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井上道義&読売日本交響楽団 マーラー/交響曲第8番『千人の交響曲』 | 平岡拓也

東京芸術劇場presents 井上道義&読売日本交響楽団
マーラー/交響曲第8番『千人の交響曲』

2018年10月3日 東京芸術劇場 コンサートホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ソプラノ:菅英三子、小川里美、森麻季
コントラルト:池田香織、福原寿美枝
テノール:フセヴォロドグリヴノフ
バリトン:青戸知
バス:スティーヴン・リチャードソン
合唱:首都圏音楽大学合同コーラス(合唱指揮:福島章恭)
児童合唱:TOKYO FM 少年合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:小森谷巧
指揮:井上道義

<曲目>
マーラー:交響曲第8番 変ホ長調「千人の交響曲」

 

同じ演目が奇妙なほどに短期間に重なる―という現象は、一定以上の頻度でコンサート通いをしている方にはご理解いただけることだと思う。ある時はブラームス「ドイツ・レクイエム」であったり、来年はハンス・ロットの交響曲であったり―。今年は、マーラーの第8交響曲がその「現象」に当てはまった。9月末に九響、京響、10月に今回取り上げる読響、名フィルが演奏し、来年1月の東フィルもこの一波に含まれると捉えて良いだろう。アマチュア・オケを入れると更に数は膨らむ。

東京芸術劇場主催による本公演は、2018年から2020年にかけて行われる「マーラー シンフォニーセレクション in 芸劇」という企画の第1弾として打ち出されたものらしい。同ホールと事業提携を結ぶ読響、「シアターオペラ」で数々の演目を指揮してきた井上道義が管弦楽を固め、幅広く招集された歌手陣と首都圏音大の合同コーラス(この企画は『音大オーケストラ・フェスティバル』をも彷彿とさせるではないか)が加わる。さてマーラー畢生の大作、肝心の演奏は如何に。

オルガンと低音による豪快な主調の提示に続き、混声合唱が渾身の力で吼える第1部。ややもすれば大音響の波状攻撃となりかねない楽曲だが、ヴェテラン井上道義は声楽と管弦楽を冷静に統率した。自由奔放に見える指揮だが、アンサンブルの難所ではきっちりと振って合奏を引き締めていた。もっとも、読響の自律的な合奏力とコンサートマスター(小森谷巧)の献身的なリードにも依るのであろうが。
オルガンの正面に金管バンダが並び、壮麗に吹き鳴らして第1部を閉じると、暫し休憩して第2部へ。ここで声楽陣に動きがあった。合唱前に一列に並んだ独唱(コロスの代表という位置付けだろう)のうち男声歌手は指揮台前方へ移動し、ソプラノ1、2の位置も交代。またL側バルコニーに配された小女声合唱(『より若き天使たち』を担当していた)は黒の上に白い衣装を羽織った。演奏が始まって以降も、パートを絞って歌われる箇所はそのパートだけを起立させ歌わせ、字幕の色も役柄毎に描き分けるといった采配が見られた。井上が第1部・第2部をはっきり区別しているのはこうした細かな拘りから明らかだろう。厳密なソナタ形式の交響曲たる第1部は声楽・管弦楽を引き締めてストレートに構築し、オラトリオ的な性格を強める第2部では各独唱・合唱の役割を柔軟に描き分ける。管弦楽は支えに徹し、楽曲を有機的に結び付ける役割を見事に担っていた。前面に踊り出て威圧させるのではなく、あくまで全体の構築の一要素として絶妙なバランスで響かせた井上の見識、手腕に拍手を送りたい。安定した技量の管・打楽器、骨太で厚みある弦を全篇で響かせた読響の水準にも目を見張るばかりだ。

これだけの大所帯ゆえ致し方ないことだろうが、声楽陣の出来はムラがあった。個々の独唱に引き込まれる箇所は多い(ただし一部男声独唱者は、バランス的に歌に過酷な場面では明らかに力を抜いたようだ)のだが、いざアンサンブルになると一部配役に首を傾げざるを得ないというのが正直な印象だ。例えば、第2部終盤の「神秘の合唱」で薄氷を踏むような最弱音を担うソプラノ1・2に全く声質の異なる歌手を配するのは果たして得策だっただろうか?一方で、前述したソプラノ2人の位置の入れ替えは、ソプラノ1、アルト2人の緊密な連携を要する“Die du großen…”において功を奏した。独唱3人が等距離でアンサンブル出来るようになるわけだから。独唱でもっとも感銘を受けたのはアルト1の池田香織(先日九響でアルト2を歌ったばかりだという)で、合唱の中から静かに浮かび上がる彼女の“kein Engel trennte…”は凄味十分、重唱箇所も特筆すべきバランスの良さで客席へ届いた。
首都圏音大の合同コーラスは若々しい威勢の良さで押すかと思いきや、思いの外第2部の静謐さ(人数が減ると音程が僅かに気になる瞬間もあったが)などかなりの仕上がり具合。「神秘の合唱」冒頭の最弱音は更なる繊細さを求めたかったが、まず健闘であろう。
最後になったが、忘れてはいけないのがTOKYO FM少年合唱団の名唱だ。変声前の少年達による溌剌とした歌はそれだけで意義がある。日本でマーラーのこの作品が演奏される時、多くは児童合唱を起用するからだ(筆者も少年合唱による実演を聴くのは恐らく今回が初めてである)。当然マスキュリズム的な視点ではなく、芸術的な結果の相違であり、その優劣を論ずる意図もないのだが。

(2018/11/15)