庭と音楽2020 吉田誠クラリネット・コンサート「風の息、呼吸する音 藤原道山・吉田誠」|能登原由美
庭と音楽2020 吉田誠クラリネット・コンサート「風の息、呼吸する音 藤原道山・吉田誠」
2020年9月20日 ながらの座・座
2020/9/20 Nagara-no-zaza
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:ながらの座・座
<演奏> →foreign language
クラリネット:吉田誠
尺八:藤原道山
<曲目>
Scene 1
1. 原曲作者不詳・初代中尾都山編:鶴の巣篭(原曲18世紀中頃)
2. ギョーム・ド・マショー:モテトゥスより(14世紀頃)
3. C. P. E. バッハ:デュオ(18世紀頃)
4. 初代山本邦山:二管の譜(1975)
〜〜休憩〜〜
Scene 2
1. フランシス・プーランク:2本のクラリネットのためのソナタ(1919)
2. 藤倉大:Crossing Pass(2016)
3. 諸井誠:対話五題(1965)*
〜〜休憩〜〜
Scene 3
1. 藤倉大:Turtle Totem (2019)
2. 藤原道山、吉田誠による「庭」をテーマとした新作(2020/世界初演)
藤原道山:「遊びの庭」
吉田誠:「a small world under the water」
3. 藤倉大:Twin Tweets ―尺八とクラリネット版(2019/世界初演)
4. 初代山本邦山:尺八二重奏曲第四番(1976)
〜〜アンコール〜〜
武満徹(藤原道山編):小さな空
*本作品の作曲年については、ながらの座・座 庭と音楽2020|丘山万里子 を参照のこと。
半時ほどであっただろうか。耳に流れ込むあらゆる音の感触をもてあそんでいた。庭先のあちこちに潜む虫の音、遠くの木々にこだまする鳥の声。池中を悠々と行き交う鯉は不意をつくように時折水しぶきをあげる。開演までまだ30分以上。庭に向けて開け放たれた広い座敷の上では、いち早く訪れた人々の話し声がぼそぼそと聞こえてくる。それらは次第に数を増していき、外界の音と緩やかに交じり合いながら響きの渦を形成していく。
滋賀の古都、大津にある「ながらの座・座」とは、登録有形文化財にも指定された橋本家住宅(旧正蔵坊)のこと。すぐ近くに座する三井寺(園城寺)の庫裏の一つで、370年余りの歴史をもつという古庭園と共に貴重な文化遺産となっている。そうした場所の歴史性、希少性を生かすべく、これまで「座・座 古庭園大人ライブ」と銘打った様々な会が催されてきた。
こうして庭を眺めながら開演を待ちわびていたのも、そうした会の一つ。まさに「庭と音楽」と題するもので、クラリネット奏者の吉田誠がこれまで3回に亘り行なったシリーズの、発展版と言えるのだろうか。尺八奏者、藤原道山を迎えて「二つの息の、いまだかつてない競演」という触れ込み。確かに、クラリネットと尺八、生まれも育ちも全く異なる2つの楽器を同時に聴き比べる試みは珍しい。しかも、庭と家屋が渾然一体となったこの空間―自然と人々の暮らしの交差する場所と言っても良いだろう―を舞台とする。この場に宿る「気」が、2つの笛とともに新たな風の息を呼び起こすのではないか。身勝手な想像が胸を膨らませていた。
が、それが良くなかったのかもしれない。少なくともこの後私が体験した音楽は、こうして庭と共有した時間に共振・共鳴するようなものではなかった。言い換えれば、「この庭」であることの必然性を感じることができなかったのである。あるいは、「場所」にこだわり過ぎていたのは私の方であったのだろうか。
全体は、3つの部分から構成されていた。いや、「部分」ではなく「場面」というべきかもしれない。プログラムには、“part” や“section”ではなく、“scene”という言葉が使われていたのだから。「場面」、あるいは「景色」や「風景」などと訳されるこの “scene”を使うあたりに、やはり「場所」への意識が感じられるのだが。それはさておくとして、Scene 1では「各楽器のルーツを探り」、Scene 2では「異なる2つの管楽器のマリアージュ」を目指す。そして、Scene 3 は「未来への挑戦」とある。
そこに「場」を巡るもう一つの視線、尺八とクラリネットの出自となる、洋の「東西」が重ねられる。今宵の宴はむしろ、この「東西」という「場所」に注目すべきだったのかもしれない。
最初の2つのsceneでは、2つの楽器の成り立ち、音色、奏法、楽曲といった特性の違いから融合の可能性をみる。吉田、藤原ともに、若手ながらもその道で名を成しているだけあって、あらゆる技術にも魅せ方にも、あるいは他者と共に音楽をつくる技にも長けている。実に巧い。けれどもその巧さが目の前の「融合」へと意識を向かわせ、それぞれの「ルーツ」への遡及を妨げているように思える。彼らの演奏を前にすると、「東西」という文化の違いもそれほど大きなものではない。そのような気がしてくるのだ。例えば、藤倉大の《Crossing Pass》や諸井誠の《対話五題》など、2つの楽器によって生成される線や響きの葛藤や調和を、「音色やニュアンスが異なる」という点において確かに楽しむことができた。が、果たしてその程度の問題なのだろうか…。
曲間などに挿入された吉田の話によれば、この庭には随所に思想や世界観が散りばめられているという。例えば冒頭、建物の奥から尺八の古典《鶴の巣篭》を奏しながら姿を現した藤原は、池に渡された橋の上を行き来しつつ音を継いでいった。この橋の手前が此岸、対岸は彼岸であるという。この世とあの世、家屋と庭、人々と自然、そして東と西…。この日、ここには様々な「場」があり、その場と同じだけの「境」があったのだ。何よりも、2人の奏者はいずれも、敷居を挟んで座敷の上に譜面を置き、自らは縁側に立ち、まさに「境」の上で終始、音を紡いでいたではないか。
そしてこの「境」こそ、今日最も意識されるべき点であった。いや、実際、それが意識されていたには違いない。けれども、石橋を渡るのと同じく、奏法や様式を近づけることで瞬時に往来できるほど、浅いものではないはずだ。それらの境にある深淵に、もっと目を凝らし思いを巡らす必要はなかったか。たとえ「東西」という違いだけをみるにせよ、数百年の時を経た「この庭」だからこそ宿る様々な「境」への想像力を駆り立て、その深淵に聴き手を誘う必要があったのではないだろうか。
唯一、その「境」が感じられたのは、藤倉によるもう一つの作品、《Turtle Totem》。クラリネット独奏のための本作は、昨年、まさに「この庭」から生み出されたというが、その初演の場を見ていない私は、具体的にこの音楽が何を表しているのかは知らない。けれども、幾何学模様を描き続ける1本の音の絶え間ない動きから、やがて微かな「息」へと収斂されていくその変容の過程に耳を澄ますうちに、木々の葉や水面を揺らす音がそれに呼応しているかのように聞こえてきた。まさに、待ちわびていたのはこの瞬間だったのだけれども…。
奏者の息と、「この庭」の呼吸が共鳴するとき、まだ見ぬ世界の扉はわずかに開かれることだろう。それが稀有なことは重々承知している。けれども、いつかそのsceneに立ち会えることを今は願いたい。
(2020/10/15)
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<players>
Makoto Yoshida (Clarinett)
Dozan Fujiwara (Shakuhachi)
〈program〉
Scene 1
Anonymous: Overture from « Les Horas »
Guillaume de Machaut : Motetus
C. P. E. Bach : Duo
Hozan Yamamoto [the first]:Nikan no Fu
Scene 2
Francis Poulenc:Sonata for 2 Clarinetts
Dai Fujikura:Crossing Pass
Makoto Moroi:Taiwagodai
Scene 3
Dai Fujikura:Turtle Totem
Dozan Fujiwara:Asobi no Niwa
Makoto Yoshida:a small world under the water
Dai Fujikura:Twin Tweets ― Shakuhachi and Clarinett Version
Hozan Yamamoto [the first]:Duo for Shakuhachi No. 4