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パリ東京雑感|独裁者の死に方 医者に診てもらえなかったスターリン|松浦茂長

独裁者の死に方 医者に診てもらえなかったスターリン
Lonely Death of Stalin

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

マリア・ユーディナ

『スターリンの葬送狂騒曲』という映画があった。
スターリンは、美貌のピアニスト、マリア・ユーディナが演奏するモーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』をラジオで聞き、放送局に「今の演奏の録音が欲しい」と電話する。ディレクターはまっ青だ。番組は生中継で録音はとってなかった。明日までにレコードを届けなければシベリア送り?死刑?
真夜中にユーディナを呼び戻し、体調を崩した指揮者の代役を、パジャマのまま指揮台に立たせ、命を賭けた深夜の録音作業が始まる。公開録音の雰囲気がなくてはいけないと、手当たり次第に夜の町から「聴衆」をかきあつめる完全主義には驚いた。空っぽのホールで録音したりすれば、全能のスターリンはたちまち残響の違いに気づくだろうと恐れたわけだ。

めでたく朝までにレコード完成。そのジャケットの中にユーディナはこっそり1枚の紙切れを挟み込む。上機嫌のスターリン。レコードを取り出すとひらっと紙切れが落ちる。それを見てヒステリックに笑うスターリン……斃れるスターリン。紙には彼の死を待ち焦がれると書いてあったのだ。
このエピソードは『葬送狂騒曲』のイントロで、ここから物語の本編、後継者争いのドタバタが展開されるのだが、音楽ファンの一人としてはスターリンの趣味の良さにちょっと心を動かされる。
スターリンが死んだとき、レコードプレーヤーにモーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』が乗っていたと書いた記事を読んだ記憶があるし、彼がマリア・ユーディナのモーツァルトにご執心だったのは伝説的言い伝えのようだ。
伝説の起源はショスタコーヴィチらしい。彼の語るストーリーは、時代がさかのぼり、スターリンが第二次大戦の英雄的な戦いを指揮していた1944年のある夜のこと。スターリンはラジオでユーディナの演奏するモーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』を聞いて、涙を流し、録音のコピーを求める。パニック状態におちいった放送局は、映画同様、深夜のレコード製作となる。
映画と違って、ユーディナにはスターリン賞が与えられる。熱心なキリスト教信者だった(当時それは危険をともなう)ユーディナは、スターリン賞の賞金を教会に寄付し、スターリンの罪の許しのために!祈りを捧げてもらったというのである。

ゲオルギー・ルブリョフ『スターリンの肖像』

さて本題に入ろう。スターリンはどんな風に死んだのか?
スターリンの死によって、恐怖の独裁は終わる。粛正と収容所送りが日常だった、あの鉄の体制は、スターリンが死なないかぎり終わらなかった。ロシアが、小スターリンの支配に服している今、独裁者の死にざまを振り返るのも無駄ではないだろう。

ウクライナの作家ワシリー・グロスマンは、小説の中で「スターリンは同志スターリンの命令なしに死んでしまった」と皮肉っている。どういう意味だろう?
強制収容所の囚人たちは、スターリンの死を聞いて、「なんでそんなことが可能なんだ? 地位の高い人物が、スターリンの許可なしに死ぬなんてあり得ない。死の命令を下し、すべての人間の死を取り仕切るのはスターリンじゃないか。」と言う。
つまり、スターリンは「人間」ではないとソ連人は感じていた。人間の生死をつかさどる存在、神のごとき全能者と感じていたのだ。スターリンにも、血圧とか心臓とか肺とかの問題がありうるなんて夢にも考えない。スターリンが国民に見せる姿は、いつも健康そのものと決っていた。
スターリンが最後に公の場で発言したとき、いつものように4-5時間の演説をする体力がなくて、10分間しかしゃべらなかった。他の代表の演説を聞くスターリンの写真が残っているが、半分眠ったような、弱々しい老人の顔だ。もちろん国民がこの写真を目にすることはありえなかった。
完璧な健康人スターリンというプロパガンダと裏腹に、スターリンの健康はむしばまれていた。ところが皮肉なことに、自分が最も医者の助けを必要とするときに、スターリンは医師の粛清に取り憑かれてしまったのだ。
スターリンは死ぬ前年1952年秋に、主治医を逮捕し投獄した。この医師はユダヤ人ではなかったが、医師の大粛清は、ユダヤ人への偏執狂的恐怖によるものだ。ユダヤ人組織弾圧の嵐が吹き荒れ、その頂点が1953年1月13日、スターリンが死ぬ2ヶ月前に公表された「医師事件」である。ユダヤ人の医師一味が、ソ連指導者たちを、治療にかこつけて殺そうとした。医師たちの背後にはシオニストと帝国主義の陰謀があるという。事件の発表に続いて反ユダヤ人プロパガンダの嵐が吹き荒れ、ユダヤ人を恐怖におとしいれた。
偏執狂的恐怖は独裁者の宿命なのかもしれない。第二次世界大戦後、スターリンのパラノイアは抑制が効かなくなり、周りの人すべてを疑った。独裁者は絶えず殺される恐怖を抱く。なかでも医者は独裁者の体に最も近いところにいるのだから、彼らに恐怖を抱き、彼らを一掃しようと企てたのは必然の帰結なのかもしれない。

レーニンとスターリン

スターリンの死は謎だらけだ。まず、死んだのは3月5日とされているが、1日か2日には死んでいたらしい。死んだ場所も、はじめクレムリンの執務室とされたが、実は15キロ離れた別荘で死んでいた。スターリンは夜も昼も休みなしに人民のために働くという神話が流布し、赤の広場からは、夜どおしスターリンの部屋に灯りがともるのが見えた。だから、スターリンが別荘で死んではいけないのである。
スターリンは1日の午前4時頃まで、フルシチョフら党幹部と別荘で仕事していた。マレンコフが呼び出されてふたたび別荘に駆けつけるのは翌日午前2時。ところが彼は医者を呼ばず、引き上げてしまう。脳出血で意識を失い、尿まみれで横たわるスターリンをなぜ放置したのか? 主治医が牢獄につながれているから?「医師事件」による粛正のため、信頼できそうな医者が見つからなかったから? もう死んでいたから? このまま安らかに死なせてやろうと考えたから? 理由はともかく、脳出血後の大事なときに、スターリンは丸一日医者の助けを得られなかった。
歴史家ジョシュア・ルーベンシュタインは、1日に死んでいたと見るが、フルシチョフたちと別れてまもなく朝のうちに死んだのか、午後まで生きていたのか、ミステリーだという。つまり、誰もスターリンの寝室に入らなかった。朝食も食べず、お茶も飲まず、いったい何時間、尿に濡れた体を横たえていたのか誰も知らない。8-9時間、お茶も食事も注文することが出来ず、助けを求めることも出来ず、一人で死を待っていたのだろうとルーベンシュタインは推定する。呼ばれもしないのにスターリンの部屋に入って罰されるのが、皆怖かったのだ。

何一つ彼なしには動かない、彼一人がすべてを決める鉄の体制を築いた男が、最期のときに助けを求めることが出来ない、誰一人彼を助けに来なかった。
別荘はもちろん厳重に守られていた。鉄格子で囲まれ、シェパード犬と衛兵が見張り、建物の中にはボディガードが詰めていた。しかし完璧なセキュリティも死の闖入を防ぐことは出来ない。逆にセキュリティの厳重さが、スターリンを隔離状態におき、医者から遠ざけ、死を早める結果になった。パラノイアが招いた、自業自得の悲劇である。

スターリンの死を知ったとき、国民は恐怖に襲われた。スターリンは国家そのものだったから、スターリンなき生を想像することが出来ない。サハロフのような義人さえ、泣いた。ロシア人の多くが泣いたのは、スターリンを崇拝していたからではなく、明日がどうなるか分からず、極度の不安に陥ったからだ。
スターリンの死を聞いて有頂天になったのは明日の心配をしない酔っ払い。大喜びして、逮捕された。
強制収容所の囚人たちこそ歓喜して良いはずだが、彼らも泣いた。ラジオ・フランスのドキュメンタリーは女性政治犯の回想を伝えている。

私たちは雪の降る中で道路掃除をしていました。近くに男性収容所があって、そこのスピーカーからとても悲しい音楽が流れてきました。しばらくして、スターリン死去のアナウンスがあったのです。私はとてもうれしかったけれど、そばにいたベラルーシの人は泣き出しました。学校の先生だった女性です。スターリンが死んで、生きるのがらくになるのだから、泣くのはヘンですよね。

スターリンの葬儀

スターリンの遺体はレーニンの葬儀が行われた同盟会館の円柱の間に移され、3日間安置された。張り詰めた表情の数十万のロシア人が遺体に別れを告げたが、このとき群衆に踏み潰されるなどして多数の死者が出た。犠牲者は数百人なのか数千人なのか? 国民を恐怖に突き落としたスターリン死去の闇の中で起こった惨劇である。

あれから70年。スターリンは遠い過去の人になっただろうか? 僕がモスクワにいた1990年前後、ゴルバチョフが始めたペレストロイカ花盛りの時代、劇場では赤鬼みたいな「共産主義」という名の悪魔が下品な踊りを見せたり、KGBが、かつて拷問の行われたであろう取調室を記者に見せたり、過激なほどの自由があった。ところが、今は……
アルハンゲリスクの大学生オレーシア・クリフツォーヴァさん(20歳)は、去年10月、「クリミアとロシアを結ぶ橋が爆破されたとき、なぜウクライナ人が喜んだのか」についてインスタグラムに書いたため、「テロを擁護した」罪で5-10年投獄されそうになり、判決の前に祖国を捨てた。
プーチン体制は、若者の仲間同士のメッセージ交換にまで神経をとがらせるようになった。ウクライナ侵略が始まって以来、6000人が「ロシア軍への信頼を傷つけた」罪で裁かれ、いまも447人が「誤った情報(=国のメディア以外から得た情報)を流した」罪に問われ、判決を待っている。若者の私的なやりとりまで統制するには、一般市民の「協力」が不可欠だ。権力にとってありがたいことに、内輪のメッセージを密告する「愛国者」が、秘密警察の目となり耳となって、「誤った」投稿を報告してくれる。クリフツォーヴァさんは、「私は知らなかったけれど、大学の中に密告学生のチャット・グループが出来ていたのです」と言う。
自由の喪失は加速度的に進むらしい。すでにプーチンにたてつく政治家は殺されるか、ナワリヌイのように投獄され、スターリンによる犠牲者の厖大な記録を収集保存してきたメモリアルも、勇気ある報道を続けて来たノーヴァヤ・ガゼータも(どちらもノーベル平和賞受賞)つぶされ、いよいよ、言論画一化は市民の日常会話にまで及んできたのだ。
密告がどれほど隣人関係を毒し、社会を腐らせるかは、ソ連で暮らした人にしか分からない。私たちは新型コロナが蔓延したとき、近づいて来る人が自分を殺す人に見えるおぞましい経験をしたけれど、密告社会では、隣人は自分を滅ぼす潜在敵なのだ。このような不信社会は独裁者にとって最も好ましい。
プーチンによって、スターリンの遺産は力強く復活したようだ。

(2023/04/15)