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ながらの座・座 庭と音楽2020|丘山万里子

ながらの座・座 庭と音楽2020〜風の息、呼吸する音

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

大津駅から歩いて15分ほど、通りを横手に入り、鳥居をくぐった先にながらの座・座がある。関西執筆メンバーが何回か取り上げ、バックステージにも寄稿いただいたサロン・コンサートの場だ。築後三百数十年の庭園邸宅の一部を使う定員40~50名ほどの小さな和空間。コロナ禍であれば東京からの参加は憚られたが、懸念不要との主催者の言葉でいそいそと出かけたわけだ。

もともと天台寺門宗総本山の三井寺の広大な敷地に建つ坊舎であったから、その一画全体に神仏まぜこぜの清冷な霊気が宿る。三井寺は金堂本尊秘仏弥勒菩薩から国宝級密教美術、庭園ほか一千年を超える歴史文化を伝える寺院で、三井の晩鐘など見所も多い。
筆者は早く行き、立ち寄るつもりでいたが、三井寺は丁寧に見ると4,5時間かかるとか。結局、ながらの座・座の周辺をうろついただけで終わった。手前には立派な構えの大津大神宮、なぜか社前には大猫2匹がくつろいで寝そべる。ぐるり囲む長良公園の木々と清流、気持ちいい。座へ曲がる手前の少し先、旧東海道小関越入り口に「かたゝげんべゑのくび」という気になる道標を見つけ調べると、すぐそこ、浄土真宗本願寺派蓮如が泊まった旧跡等正寺にまつわる話。「堅田の漁師源兵衛は、蓮如が法難を受け三井寺に預けた宗祖親鸞の御真影を取り戻すため、自分の首を差し出した」のだそう。うわ、生臭い。その等正寺にも小さな庭園カフェがあるではないか。ちょうどお彼岸であったから、地元の人々が花やお供えを持って墓参に来る。子連れもいる。そんなこんなにとっぷり浸っているうち、開演時間に近くなってしまった。

この小一時間が筆者にとっての『庭と音楽2020〜風の息、呼吸する音』鑑賞に大きかったのは言うまでもない。座の周りの神仏渾然は、このところ考えている日本のリミックス力をまさに実感させてくれるものだし、歴史の中の人影がそのままあたり一帯の民家から人からにつながっていると思え、新幹線での東京人には「どうよ、この地に宿る永さ深さは」と目配せされるような心持ちであったのだ。
靴を脱ぎ、座敷に上がってどんどこ庭園へ、池底が見えるほど近くに陣取ったのであるから、庭を背景の譜面台の位置(演奏者)など、横目で見ることとなった。その位置取りには、今宵はなんたって「庭と音楽」なんだ!とつんのめるような期待満タンがあり、違う位置であればむろん観取が異なろう。
紅葉の緑、さるすべりの紅、みずすましがつぎつぎ水輪を作り、池面を揺らす。琵琶湖からの風は夕暮れにむかい冷気を増し、涼しい。時折、鯉の跳ねる音、蝉の声。庭は橋を挟んでこちらと向こうの神仙世界。その橋にゆるりと羽織袴の尺八奏者が進み『鶴の巣籠』。なるほど、いかにも。次なるクラリネット・ソロ『モテトゥス』より、も眺めに馴染んだものだ。その「いかにも」感は、日没へと刻々変化する光、影、風、匂い、鳥のさえずり、それらの中で動く音筆、のような感じで、つまりは全てが一つに溶ける「ぼううっ」とした心地よさ。

と、終始筆者はうつろいゆく庭と2つの東西楽器の融和にまったりであったのだが、2度目の休憩前の諸井誠『対話五題』(1965)*、これが全てを変えた。
諸井前作には『竹籟五章』(1964)がある。それまで前衛最先端での旗振り役、全面セリーを極端に推し進めた『ヴァイオリンとオーケストラのための協奏組曲』(1962)を発表したものの行き詰まり、その閉塞感の中で尺八奏者酒井竹道と遭遇、初めて邦楽器を用いた。当時その変身に皆が驚いたが、武満徹もまたこの時期、筑前琵琶と箏を使用してのミュージック・コンクレートを、さらに映画『怪談』(1965)で琵琶と尺八、そして『ノヴェンバー・ステップス』(1967)へと歩みを進めている。いわば現代音楽シーンが一挙に「日本発見」へと雪崩れた地点に立つ作品だ。
尺八の一音が、その場をつんざく。
耳に優しい、心に優しい協和の和洋ミックス空間が、破れた。
情念の塊り。尺八の背負う伝統世界が突如姿を現わす。クラリネットもそこに引きずり込まれ、景色がガラリ変化(へんげ)した。
すでに辺りは闇。控えめな照明が浮き上がらせる木立、岩岩が突然蠢く、動き出す。
むら息、ゆり、すり、ころなどの奏法がシュプレッヒシュティンメのごとき表現主義の悽愴な表情を帯び、2者がもつれ、斬り合い、寄り添い・・・それに響応、庭全体が大きく揺れ、ざわめき、何より岩岩がまるで怪奇な霊のごとく声を放ちだすではないか。
それにつれ、大小木立のコブがもりもりせり出す。
山の川の里の、ここら一帯の地霊、神霊、心霊が一斉に飛び交う気配。
もはや風もない・・・。
最後の一音が空を切る。途端、池の鯉が大きく跳ね、ざぶっと水音が轟いた。おお!と座敷から声が上がり、筆者たち最前列者は池を覗きこむ。

筆者はこうした類の怪奇っぽさには全く興味も反応もしないし、上記つらつら述べる自分を恥ずかしくも思うのだが、そうでない、音で庭が変化した、そのことの凄さに息を呑み、ある種の「異界・魔界」に触れた気がした、それがこの時の筆者のつかんだ真実。
もう一つ。
この庭は神仙思想を映したものという。日本庭園と言ってもいろいろだが、私たちに親しいのは禅文化の静寂静謐ではあるまいか。
これは違う。
神仙とは、不老不死の仙人・神人の住む海山の仙境に楽土を夢見る中国古代民間思想で道教のもととなったもの。そのプリミティブな世界が、諸井作品演奏からこの時、突如呼び出されたという、その驚き。
もう一つ。
諸井作品、いまどきのヤワな口当たりのそれらとなんと違うことか。
まなじり決しての挑戦はもはや皆無、それが時代というものであろうけれど。
いや、音への対峙の仕方が変わった、それが今日というべきか。

最後に。
時と場と音楽について。
筆者小一時間の散策から、すでにコンサートは始まっていたのだ。
何を聴き、何を見るかはそこに向かうまでの大きな流れ、さらには筆者の個人的文脈(上述の日本的文化リミックスなどを含む)、すなわち個々の歴史の中にある。
どこに座すかもその流れに沿っての選択で、「庭と音楽」という設定へのアプローチは人それぞれだ。
ただ、そこにその場独特の「エトス」があり、それが喚起するものは実に大きいと知る。
翻るに、筆者が通常通う場は都市空間にある。その画一化された風景と箱の中で、どんなアプローチが、音楽が、生成創出可能だろうか。
一方で、「場」は場である以上、囲い込み、閉鎖性を免れない。つまりボーダー(境界)だ。
そこに集う人々の親和性もまた一つのエトスで、それが「外部」をそれとなく押しやりもする。固有のエトスを失わず、かつ、常に外部に向けて開かれている「場」であるためには何が必要だろう。
音楽の生成創出とは、本来、そういう「場」との交感から得られるものではないか。であるなら、内部と外部、こちらとあちらを突破する音楽こそが「風」となって通り、流動する命を吹き込み得るもの・・・諸井作品にはその力があったということか・・・なるほど「風の息、呼吸する音」。
帰京への車中、車窓に流れゆく風景に、三善晃の晩年の言葉「そろそろ風になってもいいかな」を反芻するのだった。

筆者がこの宵に受けた驚愕、「異界・魔界」の感触の残響もまた、何かに向かう道標のごとく今も筆者の中で鳴っている。

(2020/10/15)

註)*:諸井誠『対話五題』の作曲年はプログラムノートには1972とあったが、『日本の作曲家たち(下)』(秋山邦晴著/音楽之友社)の諸井誠作品リスト96pに1965の記載があり、こちらに準ずる。
関連評:庭と音楽2020 吉田誠クラリネット・コンサート「風の息、呼吸する音 藤原道山・吉田誠」|能登原由美
関連記事:BackStage ながらの座・座の試み

<演奏>
尺八:藤原道山
クラリネット:吉田誠

<曲目>
原曲作者不詳・初代中尾都山編:鶴の巣籠
ギョーム・ド・マショー:モテトゥスより
C.P.E.バッハ:デュオ
初代山本邦山:二管の譜(1975)
〜〜〜〜〜〜
フランシス・プーランク:2本のクラリネットのためのソナタ(1919)
藤倉大:Crossing Pass(2016)
諸井誠:対話五題(1965)*
〜〜〜〜〜〜
藤倉大:Turtle Totem(2019)
藤原道山・吉田誠による「庭」をテーマとした新作(2020 世界初演)
藤原道山:遊びの庭
吉田誠:「a small world under the water」
藤倉大:Twin Tweets
初代山本邦山:尺八二重奏曲第4番(1976)