ラジオ・オペラートの夕べ|西村紗知
ラジオ・オペラートの夕べ
Una serata di radio operato
2022年11月19日 渋谷 Li-Po
2022/11/19 Shibuya Li-Po
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
<出演> →foreign language
Madam Anonimo(soprano)
渡邊未帆(piano)
Radio comédie ensemble
(Radio ensembles Aiida(ラジオ)+森田潤(Modular synth)+鈴木創士(P))
<プログラム>
クラウディオ・モンテヴェルディ:マリアンナの嘆き
ヘンデル:オンブラ・マイ・フ
:シャコンヌより(ピアノソロ)
:私を泣かせてください
※アンコール
ジャン・ポール・マルティーニ:愛の喜びは
―休憩―
Radio comédie ensembleによるセッション
※アンコール
マック・ザ・ナイフ(この日の出演者全員による)
開場より30分以上前に渋谷の南口に到着してしまった。喫茶店のドトールが空いていたので入ったら18時閉店だと言われて面食らう。コロナ禍以降はチェーン店でもそんなに早く閉まるようになったのかと驚いて、そのまますぐ近くのベローチェに行ってみたがあまりの人口密度と客席に満ちるどんよりとした空気に入店するのがためらわれ、仕方がないから天気も良かったので川沿いを歩いてどこか時間を潰せる場所を探すことにした。川沿いは渋谷リバーストリートとしてこぎれいに整備され、白色電球でライトアップされている。ベンチが点々と配置されていたからその辺りどこかに座って作業しようと思ったら、中年男性が身を屈め、両手で顔を覆い声をあげて泣いている。大の大人が号泣している場面に遭遇することが滅多にないものだからおっかなびっくりで、しょうがないのでさらに川沿いを歩いて会場から離れていく。今度は若者たちが遊んでいるのが視界に入ってくる。ある者たちは、電子タバコ片手に鬼ごっこをしており、またある者たちは、髪の毛が青や銀にき れいに染まっていて、スマートフォンで動画の撮影をしている。いや、後者は遊んでいるのではなく、仕事をしているのだろうか。
居心地の悪い、何か嘘のような所在ない心地になって結局もと来た道を引き返し、適当なベンチに座り、だが何かそこで作業に集中するような心持ちにもなれず、だからツイッターでいつものタイムラインを眺めると、みな、新海誠監督の最新映画の悪口を書き込んでいた。SNSの仮想空間上だと、人々は他人に心を砕くことができる。居心地の良いような、単に慣れてしまっているだけなのだが、妙に凪いだ感情になる。私はさっき、目の前で号泣している人間に何もしなかった。
そろそろいい頃合いなので会場の方へ戻る。泣いている人間はどこかへ立ち去っていた。会場は雑居ビルの一室で、小さな趣味の良い渋谷 Li-Poという居酒屋である。Li-Poとは李白のことらしい。ところで、私はこの「ラジオ・オペラートの夕べ」というイベントをツイッター上で知った。どういう催しか、本当に演奏会なのか、特に調べずここに来た。イタリア古典歌曲や、ラジオと生ピアノによる即興演奏があるらしい。それ以上のことはそもそも調べても何もわからなかった。なんとなしに、コンサートホールに行きたくない気分でもあって、そんな自分の気まぐれが私をここに迷い込ませた。
会場は狭かったがおそらく20人ほどつめかけていた。急遽昼公演が追加されたとあり、賑わっている。ひとりハイボールを飲みながらぼんやりしているとMadam Anonimoが語り始め演奏会が始まる。
彼女が歌うのは、セミクラシックとして流通している、いわゆるイタリア古典歌曲である。私はこれを大学時代に、副科声楽の授業でたどたどしくも原語で歌ったことがある。Madam Anonimoは、身体全体で、古の歌曲を受信する一個のラジオのようだと思う。彼女が歌うのを聞いていると、それは昔どこかで聞いたかのような心地がするものだし、しかし同時にそれは嘘の記憶なのだという確信に基づいて聞かざるを得ないどこかキッチュなニュアンスもあって、不思議な体験である。渡邊未帆の伴奏は、ペダルをあまり踏まず抒情性を抑えた表現となっている。最初こそ通例通りの演奏だったもののプログラムが進むにつれ、伴奏には、曲の後半に即興的かつ不協和音の挿句が差し挟 まるようになる。最初は、あら懐かしい、と思い聞いていたが、郷愁は不安へと変わっていく。
歌唱の合間には、プログラムについて、作曲家のことやオペラの歴史について、Madam Anonimoによるレクチャーが入る。そこで語られていることは嘘ではないのに、その、謎の婦人の(そもそも彼女は何者なのだろう?)滔々とした語りの口調を通じて、つくりかえられた物語のように聞こえてくるようであった。ふと、イタリア古典歌曲のひとつひとつもまた、日本人の身体に合わせて、もはやほとんどつくりかえられたも同然なのかもしれないと思う。けれども、本当はどうだったのか思い詰めてみても、どこにも確かめようがなく、所在ない。しかしまたそれが、かけがえのない思い出として、私の脳裏に記憶に刻まれたイタリア古典歌曲の実態でもある。
ラジオのようにして、受信体であるかのように演奏すること。アンサンブルもまた電波の交信のようである。後半はA.Mizukiによるソロ・サウンドユニットであるRadio ensembles Aiidaと、森田潤(モジュラーシンセ)と鈴木創士(ピアノ)のセッション。ラジオは全部で7~8台はあった。正面に、ターンテーブルにラジオが乗せられたものが2セット。大きめのラジオが観客の座っているところの机に置かれていた。3つほどポケットラジオが天井に紐で吊るされている。Radio ensembles Aiidaがラジオの周波数と、向きや回転を操作するので、音色と音が発される方向は変化する。中盤、脚立に上ってそのラジオを手で紐がよれるようにねじるので、彼女が手を離した瞬間からポケットラジオが天井近くでクルクル回転し出す。鈴木はグノシエンヌなど、落ち着いた曲調のものを弾き、森田のノイズがこれに掛け合う。ラジオからは砂嵐状のノイズ以外のものは聞こえない。ピアノはしっかりペダルを踏むので、基本的にピアノもノイズも両方持続音であって、両方の充溢に観客は身を浸し続ける。それは、不思議と不安な音楽ではないように感じられた。
そんな夢を見た、と締め括りたくもなるような奇妙な一日だった。この演奏会だけでなく、渋谷駅南口周辺という場所全体において、人々が生きているのは、日常なのか異化された現実なのか、本当なのか嘘なのか、なんだかわからない。でもそれが現実である。幻惑的な感覚の最中でふっと崩れてしまいそうになる己のか細い感受性のうちに、現実というものを感じたいと思う、うまく言えないがそんな気分のときもある。
演奏会の終わりには食事が出された。美味しそうだから口にしたかったけれども語り合う友人もなし、私は早々に会場を後にした。
自分の空腹に気が付いたのは外に出てからだった。近くの定食屋に入った。信じられないくらい不味かった。
(2022/12/15)
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<Artists>
Madam Anonimo(soprano)
Miho Watanabe(piano)
Radio comédie ensemble
(Radio ensembles Aiida(radio)+Jun Morita(Modular synth)+Soushi Suzuki(P))
<Program>
Claudio Giovanni Antonio Monteverdi:Lamento di Arianna
Georg Friedrich Händel:Ombra mai fu
:Chaconne(piano)
:Lascia ch’io pianga
*encore
Jean Paul Egide Martini:Piacer d’amor
―intermission―
Improvisation by Radio comédie ensemble
*encore
Mack the Knife