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特別寄稿|映画「コミッサール」に描かれた母性とその行方|能登原由美

映画「コミッサール」に描かれた母性とその行方

text by 能登原由美(Yumi Notohara)

知人に勧められてソビエト時代の映画を何本か観た。いずれも音楽が多少なりとも重要な意味を持つもので、私の関心を知ってのことなのだろう。この映画ももしかするとそのつもりだったのかもしれない。音楽はシュニトケなのだから。とはいえ、最初はそこを見落としてしまい、むしろ「コミッサール(党から軍に派遣された政治委員)」というタイトルや、この作品の運命―1967年に完成するも上映禁止とされ、監督も映画界から追放される―を知って、ソビエト時代の闇を照らす映画なのだろうという関心のもとに観始めた。もちろん、こうしてここに書き残しておくことにしたのは、それが予想をはるかに超えるものであったためだ。

映画は10月革命後の内戦期に焦点を当てたもの。それが上映禁止になったのは、当時のソビエト社会における「タブー」を扱ったためという。つまり、ユダヤ人排斥主義である。

映画の筋を簡単に述べよう。女性のコミッサールとして赤軍を指導するワヴィーロワは、規律違反者の処刑も躊躇なく断行できるほど鋼のような心をもつ。だが、軍幹部の男性との間に子供を宿し、臨月近くになった頃、ユダヤ人の貧しい職人エフィムの家に密かに匿われ、やがて子供を産む。その直後、敵軍の到来と赤軍の撤退を知り、コミッサールと母親という2つの立場の間で揺れ動く…。

原作は、ヴァシリー・グロスマンの『ベルディチェフの町で』。これを映画化するべく脚本を起こして俳優を集め、監督としてメガホンを取ったのは、アレクサンドル・アスコリドフ。そのインタビューによれば、幼い頃にスターリンの粛清によって両親を失うとともに、ユダヤ人一家に助けられた過去を持つという。そのトラウマのような記憶が、この作品の根底にあるのは間違いない。映画も、アスコリドフも、完成直後から激しい非難の末に断罪されたことはすでに述べたが、フィルムは奇跡的に廃棄を免れた上、ペレストロイカによって1987年のモスクワ映画祭で初めて披露された。以後、世界各地で上映され、数々の賞を受けることになる。

非難と賞賛、真逆とも言えるその評価については、それがユダヤ人に対する人種差別を扱っていたためだろう。だが、アスコリドフが描いたものはそれだけか?そもそも彼は、ユダヤ人、ロシア人といった民族の違いを超え、その融和のなかに革命を推進する「インターナショナル(国際労働者協会)」の理念、「世界中の勤労者の連帯」をも重ねようとしていたのではないか。敵軍によって街が砲撃されるなか、ワヴィーロワはエフィムに「インターナショナルなんておとぎ話」、「おとぎ話ではなく真実が必要」と言いながらも、「いつか連帯できる」と自らをも奮い立たせるように言い放つ。ユダヤ人一家に助けられて産んだ子供はすでに、ロシアとユダヤ、2つの民族の融和を示すものでもある。

一方、この映画を貫くもう一つのテーマは「女性性」、そしてその象徴として描かれた「母性」だろう。さらに言えば、それを照射するべく「男性性」としての「戦争」が対置されている。例えば冒頭部。一人の女性が歌う子守唄―のちに、それはワヴィーロワが歌うものであることが明らかになる―が流れるなか、聖女像が映し出される。そのすぐそばを通り過ぎる軍列。あるいは出産の場面。「子供を産むのは戦争より大変」というマリヤの忠告、それを表すかのように陣痛の苦しみにはワヴィーロワがもつ前線での辛い記憶を重ねる。そればかりか、子供の父親である男性の戦死の記憶と引き換えに赤子の誕生をみる。ここでは「母性」と「戦争」―すなわち「女性性」と「男性性」―が対比的に描かれている。あるいはそれは、「生」と「死」の対比であるのかもしれない。

それにしても、アスコリドフにとっては、女性性とはまずもって「母親になる」ことであったらしい。「子供を産むのは女の義務」というマリヤの言葉に対して「古い考えよ」と一笑したワヴィーロワも、出産後はコミッサール時代の勇ましい面影をなくし、母性に満ちたたたずまいを見せる。「ズボンをはいても女は男にはなれない」とエフィムの言葉にあるように、男性性を表すズボンは、ワヴィーロワが出産の準備に入った段階で脱ぎ捨てられるのだ。子供を産むことが女性性を呼び覚し、それまで男性の世界にいたワヴィーロワは徐々に女性の世界へ、「生」の世界へと引き戻されていく。

だが最終的にワヴィーロワは、エフィム一家の元に子供を残し、コミッサールとして再び前線に戻る。何故なのか?母性に目覚めたワヴィーロワは、もはや戦争に反対するのではなかったか…。

ワヴィーロワの決断は一見、不可解だけれども、ここにアスコリドフの狙いがあったのかもしれない。つまり、それは「民族の融和と連帯」という「おとぎ話」を「真実」にするための決断だったということ。彼女が当初抱いていたはずの夢を、現実のものとする決断だったのである。ワヴィーロワの出立とともに流される革命歌《インターナショナル》の、トランペットで奏でられるその高らかな響きが何よりもそのことを物語っているではないか。もちろん、この旋律の挿入は、むしろ革命の失敗を皮肉るものと捉えることもできる。でも、それにしてはあまりにも無作為だ。ここまで、ユダヤの民族音楽から無調や噪音を使った現代音楽まで、時にはアイロニックに音楽で画面を意味付けてきたシュニトケが、このように細工なしのストレートな音色で仕掛けてくるだろうか。赤軍の旗を映しながら。

従来、女性は銃後の世界を生きるもの見なされていた。戦争で戦う夫の帰りを待つ妻として。子供を育てながら‥。だが、ワヴィーロワは母親になった後でさえ―母性を獲得した後でさえ―、前線に立つことを選んだ。いやむしろ、母性がその決断を後押ししたのかもしれない。その決断によって、戦争や差別といった暴力を先頭に立って封じ込めるものとしての女性/母性の存在を描いたとも言える。

一方で、ここに描かれた女性像には違和感を覚えなくもない。「戦争へ行く男性と子供を産む女性」といった性別による世界の線引き、役割分担のようなものが前提にあるように思えてならない。とはいえ、それから半世紀余りを経た時代を生きる我々ならどう描くだろうか。女性、あるいは母性の役割を。

シュニトケによる音楽については先にも触れた。場面ごとに挿入される音楽/音響は実に示唆に富む。けれども、やはり圧巻はワヴィーロワが歌うロシアの子守唄に、マリヤが歌うユダヤの唄が重ねられていく場面だ。二人が口ずさむ歌は異なるようでいて、いつしか重なり合い、溶け合っていく。これはアスコリドフが目指したものであると同時に、ロシアに生を受けつつドイツ語を母語とするユダヤ人、シュニトケの、うちに秘めた民族の多層性と融和への願いでもなかっただろうか。もちろんここでは、それが二人の女性=母親によってなされていることも大きな意味を持っているはずだ。

 (2019/6/15)