評論|「敗戦75年」の音楽文化( 3 ) ~音楽の戦争責任~|戸ノ下達也
「敗戦75年」の音楽文化( 3 ) ~音楽の戦争責任~
Japanese music culture 75 years after the defeat. ~ the war responsibility of music ~
Text by 戸ノ下達也 (Tatsuya Tonoshita)
◆はじめに
敗戦75年の音楽文化を、戦時期の音楽に関わる文化政策と現状から再考してきた連載の最終回は、音楽の戦争責任を取上げてみたい。
2019年は、音楽の近現代史を問う映画が封切られた。ひとつは、北原白秋と山田耕筰を描いた、佐々部清監督・坂口理子脚本による『この道 』、 もうひとつは、保育園の集団疎開を描いた、平松恵美子監督・脚本による『あの日のオルガン』で 、どちらも、《この道》という楽曲がひとつのキーワードになっている作品である。私は、2019年10月15日に開催された「JASRAC 音楽文化賞記念講演会」で「社会に翻弄された音楽を辿って~明治から戦中、そして現代へ~」と題して、第1部・基調講演と、第2部・対談のモデレーターを担当した。その第2部では、作曲家・菅野由弘さんのほか、映画監督・平松恵美子さん、脚本家・坂口理子さんと、戦時期の音楽家や音楽文化の実像、音楽と日常生活、戦時期をどのように語り継ぐか、といった問題を提起している二つの映画と音楽について対談した。
この対談で、ひとつの課題となったのが「戦争責任」をどのように考え、受け止めなければいけないかという問題だった。
◆映画『この道』が提起していること
映画『この道』は、ダメ男・北原白秋と、実直な男・山田耕筰という設定の二人の友情や人間模様を描いたフィクションだが、その扱う時代は、まさに1920~1940 年代という戦争の時代そのものである。この映画の一つのテーマは「戦争」であり、「戦争に直面した文化人の姿」だが、私は二つの場面のセリフの重さからこのテーマを考えさせられた。
一つは、白秋が陸軍からの詩の委嘱を断った時に、貫地谷しほりさん演じる白秋の妻 ・菊子が「あなたはそれでよいでしょう。でも私達の生活はどうなるのですか」と詰め寄る場面。いまひとつは、軍服姿の耕筰が病床の白秋を見舞った時に、大森南朋さん演じる白秋が「お前は、なぜ戦争に協力する音楽を書き続けるのか」と問いかけたのに対し、 EXILE のAKIRA さん演じる耕筰が「俺は、音楽を未来に生かし続けるために協力している」という趣旨の返答をする場面である。この二つの場面とセリフは、まさに戦時期の社会にどのように対峙し、生きていかなければならないか、そして音楽の「戦争責任」をどのように考えなければいけないのかという問題を提示している。
◆「戦争犯罪」と「戦争責任」
満洲事変からアジア・太平洋戦争に至る十五年戦争の「戦争犯罪」は、ニュルンベルク裁判と東京裁判における、主に政府や軍の指導者が対象となった「平和に対する罪」(A級戦争犯罪 )、 アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・オーストラリア・中国・フィリピンがそれぞれに個々の残虐行為に関わった者を対象に裁判を行なった「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)と「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)という類型で、刑事責任を追求するものであった。
吉田裕によれば、東京裁判は、従来の国際法の欠陥を是正しその発展に寄与したこと、戦争犯罪の実体を解明したこと、侵略戦争に対する反対勢力に大きな正当性を付与したという意義の半面、アメリカ主導であったこと、冷戦の論理が作用したこと、アジア諸国に対する問題が軽視されていたこと、一面で「日米合作」の政治裁判という性格を有していたことの問題が指摘されている1。またBC級裁判については、林博史によれば「通例の戦争犯罪」による裁判主体だったため植民地民衆に対する残虐行為が不問となったこと、現場の責任者は実行者のみが裁かれたことという限界があるものの、 報復の連鎖を断ち切ったこと、限界はあれども犯罪の検証がなされて記録が残されたこと、戦争が犯罪であるという国際的判断の基礎を形成したことが指摘されている2。
そして「戦争犯罪」のみならず、「戦争責任」についても、昭和天皇や東条英機を始めとする政治家や軍人など国家の指導者責任、大日本帝国が占領した近隣諸国に対する戦争責任、国民や宗教、文化領域の戦争体験と戦争責任など、社会の変遷と共に「戦争責任」の視点も深化した3。このような「戦争責任」を巡る議論の深化の一方で、 1982 年の歴史教科書問題、 1995 年の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議 」、2001年の小泉純一郎首相の靖国神社参拝など、1980年代以降に顕著な「自虐史観」を巡る様々な表象や「歴史修正主義」の台頭という時代状況と共に、戦時期の歴史や「戦争責任」を正視し認識することの重要性を喚起していると思える。
ここで留意すべきは、「戦争犯罪」と「戦争責任」を混同してはならないことである。
「戦争犯罪」とは、国際法に基づく「平和に対する罪」(A級戦争犯罪)、「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)、「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)の三つの類型による「犯罪」を指すものである。つまり、 政府や軍など国家指導者の判断や、武力による残虐行為が「戦争犯罪」に該当するか否かが問われるのである。この国際法に基づく類型で、音楽家の「戦争犯罪」を問うことは不可能である。しかし、「戦争犯罪」に該当しないからといって「戦争責任」を免れるものではない。それは家永三郎が指摘するとおり「人間を意思決定に基づいて実践する主体的存在とみるかぎり、その主体的行為による結果に対し責任の問題の生ずることは避けられない」の一言に尽きる4。戦時期の音楽家や音楽界の「戦争責任」も、その結果に対して責任が生じるのは当然のことであろう。
◆音楽の戦争責任
「戦争責任」を巡る認識や、様々な歴史観に直面すると、音楽の「戦争責任」が、曖昧なまま、また不問のまま今日に至っている事実と問題点も浮き彫りになる。この問題については、既に拙著『音楽を動員せよ』(青弓社、2008 年)の第 6 章「< 戦後 > への射程」で、戦時期の捉え方や戦争責任について、古賀政男、古関裕而、藤山一郎、井口基成、宮田東峰、山田和男(一雄 )、須藤五郎、守田正義、深井史郎、小倉朗、清瀬保二といった音楽家の言説や、「山田・山根論争」の限界と問題について指摘した。
今いちど強調しておくが、1945年10月の東京新聞紙上の、山根銀二と山田耕筰による「山根・山田論争」が、「戦争責任」と「戦争犯罪」が混同された上に、双方の揚げ足取りや非難の応酬に終始し、「戦争責任」の本質が議論されず、中途半端なまま議論が終息したことが、音楽の「戦争責任」を曖昧かつ不問に付していると言っても過言ではない。
しかも、音楽界にも「戦争責任」をめぐる科学的な議論が、ごく一部を除いて浸透・拡大しなかったことが、問題解決を妨げた根源にある。ここで音楽家や音楽界に問うべきことは「戦争犯罪」ではなく「戦争責任」であるが、山 根・山田論争では「戦争犯罪」の意味を理解しないまま、お互いが相手を「戦犯」として罵り合い、周囲は傍観するのみで議論が深化することなく終ってしまった。
また、戦時期から戦後まで、山田耕筰のあまりにも大きすぎる存在が、彼の戦時期の様々な活動や創作の本質を客観的に評価することを忌避させ、忖度させ、そのまま今日に至っている。
音楽家の「戦争犯罪」は問えないが、その地位や立場、行為に伴う「法律的責任」「道義的責任」は当然に問われるべき問題である。しかし 、山田や山根のみならず、一部の音楽家を除いて、多くの音楽家が、自らの「戦争責任」を明確化せず、意識的に避け、主体的に捉え考えることなく、現在に至っていることは、残念でならない。他の芸術芸能領域、例えば映画や演劇、美術、文学と比較しても、当事者が何ら「戦争責任」に向き合って来なかった音楽家や音楽界のあり様は、改めて私たちが捉えなければならない 。
◆「戦争責任」への問い
しかし、その責任を問うこともまた困難な課題である。 2020 年の今を生きる私たちは、日本国憲法のもと、基本的人権が保障され、言論や表現の自由が(少なく とも日本国憲法や法令の中では)保障されている。しかし、戦時期を生きた先達は、大日本帝国憲法のもと、万世一系の天皇が国務や軍事を総覧し統治する社会で活動していた。その活動や限界を、現在の価値観や道徳感で問うことは簡単だが、それで問題が解決するだろうか。
むしろ制約や葛藤の中で、音楽家が何を考え、どのように行動し活動したのか、その活動をどのように評価するのか、その活動を現在、そして将来にどのように語り継ぎ、活かしていくのか、を丁寧に再考すべきではないか。
例えば、作品として残る楽譜のメッセージ。なぜその調性なのか。強弱記号の意味するところは何か。なぜそのメロディーやハーモニーなのか。そこには作曲家の思いやメッセージが凝縮されているだろう。例えば、音源として残る演奏家のメッセージ。作品をどのように解釈して表現しているのか。なぜそのような節回しなのか。 なぜその歌唱法なのか。そこには演奏家の思いやメッセージが凝縮されているだろう。
私は、皆さんに問いたい。あなたが戦時期に生きていたら、生活や家族、命を賭けて、また犠牲にして、徹底して政府や軍の意向に逆らい、抵抗しますか?抵抗できますか?と。私は、戦時期を考察する際に、常にこのことを自問しながら向き合っているが、答えは出ていない。しかし、映画『この道』は、まさしくこの問いを私たちに突きつけている。 戦時期を考察する際には、作曲家として、演奏家として、評論家として、また学者として、いや一人の人間として生き、生活していたら、どのように行動するか、という意識で常に問題を捉え考えなければならないのではないか。
そして、戦時期の音楽作品を、単に歌詞の分析という表面的な考察だけでなく、楽譜を隈なく見つめ、演奏を聴き、考え、受け止めることが最も重要な取り組みである。字面だけを表面的に捉えて「戦争責任」を論じても、何の意味もない。そして、断罪することが「戦争責任」を解決することではではない。改めて、戦時期の社会の実像を再考すること、その中で音楽がどのようないとなみを展開したのか、その事実から 「戦争責任」を自らのこととして考えた上で、二度と同じ過ちを繰り返さないために、行動することが、何より大切であり尊いことであろう。
『この道』の佐々部監督は、この映画の思いを次のように記している。
「白秋と耕筰の生きた時代。それは関東大震災が起き、そして日本が戦争へと走った時代でした。そして今、また同じような状況を迎えようとしているような気がしてなりません。決して同じ道を歩んではいけないのです。この国では阪神・淡路大震災があり、東日本大震災が起こりました。そんな時、被災者たちが歌に勇気付けられたという話もありました。だからこそ童謡 100 年の今、この映画を多くの皆さんに観ていただきたいという思いを込めて撮影しました」5
◆おわりに
本連載では、戦時期の文化政策と「戦争責任」を音楽面から捉え直し、その今日的な意味を試論として考えてみた。本連載で指摘したとおり、戦時期には、 立法や行政が文化統制を推進し、法令を恣意的に解釈し運用し、娯楽を積極的に指導し活用した。また、十五年戦争の「戦争責任」は、昭和天皇の戦争責任が政治的な観点から不問となったことが象徴的で、文化領域でも同じく曖昧なまま推移した。「責任を取らない」現実は、現在の政治状況にも直結している。そして現在は、立法や行政が、日本国憲法や文化芸術基本法を無視し、踏みにじっている現実が、 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」で明らかになっている。
この現実を、私たちは自らのこととして直視しなければいけない。芸術の問題 だけではなく、私たちの日常が脅かされているのである。私達は、立法や行政を鋭く見つめ、監視し、問題提起して法令が適正に運用され、誤った方向に進まないよう、音楽が戦争のために利用され活用されることのないよう、戦時期の歴史から学び、二度と同じ過ちを繰り返さないために、行動しなければならない。敗戦75年に、今いちど戦時期の歴史に対峙し、受け止める重さを実感する。
―完ー
( 2020/2/15 )
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戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
1963年東京都生まれ。立命館大学産業社会学部卒。洋楽文化史研究会会長・日本大学文理学部人文科学研究所研究員。研究課題は近現代日本の社会と音楽文化。著書に『「国民歌」を唱和した時代』(吉川弘文館、2010年)、『音楽を動員せよ』(青弓社、2008年)、編著書に『戦後の音楽文化』(青弓社、2016年)、『日本の吹奏楽史』(青弓社、2013年)、『日本の合唱史』(青弓社、2011年)、『総力戦と音楽文化』(青弓社、2008年)など。演奏会監修による「音」の再演にも注力している。第 5 回JASRAC音楽文化賞受賞。
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