カデンツァ|音楽の未来って (5)だから挑め〜コロナ禍での批評考|丘山万里子
音楽の未来って (5)だから挑め〜コロナ禍での批評考
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”
Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
コロナで何か変わったろうか。
変わるだろうか。
その前に、まず。
本誌はこの10月で創刊5周年を迎えたが、皆様のご理解・ご協力あってこそと改めて御礼申し上げます。
毎年10月号で意を新たにすべく記している「批評考」も、これが6回目となる。これまで私はどういう形であっても、幸運にもどこかで批評を書き続けることができたが、この5年、本誌の責任者となってその立場を多少は自覚するようになった。自分の中で変わったように思える部分と、相変わらずだな、と思う部分とがある。
昨年『批評の周辺〜ひるまず、おごらず、つるまず〜』で触れた昨夏のイベント2つ『サントリー芸術財団50周年記念シンポジウム《日本の音楽界の50年とこれから》』と某マネジメント社開催の『SUMMER PARTY《未来を考えヨ!》』は、今も私に問いを投げる。
シンポジウム「専門・権威・エリート」系と原宿パーティー「一般愛されポピュリズム」系に見たのは、教養文化人による啓蒙期が終わり、音楽学者の学問的専門性が権威となる一方で、音楽の商品化と消費を煽る広告の一環として音楽ジャーナリスト、ライターを使い回すようになった音楽業界の現在。
権威とポピュリズムは現代社会の基本動向たる経済優先、すなわち金の流通配分の支配・管理を反映するもので、つまるところどちらも金だ(スポンサー)。
メディアの使い勝手は広告にしかない。
だが従来形のそれは終焉を迎えつつある、とこの時、私は思った。
権威は誰もが好きだし、専門知をありがたがる人々が早晩いなくなるとは思わない。最近、プログラム解説でもWikiのコピペ編集のようなものが出回るようになったが、ゆえにいっそう学的牙城は有用として一角を占め続けるだろう。学歴社会がそう簡単に崩れないように。
一方、原宿パーティーは既存メディアを飛び越え、聴衆に直接届くSNSでの拡散という新スタイルを提示した。必要なのは情報作成スペシャリスト(昔でいうコピーライター)と拡散ツール操作者で、インスタグラムなど繰り日々キャッチーな言葉で耳目をじゃんじゃん刺激してゆくのがデジタル時代の広報。音楽評論家、音楽ライターの従来職種は消え、上記2種技能を備えた才が新たに輩出されてゆくだろう(従来職種からのスライドも含め)。実際このパーティーには、よく見かける音楽ジャーナリストや評論家はほとんどいなかったと思う(私が居た時間内では)。
背後で飲食しつつ(オーガニック食材)のわいわい実演パーティーが醸成するライブ感、演奏者と聴衆の垣根のなさ、親密空間、フラットな共感覚は演奏家をもわくわくさせ、それは当然、音楽界の業務形態、業種へも及ぶだろう(教育その他のお堅いテーマでのトークセッションもあったが、各自の仕事宣伝っぽく、それでも一般客には「偉い人と問題を一緒に考えてる私たち」的共有感が漂った)。
こういう「みんないっしょ、垣根なく楽しく」感に満ち満ちた小さなパーティーをどんどん仕掛け、どんどん拡散し、種々の手間ひまをデジタル化すればそこに関わる人力はスリム化し、音楽ライブパーティーはつる草のように世界を這って行く。デジタル化について行けない高齢層(従来のクラシック享受層)は疎外されようが、どのみち去りゆく「多数」世代(私もその一人)の一部で、そちら向けプログラムを劇場・ホールに適宜用意しておけば良い。
それより「未来」を確保には、小さな親密空間を押さえ、ダイレクトな「特ダネ特報速報」を発信、それへの反応・統計を分析、最適解を導き出せばリスクの少ない興行を打てる。
これはAIの仕事だな。となれば新ビジネスモデルに人力の出る幕はわずか。淘汰、だ。
では、情報誌でなく「批評誌」をうたう本誌、ウェブ媒体にもかかわらず日々更新もせず月一誌面、広告無縁独自チョイスの後追い演奏会評、歓迎されない批判も臆せず掲載なんて、そもそもどんな需要があるだろう?
需要?
そういえば創刊時、本誌を作成のシステムデザイナー(いわゆる若手ベンチャー氏)に言われた。
「ところでこれは何を売るサイトですか?」
私は驚愕した。そういう発想は皆無であったから。
丸一日考えて「良識」と答えた。
「???」
そう、良識なんて何のことか。私だってわからない(が、Messageには今もそう書いてある)。けれど、これはビジネスじゃないことだけは確か。
何を書いても載せても、金は動かないから(Press席をご提供いただいているが)。
だからできることがあろうよ。
など考えるうち、コロナが来た。
すべてが止まった。
集ってはならぬゆえ、人と人との関係もばっさり切られた。
音楽は不要不急、好きなことやって生きてる連中に支援など不要論が巷にこれまたつる草のごとく這い進む。
音楽がいかに社会に大切か?と言われても・・・。
逼迫する財政に悲鳴があがり、場を失った演奏家たちは音楽することの意味、原点を自問してみせる。
ひょっとすると、音楽業界の「意識」がこれで変わるかも、と私は思ったものだ。
私たちがやっているのは(やるべきは)ビジネスじゃなく「文化活動」だった!
演奏会後のCD販売、サイン会サービスから奏者自身にステージで公演予定や CD、書籍の前宣をやらせ(やりたがり)、ロックやポップスの MCにならいトークも定着、音大生のタレント化や大学経営と、全部ビジネスになっていた。国を挙げての「世界戦略」、最新テクノロジーとの提携なんて、まさにその最先端。文化活動こそが、私たちの原点だったのに!
などの反省があったとして、だがそもそもは、「文化」(これに芸術を冠するのがクラシック界のお決まり。ロックを低級大衆娯楽、クラシックは高尚芸術文化など言うヒエラルキーはいい加減捨てたらどうか)とは何かの問いを真っ向からせねばならない、コロナはそう言っているのだ、私たちに。
ではあるが。
「文化」とはなんぞや、など立ち止まり深く考え込んでいたら、音楽現場は回らない。明日をも知れぬ崖っぷちに我々は立っているのだ。それでなくとも自転車操業、漕ぎ続けねば倒れる。まずは満席、どうしたら怯える客を呼び戻せるかに頭を絞らねば。
必死の努力が今も続いており、そこに「ビジネス思考からの脱却を」「そもそも文化とは」など「意識改革」を垂れるなんぞ、高みの見物に等しかろう。
批評誌たる本誌はどこに立ち、何を考え、どう発信すべきか。
ふと、原宿パーティーを思う。
言うまでもなく西洋クラシックは教会、宮廷、サロンで育った文化。
教会は宗教共有快感空間であり現在もそうだ。
宮廷は貴族の特権共有快感空間で、音楽は食卓祭礼装飾品、王室は今日も存続している。
サロンは文化教養人のワイン香水共有快感空間だが、こちらもセレブ・パーティーが継ぐ。
近代以降、市民社会の家庭お友達共有快感へと降りてきて、さらに大容量商い劇場空間すなわち誰もが幾分ハイソ共有快感になった今、次なる私たちの共有快感欲求に似合うのはマック(ファミリー向け)やスタバ(やや大人向け)スタイルだ、とパーティー(@原宿がミソ)は言ったのではないか?
これは今日のクラシック音楽シーンの縮図であり、だからこそ沢山の方向性、可能性、ヒント(縁日演出から地球環境破壊問題まで)があった、と改めて思う。
グローバルのつる草新種にも、ローカルの旧来草の根にもなる。
デジタル技術を賢く使えば、グローバルだのローカルだの分け目なく、どのようにでも伸びてゆく、延びてゆく種がいっぱいここにはある。
要は音楽をどう考えるか、だ。
商品か、人の営為か。
繰り返すが、この先は私の手に余る。
現場の人に任せたい。
突如降りかかったコロナは、肥大しきった巨象のごとく身動きできぬ大容量巨大空間、巨大国際商いを停止させたが、小さな場でのパラパラ集会の復活はそれなりに早かった。
そこに集った聴衆の、数を増やすに腐心するのでなく、その飢餓感、欲求をこそしっかり受け止め、信じたい。
この夏の『日本音楽芸術マネジメント学会第12回夏の研究会』での発言、「再開ありきでなく、無理に進まず、確信を積み上げる」(兵庫県立芸術文化センター/古屋靖人氏)の言葉に強く私は共感した。
次なる共有快感欲求は、おそらく多様な形をとるだろう。
つる草、草の根どちらでもその時々の気分次第で選択するほどに、聴衆は成熟している。若者たちのジャンル越え活動・守備範囲は広い。
批評言語はその時、そんな聴衆の中の一人として「自分の信じる音楽」について語り続けるものでありたい。
目先の利に惑わされず、「自分の確信」(音楽と人との相互の手応え)の累積で現場が立ち上がってゆくように、本誌もまた筆者それぞれが「自分の信じる音楽」についてひたすら書いてゆく場でありたい。
思考を言語化することは、スコアを音響化するのと本来同じ作業だ。
書き手にとっては批評もまた一つの表現であり創造行為で、それは音楽に関わる全ての人々も同じはず。
音楽を音楽たらしめるのは、むろん真正の音楽家の存在と、その存在を社会に向け投げかけてゆく現場の人々の創意創造より他にない。
だからこそ、向き合う私たちは、独りよがりな自己満足に陥ることなく、自分の信じることの「根拠」を伝え、あなたはどう思う?と問いかける、そういう言葉を投げる書き手でありたい・・・5年を経て、私はその難しさを日々痛感するけれど、コロナはむしろ、だから挑め、と背を押す。
さて、5周年記念企画に、『私がものを書き始めたのは』『私が書く理由』をテーマにレギュラー執筆陣がエッセイを寄せている。テーマはメンバーから募集で決めたもの。力作が並んでいるので是非お読みいただきたい。
それぞれが自分の道を模索しつつ歩く姿がここにある。
改めてこの場の意味を自問しつつ、感謝する次第だ。
(2020/10/15)