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清水一徹作品個展演奏会|齋藤俊夫

清水一徹作品個展演奏会

2018年4月11日 ティアラこうとう小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:清水一徹作品個展実行委員会

<曲目・演奏>
(全て清水一徹作曲)
『サルコファゴス』ーヴァイオリン独奏のための(2004/2013改訂初演)
  ヴァイオリン:中澤沙央里
『ダリア』ーヴァイオリンとヴィオラのための(2013)
  ヴァイオリン:中澤沙央里、ヴィオラ:甲斐史子
『パルヴィス』ートランペットとスネアドラムのための(2003)
  トランペット:曽我部清典、スネアドラム:會田瑞樹
『Re;hearse』ー笙と箏、打楽器のための(初演)
  笙:真鍋尚之、箏:平田紀子、打楽器:會田瑞樹
『Die Kontrafaktur II』ーソプラノとヴァイオリン、コントラバスのための(初演)
  ソプラノ:薬師寺典子、ヴァイオリン:中澤沙央里、コントラバス:佐藤洋嗣
『合流点』ートランペットとヴァイオリン、ピアノのための(初演)
  トランペット:曽我部清典、ヴァイオリン:甲斐史子、ピアノ:大須賀かおり

 

日本現代音楽シーンの異才、清水一徹の初の作品個展、さて一体どのようなものになるかと興味津々で訪い、その音楽の喚起するイメージに圧倒された。

古代エジプトで用いられた石棺を意味する題名『サルコファゴス』、冒頭の、開放弦での可聴限界の弱音が持続音として全曲を支配する。左手で弦を叩く奏法がまばらに現れたり、グリッサンドやトレモロで音が動く部分もあるも、冒頭からずっと奏し続けられる持続音の存在を揺るがすことはできない。「冷たい石棺のような持続音」とは作曲者自身のプログラムノーツの言であるが、石棺に閉じ込められたのは我々聴衆ではないだろうか。

ヴァイオリンとヴィオラによる『ダリア』、奏者2人のお互い4分音ズレたロングトーンによる冒頭から、ヴィオラのかすれた弱音のロングトーンで終わるまで、きしみ、ぶつかり合い、決して安らぐことのない、音楽的喜びを拒絶し、音楽によって苦しませるような空気が会場に充満した。

トランペットとスネアドラムのための『パルヴィス』も、トランペットは唇を震わせることのない息の音、スネアドラムはブラシで膜面をこする音という、「生き生きとした音楽」というような通常の音楽とは次元の異なる音で始まる。スティックによるスネアのロール強打や、トランペットのフラッターツンゲの強音、またスネア奏者がドンドンと足を踏み鳴らすなど、2人で荒ぶる部分も多いが、最後にはトランペットがかすれた音で下行して全てが静止する、もはや動かぬ亡骸となったかのように。

「霊柩車」の英語であるhearseにRe;を付け加えることで「日々走り続ける霊柩車=繰り返される死」をイメージさせたという(作者プログラムノーツより)『Re;hearse』では小太鼓(スネアドラムのスネア~響き線~を外したもの)をマレット、あるいはスティックで淡々と拍打ちする音が全曲の持続音となる。その持続音を基調に、笙の単音と和音のロングトーンを中心軸に置き、箏と各種打楽器の短い音がその周りを彩る――いや、彩るというより、死化粧をするかのように鳴る。後半、「ウオオオオオオ」と人声のような音をたてるスプリングドラムが鳴らされ、笙に黒い布が被されたり、小太鼓が突然リムショットの強烈な一打を差し込んだりし、そして脈が止まったかのように小太鼓の拍打ちが止まり、笙の和音で静かに終わる。

『Die Kontrafaktur II』は世界最古の(歌詞も遺されている)楽曲とされているギリシアの『セイキロスの墓碑銘』という旋律を主題としてソプラノが冒頭で独唱し、それを3人で変容していく作品。冒頭の独唱こそ「美しい」ものであったものの、その後はヴァイオリンが可聴限界の弱音を鳴らし、ソプラノ奏者が吊るした木板を木槌で叩き、コントラバスも弾くのではなく打楽器のように表板と指板を手で叩く。このような不気味な合奏の中でソプラノの歌も歪んでいく。コントラバスがスル・タスト(駒のごく近くを弓奏する特殊奏法)で軋んだ音をたててディミヌエンドし、しばらくのゲネラルパウゼの後、ソプラノが紙をクシャクシャと音をたてて潰しながら、レチタティーヴォとも呟きともとれる発声(歌声、とは言えないだろう)をし、コントラバスが楽器を叩き、ヴァイオリンがピチカートを爪弾き、紙を潰す音がディミヌエンドしていき、了。

最後の作品『合流点』も、ギリシア神話である冥界の川の合流点を指し、やはり死のイメージが強く刻印されている。トランペットがベルをピアノの弦に向けて強く吹き、弦を共振させて始まるが、3人がいずれも断片的な音型のみを奏し、しかしそれが奇妙なアンサンブルをなす、つまり各楽器の川がアンサンブルとして合流するのである。ピアノがペダルを何回も足踏みして打楽器の拍打ちのような音を出し、かつ弦を震わせるのが強迫的な感覚を呼び起こす。最後はフリージャズのセッションのような激しい音楽と思いきや、ピアノがペダルを踏み、それによる弦の共振が消えゆくのを聴き届けて、全てが終わった。

全体に通じるイメージは「死」であり、その「死」も、救いのある死ではなく、「恐怖と共にある死」かつ「死後なにもない死」であった。その恐ろしさにおののきつつ、これほどの音楽を書ける作曲家が現代日本にまだおり、その作品を見事に演奏できる奏者も共にいることの嬉しさを胸に帰路についた。

(2018/5/15)