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イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル|藤原聡

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル

2018年12月8日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ピアノ:イーヴォ・ポゴレリッチ

<曲目>
モーツァルト:アダージョ ロ短調 K.540
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
シューマン:交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)

 

ここのところ毎年12月に来日することが慣例化しつつあるポゴレリッチ。周知のように、かけがえのない師でありそして妻でもあったアリス・ケゼラーゼが1996年に亡くなってからしばらくのポゴレリッチは精神的なダメージから演奏活動を休止するに至る。一時は完全引退説すら流れたこのピアニストが再び日本の聴衆の前に姿を現したのはそれから9年もの歳月を経た2005年。この時のあまりに異様な演奏については既に多くが語れているゆえ詳細には触れぬが―勿論筆者も聴いている―、この時のポゴレリッチは聴衆とコミュニケートする意志なぞ全くなく、完全に無限回廊の如き内なる精神の牢獄に閉じ込められていることがありありと見て取れた。これは一種の地獄だ。
そんなポゴレリッチもその後再びコンスタントに来日を重ねるようになり、当初は東京でのただ1回のみのリサイタルを行なっていたところ東京以外の場所をも含めその回数も次第に増えて行き、演奏もかつての覇気と生気が次第に蘇る。ホールの照明を極端に落とし、ピアノの周辺のみぼんやりと明るい、まるで特異な宗教めいた儀式のような雰囲気を醸し出していたサントリーホールも年を追う毎に明るくなっているのはほとんど彼の内面世界のありようと軌を一にするようだ。冒頭に記した「毎年の来日」は、その都度ポゴレリッチという個体が一体どのような「変質」を遂げるか予想が付かないが、予想が付かないものは興味深いので私はポゴレリッチのリサイタルに通う。

前口上(シューマン的な言い方だ)はさておき、この日の演奏について記す。1曲目はモーツァルトの『アダージョ』。まるで1つ1つの音の響きを自らがゆっくりと反芻しながら微速前進するような演奏になっていて、これは最近のポゴレリッチの演奏に共通する特徴。
ここで彼の直近の演奏について全般的なことを書くならば、相対的には以前より概ねテンポは速まっており、そして速い部分は通常の意味で速いので、全体としては標準的な演奏よりは遅いものの復帰後しばらくの演奏がひたすら超スローテンポであったのと比較すればかなりメリハリが付き律動感の感じられる演奏となっていることが多い。
しかし、このモーツァルトは元来がこの作曲家の作品としても極めて重々しく悲劇的な表情を纏っているとは言え、ここでのポゴレリッチの演奏はその悲痛さを極度に拡大して再現している。当然ではあるが演奏者は遅くすること自体を目的に弾いている訳ではなく、楽曲のイデーを現前させようとしている。ポゴレリッチの解釈の方向性は、復帰直後の演奏のように自分に向いている訳ではなく明確にモーツァルトに向かっている。なるほど表面的には特異な演奏に違いないが、古典派の時代性を超越しているこの作品と不思議な共振を見せる。

モーツァルトが終了しても微動だにせず、ややあってからそのままリストが開始される。あまりテンポのことばかり書くのも何だが、通例30分前後で弾かれる『ロ短調ソナタ』が45分掛けて弾かれた。そのアーティキュレーションは極めて独特であり、さらには全曲に渡る巨大な造形と休符を媒介とした音と音の関係性への否応ない意識の誘導が物凄い。このテンポでそれをやろうとしても凡庸なピアニストであれば弛緩と隣り合わせだろうが、ポゴレリッチの場合音楽は決して拡散せず内部へ凝縮して行くのではそうはならない。掛け値なしに圧倒的な演奏ではあるのだが、ただそれは必ずしもこの曲の緻密な構成を敷衍する形では行なわれておらず(この演奏を聴いても曲の「かたち」が意識に上って来ない。ちなみにそれを強く感じさせるのはツィメルマンの演奏だ)、多分にポゴレリッチという鬼才の単独性の魔力の元にねじ伏せられている印象がある。もちろんリストの音楽にはディアボリックな要素があり、それはある意味で本質的な部分ではあるのだが、しかしこの演奏ではリストを置いてきぼりにしている感も否定できない。
もとよりこのマニエリスティックな態度は「遅れて来たロマンティスト」ポゴレリッチの特質でもあるのだが、しかし録音に聴く『ロ短調ソナタ』はより全体的な構成と独自性のバランスが取れていた。ポゴレリッチの本質は恐らく昔から変化していないのだが、今はその表現の振れ幅が時に極端となる。
しつこいようだが、こんなに強烈で凄い演奏は決して他では聴けないのだが、しかし手放しで賞賛するのを拒む要素がある。感動、というのとも違う。いやはや厄介だ。「正しくないもの」に魅了されるこの危険性。

前半だけで聴衆に極度の集中と緊張を強いたこのリサイタルは、しかし後半にはシューマンの大曲、『交響的練習曲』が置かれる。事前に5曲の遺作付きとのアナウンスがあり、これをどこにインサートするのかがなかなかに興味深いのだけれど、何とポゴレリッチはいきなり冒頭にこれを置いた。
つまりあの主題提示の前に遺作変奏曲が来るのだ。これには意表を突かれる。ここではとりわけ第5変奏での印象的な下降する高音にポゴレリッチのタッチの特質たる芯の太く強靭で、しかし不思議な柔らかさもある独自の音色が感じ取れ、これは本当に幻惑的と言うしかない。そして現行版の演奏は通常の意味で推進力もあり、第2練習曲では相当にメランコリックな沈滞を聴かせるも、第5や第6練習曲はリズミカルで快活ですらある。このシューマンの演奏はポゴレリッチの独自性について行けぬ聴き手をも納得させる名演奏だったと言えるのではないか。

アンコールを弾くことの多いポゴレリッチだが、この時も楽譜に「SIBELIUS」の文字が辛うじて見えたので(『悲しきワルツ』?)恐らく弾くのだろうと思いきや例の椅子をピアノ下に蹴り込む「終わりです」儀式ののち終了。いや、この重さのプログラムに演奏、結果的にアンコールは不要でした。終演は21:40。

(2019/1/15)