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日本フィルハーモニー交響楽団 第700回特別記念東京定期演奏会|齋藤俊夫

日本フィルハーモニー交響楽団 第700回特別記念東京定期演奏会|齋藤俊夫

2018年5月18日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目:演奏>
指揮:アレクサンドル・ラザレフ

セルゲイ・プロコフィエフ:『交響的協奏曲 ホ短調』
(アンコール)パブロ・カザルス:『鳥の歌』
 チェロ:辻本玲

イゴール・ストラヴィンスキー:『ペルセフォーヌ』(日本初演)
 ペルセフォーヌ(ナレーション):ドルニオク綾乃
 エレシウスの祭司ユーモルプ(テノール):ポール・グローヴス
 合唱:晋友会合唱団(合唱指揮:清水敬一)
 児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)

 

プロコフィエフ『交響的協奏曲』、独奏チェロが延々と約40分熱演するこの作品をなんと記述すべきであろうか。プロコフィエフのメカニカルな(鋼鉄の、と形容したのは誰であっただろうか)音楽をチェリストが自らの肉体を酷使して演奏するその様は、精緻かつ論理的に体系付けられたスポーツのよう。
と書きたかった所だが、辻本玲の熱演、それとオーケストラを調和させたラザレフの采配に落ち度はなかったものの、プロコフィエフが没する前年に書いた本作品は彼の老いを痛感せずにはいられなかった。
本作品は(あくまで作品についての論評であって演奏者たちについてではないことをお断りしておく)ただひたすらにソリストが頑張り続けるだけで、音楽的には、あのメカニカルかつ論理的な「プロコフィエフの面白さ」が消え失せている。楽想が変わっても音の色彩感に変化が生まれず、ソリストとオーケストラが協奏する部分もない。それなのに長い。それはスポーツに喩えるならば、四死球や失策が続きながら無駄に試合時間が長引いてる野球の試合のごとし。晩年のプロコフィエフ、枯れてこそいないが、「あの天才プロコフィエフ」ではなくなっていたのか、と寂しい気持ちで聴き終えた。
ただ、辻本のチェロは本物であり、ホールに鳴り響く強音の迫力、重音を多用しつつさらに全ての弦を使って高速で動く第1楽章のカデンツァなどは、彼がプロコフィエフの音楽を血肉としていることをはっきりと示していたと言えよう。

後半はストラヴィンスキーのメロドラマ(ギリシア語のメロス<歌>とドラマ<劇>の合成語)『ペルセフォーヌ』の日本初演である。
テノールの朗々たる歌声に、軟らかい音質・抑えた音量での、古代ギリシアと現代との距離を表現する空気遠近法とも言うべきオーケストラの音響にまず引き込まれた。断片化された各パートをパズルのように組み合わせて1つの音楽にしなければならない、ストラヴィンスキーの複雑な管弦楽法を正確に構築したのには、ラザレフの繊細かつ理性的な一面を改めて確認させられた。ペルセフォーヌが冥界、死者の国に降りてからの「死者の音楽」あるいは「冬の音楽」の暗さと冷たさ、ペルセフォーヌが地上に戻っての「春の甦りの音楽」の明るさと暖かさなど、場面ごとのオーケストラと合唱群の音楽像の変化も劇的であり、演奏会形式ながら(本作品は本来はバレエが加わる)神秘的な「メロドラマ」が見事に成立していた。
疑問を抱いたのはペルセフォーヌ役のドルニオク綾乃の朗読である。女優かつソプラノ歌手でありながら、声をマイクで集音しスピーカーから発音させる必要があったのか、ということがまず1つ。そして、歌唱ではなく朗読でも必要なはずの演技力が不足していたのではないか、ということがもう1つの疑問である。春に遊ぶペルセフォーヌ、冥界の亡霊たちを前にしたペルセフォーヌ、闇の中の愛の光となるべく冥界へと降りていく終幕のペルセフォーヌ(これはギリシア神話原典にはない、台本のアンドレ・ジイドが付け加えた解釈である)、それぞれの演じ分けができていたようには筆者には思えなかった。
あるいは、オペラ的な「演技過剰」になるのをラザレフが嫌ったゆえの控えめな朗読だったのかもしれないし、オーケストラと合唱群の遠近法に対して朗読だけが接近してしまってはいけないとの判断だったのかもしれない。だが、筆者には疑問がしこりのように残り続けてしまったのは事実である。

高音がゆっくりとディミヌエンドし、指揮者が両腕を広げたまま静寂の中で静止して、暫くして腕を下ろして終演を迎えた。評価の定まった曲目に甘んじることのないラザレフの探求心・冒険心は大いに買いたい。冒険に出ても宝物が見つかるとは限らなくとも、筆者はなおそれに付き合いたいと思う。

関連評:日本フィルハーモニー交響楽団 第700回 特別記念東京定期演奏会|藤原聡

(2018/6/15)