するのかもしれないが…。鈴木氏と出会ったのはその頃だ。作品から只者ではないと感じていたものの、初対面時、うわっ芸術家だ!(しかも本物)と直観した。

「演劇の聖地」と呼ばれる利賀 大自然に複数の劇場や宿舎ほかが点在する

ご存知の方も多いと思うが、鈴木氏は30代後半に自身の劇団(早稲田小劇場)と共に東京を去り、建築家の磯崎新 氏と探し当てた過疎化の進んだ村(富山県利賀村、現在は南砺市利賀)に本拠地を移した。「古民家再生→活用」の超先駆で、合掌造りの家屋を稽古場兼住居とした。それから40年余。陸の孤島と言える利賀は、世界の舞台芸術人から「演劇の聖地」と呼ばれ、毎年世界中から人々が訪れるようになって久しい。現在人口500人弱の限界集落だが、ここ3〜4年で劇場周辺のインフラ整備がぐんと進み、テント宿泊可になったからか若い世代の観客も増えたという。利賀では大自然に抱かれながら、鈴木作品のみならず国内外の作品を、磯崎建築で体験できる唯一無二の環境だ。但し鈴木氏が重視しているのは、世界の舞台芸術人がここに滞在して作品を創作し、発信することである。利賀は、大都市名の冠がついた舞台芸術のお祭りやメッセとは一線を画した、創造の現場なのである。

さて今から約15年前(2005)、利賀の鈴木氏宅で、舞踊家の金森穣氏(現 Noism Company Niigata 芸術監督)を知った。金森氏は長いヨーロッパでの活動を終えて、新潟市の財団専属のダンスカンパニーを始める(か始めたか)という時期だった。そしてその12年後、2017年に再び鈴木氏の案によって私たちは引き合わされ、2019年開催のTOの、唯一の新作委嘱作品として金森氏と組む提案を頂いた。金森氏とは12年間、互いに一度も連絡をとらず作品も知らないまま。この新作で金森氏が「再び踊る」と聞き、ただならぬ事になる予感がしていた。初打合せで再会した時、金森氏は闘争モードに見えた。筆者に「これまでNoismを一度も見たことない?珍しい人ですね!」と。そして金森氏の覚悟(舞踊家生命を賭して踊る)を聞いた筆者は、これはとんでもない機会になると予感した。

2019年7月〜8月 井関佐和子氏とフィードバックを行う金森穣氏(利賀での創造のプロセスにて/ 撮影 原田敬子)

新作の、音楽に関する全ては筆者に、 振付と舞踊ほか目に見えるもの全ては金森氏に委ねられた。金森氏と筆者との共通項はたった一つ、それは「鈴木忠志」。これが私たちの12年の空白を恐らくチャラにした。というのも、金森氏から最初期に投げられた新作のイメージは、3つの語に集約されていて(still / speed / silence)、筆者はこれが意味することを瞬間的に理解したからだった。共振の始まりだった。12年ぶりの再会から初演までの2年近く、金森氏が多層的な過渡期を耐えながら舞踊家生命を賭して臨む新作。その音楽は、何もかも突破するような、芸術、音楽にこそ可能な次元でなければと感じた。それから1年半の作曲期間は充分にハードだったが、それに加えて、実演(生演奏と録音の組合せ)に向けての諸々の調整、これが実にタフな仕事だった。音響の野中正行氏、ピアニストの廻由美子氏、そして筆者のマネジャー氏には一生足を向けて寝られない。舞台芸術の創造的活動は、時にとんでもなく手間暇がかかるのだ。

ようやくここで本稿の本題に至る。この「とんでもなく手間暇がかかる舞台芸術の創造的活動」についてどう考えるべきなのか? 一般に、入場券が飛ぶように売れでもしない限り、手間暇をかける芸術家に対して「待った」をかけてくるXが現れる(Xはどこにでもいる)。まずコスパに合わないから嫌なのであり、芸術家が情熱をかける意味を想像しない。更に「迷惑をかけない範囲でやるべきでは?」と、罪悪感を喚起させたりもする。そもそも芸術活動自体が予算ありきと認識していて、スポンサー(富)には絶大なリスペクトがあるが芸術家(貧)へのそれは疑わしい。これに僅かでも感染してしまう芸術家たちは、一体誰に向けてか何のためか、訳のわからない彼方此方への忖度の末に、表現まで小さくなり、気づいたら背も丸まっている、、というような末路を幾つか見てきた。一方で、諦めない芸術家は、体調や精神状態にも影響されるという意味ではいわば一次産業的な活動の責任を一身に負い、同時に実現のための様々な調整、という鉄重の足枷を宿命的に嵌めることになる。赤字が出たり、途中で倒れでもしたら、経済的責任も負わされる。それほど追い詰められるのが、日本での創造的な舞台芸術活動の(数少ない例外を除く)一般的な現実なのである。こんな事でいいのか? そのような日本で40年以上も前、30代半ばの鈴木氏は、持続可能な創造的活動のために新天地を探し出し、世界の舞台芸術人から「演劇の聖地」と呼ばれるまでになる環境を具現化し、昨年(2019)開催のTOは、日露両国が主催者に名を連ね、世界各国から団体が参加する国際的事業にまで発展した。
ところで昭和52年(1977)、当時30代後半の鈴木氏が、ある対談で次のように語っている。
『自分の中を流れていく時間とか、自分の中の音を聴いている。芝居の場合は、言語的な素材というものを持ってきますと、明らかに聴覚的なもの、しかも身体性に密着したもの、一種の体感みたいなものを基礎にして入っていくんだけど、言葉が入ってきた時に、ここでものすごく分裂するんですよね。分裂した時に、体感の方が稀薄になってくるんですね。言葉のほうにずーっと吸い寄せられて、現場的には切れちゃうわけです。切れちゃって体が全部喋るための言葉に奉仕しちゃって隙間ができだす。足元に風が吹きだす。言葉をどれだけ体のほうへ手繰り寄せて遊べるのか、という肉体でなきゃいけないわけですね、本当は。(現代詩手帖/1977.4) 』

芸術に人生をかけて向かう人間は、その対象と身体感覚のレベルで深く出会っている。中でも作品(=未来)の創造に関わる場合、未来を「想像」する感覚を研ぎ澄ませている。だからその直観力は、時に次元を超えるような強度を発揮するのかも知れない。鈴木氏と利賀については特にそう感じる。創造的な芸術活動は道なき道であり様々な障害に遭うが、自身が劣化せず、作品が自身の内的必然と結実した暁には、その営みに揺るぎない必然を感じるだろう。但し演出家、戯曲家、振付家、作曲家などにとっては、ここまでで漸く半分だ。この先、作品は生身の人間たちへ手渡され(今はAIも参加するかも知れないが)、「とんでもない手間暇」を経て、やっと舞台に上がる。TOの最終日、懇親会で八十歳の鈴木氏に頂いた言葉は「間違えるなよ、初心貫徹じゃないぞ、”初心生涯”だ」。

結びに。実るかどうか判らない種や芽を育てようとする人間は多くはいないだろう。とは言え安心安全に「勝つ」生き方の奨励は、その根底に無意識であっても同調圧力や多様性否定の素地があり、音楽の本質(「多様性への歓喜」と筆者は考える)に矛盾する。筆者が幼児期に音楽に強く引き込まれたのは、今から思えば動物的エネルギーがまだ強烈に残っていて、音楽の本質に、細胞分裂のレベルで反応したのかもしれないなどと想像する。長い年月、舞台芸術の創造活動や多様な作品に触れることで、世界を深く知ろうとする態度が身についた。何かを深く知ろうとすれば知らない事が増えていき、何も知らない事に気づいて自ずと謙虚になる。一方で、管理一辺倒の教育は、そもそも出会いを規制するので多様性への想像力は育まれにくく、同種の教育を受けた内輪で、価値観が画一化する危険がある(芸術系大学にもその危険は常にある)。歴史に学び本質に触れるのとは程遠く、「前例」や「パターン」を模倣して印籠とする「日本式エリート」が作られる。

ところで、地球上を席巻する疫病に慄く目下、日本式エリートたちの態度がブレすぎである。Xも登場し、少数派や弱者とみなす人々の意見はコスパ重視で無視。忖度ウィルス、保身ウィルス感染がクラスターを起こしており、COVID-19に匹敵して恐ろしい。未来想像力という名の免疫の、耐え難いレベルの欠如が、この惨憺たる状況の原因であるように感じるのは筆者だけだろうか。

end
(2020/5/15)

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原田 敬子 (Keiko Harada)
作品は国内外の主要な音楽祭や演奏団体、国際的ソリストの指名により委嘱され各国で演奏されている。独自のコンセプト「演奏家の演奏に際する内的状況」により独自の作曲語法を追求しており、東アジアの伝統楽器を用いた先鋭的な作品も多い。桐朋学園大学で川井學、三善晃、その後、Brian Ferneyhough各氏に師事。日本音楽コンクール第1位、安田賞、Eナカミチ賞、山口県知事賞、芥川作曲賞、中島健蔵音楽賞、尾高賞ほか受賞。国内外で異分野とのコラボレーション多数。サントリー芸術財団「作曲家の個展」(’15)、ISCM台湾テーマ作曲家として個展開催(’16)、シアター・オリンピックス(日露共催)委嘱作曲家(’19)。新自作品集CD「F.フラグメンツ」は、レコード芸術アカデミー賞ファイナリスト。自作品集CDは4枚がベルギー、ドイツ、日本の各社から刊行されている。
現在、東京音楽大学作曲科准教授、桐朋学園大学、静岡音楽館講師。