カデンツァ|戦後75年 継ぐ・伝える|丘山万里子
戦後75年 継ぐ・伝える
Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
私事に徹することをお許し願う。
戦後75年、戦争体験世代はもはやわずかになりつつある。「継ぐ」というけれど、何を継ぐのか。ふと、亡父母の若かった頃の文章があるかもしれない、と国立国会図書館の資料を検索したら、それぞれ1篇見つけた。
父のは1939年『少女の友』(実業之日本社)、早大卒入社後の24歳だ。
《光》というタイトルだし、少女雑誌だからロマンティックな文を想像したが、手元に届いた紙片は、憂い顔少女の絵に添えられた短歌3句で、当時病床であったらしい父親に寄せたものと思われる。息子の出征式(1940)、着物姿で一人肩を落とす祖母の写真を見たことがあるから。私は祖父を知らない。
母のは1955年『オール生活』(出版同じ)で、復員した父と職場結婚後。<生活コント>とあり《百万円の名案とその行方についての物語》。これだけでいかにも母らしく、さもありなんの文章だった。話は頓田夢子夫人考案のおしめ干器での一攫千金夢物語。姑との確執にもめげず、次々新アイデアを思いつき常に何かを書いている熊本烈女であった。
戦時の事はそれなりに聞いたが、子供心に嫌だった。軍隊の話、そして軍歌は特に。
だが記憶にしみついたことは確かで、私が権力や暴力を嫌うのはそこから滲んでくるものだろう。
戦時と初めて向き合ったのは『山田耕筰論』を書く中、山田の足取りを追い旧満州の旅をした時だ。大連駅、満鉄本社、ヤマトホテル。日本のインフラはすごい、今も使える、と旅団の誰かが言った。大連は武満徹が幼少期を過ごした地。瀋陽(奉天)には愛新覚羅溥儀の故宮があり、かつて満州交響楽団を抱えた音楽都市、小澤征爾の生まれ故郷だ。父開作は王道楽土、五族協和を説く「満州青年連盟」の中心人物だった。長春(新京)は満州国の首都、日本軍が作った傀儡皇帝溥儀の宮殿がある。寓居は日本軍支配の資料館になっており凄惨・残虐のパネル展示が並ぶ。満州映画協会すなわち満映があるのもこの都。文化宣撫工作のトップは甘粕正彦であった。
彼の地で日本が、山田が何をしたか。日本で読み込んだ資料など薄っぺらい。ぐさぐさと心身を切り刻まれる旅だった。
最後のハルビンへは飛行機で飛んだ。ロシアの香り高い瀟洒な美しい都で、エレクトーンとサックスのストリートミュージシャンが私たち日本人客を見て『北国の春』を歌ってくれた。周囲の人々も声を合わせて。お礼に私は旅で友となったシャンソン歌手と『浜辺の歌』を披露した。朝比奈隆はこの都で終戦を迎えている。
帰国の日、ハルビン空港ロビーで見たTV大画面には、韓国と北朝鮮の両首脳が抱擁しあう姿があった。
カンボジアを訪れたのは、父の詩句に、終戦詔勅を聞いたクラコール「背後にまんまんたるトレンサップ湖、彼岸にははるかアンコールワットの大遺跡があるときく」(『錆びたコルト』)があったから。山田耕筰を書き進む中で、昔、手渡された戦記2冊(二見書房/1970)のページを初めて繰り、後記に付された数編の詩の中に見た。ラングーンで抱いた慰安所の女、広島の芸者喜代美18歳も(『祖国喪失』)。20代の5年5ヶ月前線を転戦、敗戦を前に次々友は自爆、あるいは新兵が特攻で散った(加藤隼戦闘隊所属)。最後に父が見た景色はどんなだったか。眼下の湖はただ碧青と広く明るかった。
* * *
この6月半ば、原爆の図丸木美術館に行ったのは、父が手がけた丸木俊著『生々流転』(1958)への気持ちもあった。
俊の奔放な人生流転記はその後新たに『丸木俊 女絵かきの誕生』(日本図書センター/1997)として編み直されたが、それでも、俊の語りに耳傾ける父の姿が浮かぶような音調がある。俊は原爆の図の第1次日本全国巡回時(占領下1950)に、絵の前に立ち、見に来た人に問われるまま話をした(以下、前掲書より引用)。
「ちょうどそのころ、まだひろしまに兵隊がいました。この惨状を日本人に見せると士気がくじけるというので、急いで片づけるために、トビ口や三またのようなもので死体を山のようにつみあげては、ガソリンをかけて燃やしていたのです。その中には、まだ生きている人もまじっていたのです」
と三部『水』の図の説明をしていたときのことです。
「わしは軍人じゃったが、そのようなひどいことはせなんだ」と、叫ぶ人がいました。
「いいえ、わたしは知っているのです。」
絵の前で論争がはじまりました。位里は、
「よけいなことを言うからこんなことになる。黙っていなさい」とまた言いました。わたしは文章を描いて説明の代わりに張りだすことにしました。
彼女の語りには、一種の憑依があったと思われる。著を読んでいるとそれが生々しく伝わってきて、虚実ないまぜの世界が浮かんでくるのだ。位里のように対象と距離を置くことをせず、図の中に「投身」してしまうのは、彼女が寺の娘であったこととも深く関わる気がする。
説明つきの絵の展示は「純粋性を欠く」との批判に彼女は言う。
「絵で言い足りないところは、口で伝えねばならなかったのです。それでもまだ足りないところは、書かねばならなかったのです。なんとかして、一人でも多くの人に、ひろしまの真実をつたえたかったのです。それが、どうして純粋ではないのでしょう。芸術とは何なのでしょう」。
俊が位里を追い、広島に入ったのは投下から半月後とされる。位里が故郷の父母、家族を探しあてたのは6日から4、5日後で、夫妻に直接被爆体験はない。原爆の図の前に立つ俊は、実際はこんなものではなかった、の批判も浴びる。美しすぎる、とも。
私は2階に展示されている原爆の図全14部にきちんと向き合うことはできなかった。『幽霊』『火』『水』から『救出』まで8部はとりわけ描かれた凄惨にすぐと目を背け、『母子像』『米兵捕虜の死』『からす』でも視線が泳ぐ。階下の『南京大虐殺の図』『アウシュヴィッツの図』『水俣の図』『沖縄戦の図』もそこそこに、没後10年企画展『砂守勝巳写真展 黙示する風景』に逃れた。
砂守勝巳(1951~2009)は8歳で生き別れた軍属フィリピン人の父と奄美大島出身の母の間に沖縄本島で生まれた写真家(以下、ゲスト・キュレーター椹木野衣の解説パンフから拾う)。15歳での母の死とともに奄美から大阪へ、プロ・ボクサーを経てカメラ好きの父への思慕から大阪写真専門学院で写真を学んだ。展示は広島の朝鮮人被爆者スラム街、多くの被爆者が流れた釜ヶ崎、雲仙・普賢岳被災地(島原)、そして沖縄を撮った未発表作品を含む約100点。
その写真群は原爆の図での私の「いたたまれなさ」を静かに受け止めてくれるように思われた。社会派とは一線を画し釜ヶ崎にも暮らした砂守が切り取った風景——路上の人々、焚き火、炊き出し、バラック、路地、洗濯物、瓦礫ーーそれら一つ一つが内側から無言で私のいたたまれなさを肯うようだった。
ひとしきりそこで時間を過ごした後、再び2階に行こうと思ったのはなぜだったか。
俊はその後、世界各地の巡回とともに加害者たる日本に向き合うことになる。広島の朝鮮人被爆者、チャンギで虐殺されたオーストラリア捕虜、ニューヨークでは米兵捕虜、そして南京虐殺。原爆を落とされたのは当然、と言うアメリカ女性に彼女は応える。
「パール・ハーバーはほんとうに悪いことでした。けれど、ひろしまではアメリカの兵隊さんも死んでいるのですよ。あなたがたの落とした爆弾であなたがたの息子も死んでいるのですよ」
知らなかったとうなだれるアメリカのおばさんと、日本のおばさんの間の距離は縮まり、痛手を受けた二人の女は黙って考え込んだと俊は述べる。
被害から加害へと目を転じた時、彼女に何が見えたか。
『米兵捕虜の死』にあたって全裸でポーズをとってくれた金髪女性の美しさに圧倒されつつ「わたしは脈が音をたてて打つのを聞きながら、息を押さえて描いてゆきました。」
「むかしむかしの人間が、はじめて見る異国の人を鬼といったり、人魚といって恐れ、また捕えてはずかしめたりむごい殺し方をした話をききます。あの虐殺のサディズムの心理がわかるようにさえ思えたのです。美しいもの、珍しいものを、愛したい心と破壊したい心がひとつになって存在する、あるときは喜びの愛撫となり、あるときは怒りの殴打となる、この人間のうちにひそむ心理を利用して、権力を握ったものが人びとを集めて侵略の方向に向けさせたのです。戦争とはそういうことであったのでした。
ひとたび正義という名が成立したとき、公然と虐殺の火ぶたがきられるのです。それはむかしの話ではなく、ひろしまのときも南京のときも、アウシュヴィッツのときも、チャンギのときも、そうしてベトナムのソンミのときもあったのです。」
* * *
今、コロナ禍にあっていっそう露わになった世界各地での差別偏見とともに、日本での医療従事者、感染者とその家族、夜の街の人々などへの村八分的振る舞い、自粛警察だの見るにつけ、それを「個」の欠如たる同調圧力、社会構造の相違で語ることに私は疑念を持つ。西欧で見られる医療従事者への一斉エールの美しさに、日本の相も変わらぬ村社会的民意の低さを指摘するのはたやすい。
だが、どの時代も社会も民族も必ず内に暗部を抱え、それは時々の権力によって見え方が異なるだけで、「愛撫と殴打」は人の持つ本源的な衝動なのだ。俊ははっきりとそのことを体感した。
だからこそ彼女は描き続けた。
『米兵捕虜の死』に立ち向かいそれに集中すればするほど、位里は風のように遠のいていったという。
ここで紹介した俊の言葉は、前述したようにおそらく虚実ないまぜだろう。研究書にあたれば、それが知れる。だが虚実であることが、そのまま彼女の真実であったと思う。
人間の歴史が物語るように、私たちは決して私たちの中の「愛撫と殴打」の本源的な衝動を駆逐することも、飼いならすこともできないだろう。衝動とは、体内にむくむく湧き上がってくるもので、何かの契機でたやすく暴発する。法や倫理で制御困難な何かであると、俊は金髪モデルの美しい肉体に直覚した。
「愛は抱きしめる。愛はまた絞め殺す。それは同じ運動である」(アラン『プロポ1』みすず書房)
だが人はそれを自覚せよと、言い続けることはできる。
「なんとかして、一人でも多くの人に、ひろしまの真実をつたえたかったのです。」
真実が何であるか、など、誰にもわからぬことだ。
それぞれに、それぞれの抱える真実がある。
それをただ差し出すこと、それぞれの想いとそれぞれのやり方で伝えようとすること。
私たちにできるのはそれだけだが、それが私たちの身裡に潜む本源的な衝動をいくらかでも引きとどめる力になろうことを願うばかりだ。
出版記念祝賀の屏風前で花束を受けとった俊の笑顔と手の柔らかな温もりが、よみがえる。
その役目を娘に託した父の想いを、60年の時を経て今、私は知る。
(2020/8/15)
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◆『砂守勝巳写真展 黙示する風景』
@原爆の図丸木美術館
〜8/30まで
◆『墨は流すもの―丸木位里の宇宙―』
@奥田元宋・小由女美術館
〜8/16まで
@一宮市三岸節子記念美術館
前期9/1〜 9/22 後期9/24〜10/11
@富山県水墨美術館
11/13 〜 12/27
◆『赤松俊子とモスクワ1938-1941』
@原爆の図丸木美術館
9/12〜
参考文献
『丸木俊 女絵かきの誕生』丸木俊著 日本図書センター(1997)
『原爆の図』小沢節子著 岩波書店(2002)
『ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界』本橋 成一著 晶文社(1987)
『《原爆の図》のある美術館 丸木位里、丸木俊の世界を伝える』岩波ブックレット No.964 岡村幸宣著 岩波書店(2017)
『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』岡村幸宣著 新宿書房(2020)
『いのちあるものたちへの讃歌 丸木俊・スマの世界』ブックグローブ社(2007)
『加藤隼戦闘隊の最後』粕谷俊夫著 二見書房(1970)