THE SHAKUHACHI 5|丘山万里子
THE SHAKUHACHI 5~The 2nd Concert
2022年3月2日 豊洲シビックセンターホール
2022/3/2 Toyosu Civic Center Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:The Shakuhachi 5
<演奏> →foreign language
The Shakuhachi 5
小濱明人・川村葵山・黒田鈴尊・小湊昭尚・田嶋謙一
<曲目>
牧野由多可:行雲(1980)
仲俣申喜男:スペース~3本の尺八のための (1969)
台信遼:Shape of Wind (2021/公募曲・世界初演)
武満徹:『うた』より
「うたうだけ」「死んだ男の残したものは」「明日は晴れかな曇りかな」
〜〜〜
諸井誠:対話五題(1972)
西村朗:五本の尺八のための<沙羅双樹 >(2021/委嘱・世界初演)
(アンコール)
『うた』より《さくら》
曲の合間のMCの中で、1人の奏者が開口一番「私は古典の中で生きているのですが、」と言うのに強烈な印象を持った。古典に生きる日々がどんなであるか、想像できなかったから。
確かに尺八は日本、つまり私たちの伝統古典音楽(江戸期〜)であるに違いないが、筆者にとっては別世界だ。武満徹『ノヴェンバー・ステップス』(1967)を筆頭に、彼らの先達が活躍した70年代、ほんの少し現代邦楽分野を覗いたものの、興味を惹かれぬまま脇に置いてきた。このところのスタイリッシュな邦楽器奏者らの台頭に、改めて新しい波が来ているのを感じてはいるが、古典と現代を結ぶ、的な言い方とは異なる「今なお古典に生きる日常」という意識を、ずっしりその一言に受けとったのである。
さて、この一夜に深く思い知ったのは、尺八とは「声」そのものだ、ということであった。
発声、という行為にあるのは吸気呼気すなわち「気息」で、命、に他ならない。まずその初発エネルギーたる命がこの楽器に吹き込まれ、響き、声となって発現する。
「むらいき」「かざいき」「そらね」といった吹奏には、何か勁い“念力”あるいは“情動”の注入を感じ、その一息のエネルギーが「コロコロ」「カラカラ」「すり」「なやし」「竹ゆり」「こぶし」「揺る」「打つ」「重音」*)といった技巧を通し、変幻自在に時空を震わせ、一つの音の河、あるいは音の帯となって流れを編んでゆく、それが常に非常な勁さでもって聴き手の胸元を抉ってくるような、そんな「気息」の持続が撚る強靭な「声」。
筆者が最もそれを感じたのは、諸井誠『対話五題』と西村朗『沙羅双樹』の2作。
諸井のこの作品を筆者は2020年、尺八藤原道山、クラリネット吉田誠『庭と音楽』http://mercuredesarts.com/2020/10/14/nagara_no_za_za-okayama/で聴いている。この時は三井寺敷地にある庭園屋敷での演奏であったから、その特異な空間とあいまって尖鋭な表現主義的世界が現出し、音につれ、木立が岩が池がざわめき心霊・神霊飛び交う如き怪奇体験をした。そうして、当時、日本前衛の最前線であった諸井の、邦楽器との真っ向勝負に、そういう作曲家であったかと感じ入ったのである(むろん彼には『竹籟五章』(1964)があるが)。
だが、今回は尺八同士。これ、まるで一つの殺陣ではないか。
対話どころか、激越な斬り合い、格闘(諸井は格斗と記している)であり筆者はその凄絶に震撼した。
Ⅰ [呪われた分身との自虐的対話]に相応しく、最初の1音、ぐわっと怨念込めた一息が吹き込まれる。もうそれだけで一つの世界が立ち上がってくるのだから、武満が「一音として完結し得る音響の複雑性 」**)を言うのは無理からぬこと。旋律にせよ、ハーモニーにせよ、全ては音と音との関係性によって成立する西洋音楽とは全く異なる音のありように、どれほど彼ら、当時の日本の前衛がショックを受けたか。筆者とてことは同じで、戦後生まれ、西洋音楽教育のみで育ったのであれば、武満らを通して邦楽を知るという立ち位置。さらに言えば、当時の現代邦楽作品の和洋折衷の安易に、背後の伝統たる古典本曲に触れてみようという気にもならずにここまできた。だが眼前に繰り広げられるのは、殺陣そのもの。丁々発止、白刃きらめかせ斬り込みわたりあう両者。武蔵と小次郎みたい。
Ⅱ [祖先の声との忌まわしき対話]は古典本曲『虚空』からの引用で、その格調、悠然たる旋律線にもう1本が突っかかる。古武士に小童(ノイジー音)が挑んではカッカ高笑の態。するうち、どっちがどっちだか分からぬほどに混然。
Ⅲ [滅びゆくものとの感傷的対話]、西洋で言えばトリル、ポルタメント、グリッサンド(ユリ、コロ、スリ他)など盛り沢山だが、その尺八技法の微細な違いもさほどわからぬ筆者にはただただ何となしの情緒に揺れる。この情緒というのが、筆者世代では「演歌」に通じるし、同時に、例えばイスラエルで聴いたクレズマー、ギリシャのブスキ、ベトナムのポップスなどにも共通するある哀の色が心の襞にまで滲んでくる。
Ⅳ [美しき背徳者との諧謔的対話]は西洋で言えばスケルツォ、リズミックなピカレスク風。
Ⅴ [未知なるもの、あるいは死について]のドラマトゥルギーの凄さ。最後の一音がやはり衝撃で、そう言えばながらの座・座では、池の鯉がこの瞬間、ザブッと跳ねたことを思い出す。
つまり。
音の相、その強さだ。音声(おんじょう)、その多様複雑、表現の深さだ。
かなわない。と思った。
フルート? クラリネット? ほとんどeasy listening。人間の抱える声は、そんなもんじゃない。シュプレッヒ・シュティンメ? そういう声を、ある意味隠蔽したのが、もしかすると西洋近代じゃないか? 2つの大戦時にやっとこさ、表に出てきた声。
諸井のこの作品、二本の尺八に託した作曲家としての矜恃、その烈しい形相に、筆者は本当に地に打ちつけられるような気持ちになった。おまえ、今まで、なに聴いてきた!と。
次。
西村朗『沙羅双樹』。委嘱初演作だから、彼の「今」がここにあるに違いない、と筆者は背筋を伸ばして聴いた(現在、連載中の『覚書』で篳篥を使った『太陽の臍』に向き合っている)。が、すぐに声にさらわれた。
一続き、3部からなる作品は釈迦入滅シーンを描いた幻想曲で「音による小さな涅槃図」とプログラムにある。
筆者はこの地、クシナガラに以前行き、横たわる巨大な涅槃像の足を撫でてきた(みんなが触るので黒くなっている)。様々な経典で語られるこの有名な情景もしっかり頭の中に刻まれている。であるから、音とともにありありとその情景が浮かんでしまう(筆者は仏教徒でもなんでもなく、なんの信仰もないが、西欧の教会や美術館に満ち満ちる磔のイエスの無惨は目を逸らしてしまう)。聴取が妄想に膨らみまくるのは致し方あるまい。
5人の真ん中に釈迦(と西村も言っている)がおり、左右それぞれ2人が囲む。尺八には種々の長さがあり、持ち替えもあるが、釈迦は終始2尺3寸長管で低音を響かせる。
Ⅰ) 釈迦を除く4人の演奏:沙羅双樹の化身(プログラムより)。ソロからデュオ、アンサンブルと順次、ラインが増え、絡み、重なってゆく。ヘテロフォニー。西村トレモロ、なるほど樹木の化身たちが釈迦の周りを舞っている姿が目に浮かぶ。澄んだ高音が美しく、情感豊かで、諸井『対話』のⅢに漂う「侘び(わび)」にも似る。尺八の声の勁さは、その背後にこの厳しく抑制された「哀」を抱える、と思う。
Ⅱ)釈迦のソロから。入滅にあたって、釈迦とそばに集まった弟子たちは問答をする。重く、穏やかな低音ソロのゆったりした調べ、囲む4人にかわされる言葉は悲嘆であるものの、さびさび(「寂び」)たる情緒も含む。
Ⅲ)5人全員が異なる長さの尺八でのアンサンブルで、テンポも急迫、騒然たる音響になってゆくのがいかにも西村。上述した各種技法のオンパレードで、ケチャもどき(読経がどんどん熱狂する感じ)にもなるわけだ。そのめくるめく響きの狂騒。耳をつんざく狂乱。果て、静寂が訪れ、釈迦の楽音は息音へと変化し、涅槃へと入寂するのである。
釈迦、最後の言葉を経典から拾っておく(『ブッダ最後の旅』―大パリニッパーナ経 中村元訳 岩波文庫)。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。“もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい”」。
釈迦(奏者)の最後の息がながくなが〜く尾をひいて虚空に消えてゆく、そのあとを追いつつ、消える寸前、ふるふると微かに空気が震え、古典本曲『虚空』がそこをよぎった気がした。
音楽は、畢竟、声の変化(へんげ)なのだ。
筆者は侘び寂びなどよくわからないし、ただ、上記2曲に感受した言葉にならない情趣を、たぶん、そういう言葉で言うのだろうな、他に言い表しようがないな、と思う。
尺八の持つ特性、劇性、その表現領域の広大深甚が開示されてゆくのはこれからではないか。その固有世界を生かし、かつ人類普遍の情動(調べ)にまで結ぶことができるのは作品であり、奏者であり、それしかない。その困難は現代日本邦楽のこれまでが示すところだが、THE SHAKUHACHI 5に、なんとかそれをぐいと押し開いて欲しいものだ、と思う。
古典を生き、現代を生きるとは、楽器の命をこそ繋ぐことだろう。
他曲への言及は割愛するが、武満の Songは全員が揺れまくってすっかり船酔いしたが、その独特さが面白かった。公募新作は目先の新しさはあったものの、音響素材としての扱い(響のグラデーションはなかなかだったが)とアイデアに留まり、いわゆる現代音楽っぽく作ってみました感。
ただ、様々なアプローチ(試み)を提示してくれるのは初心者にはありがたく、その意味でこの楽曲構成は巧みであったと思う(願わくば古典本曲も一つ混ぜてくれると助かる)。
こういう内容で海外巡業をぜひやってもらいたいものだ。
かつての尺八衆は巷をめぐる人(僧)でもあったのだから。
(2022/4/15)
注)
*)『日本楽器法』三木稔著 音楽之友社 1996 p.46~63 (第4節尺八)
**)『音、沈黙と測りあえるほどに』武満徹著 新潮社 1971 p.196
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<Artists> The Shakuhachi 5
Akihito OBAMA, Kizan KAWAMURA, Reison KURODA, Akihisa KOMINATO, Ken-ichi TAJIMA
<Program>
Yutaka MAKINO:Gyoun
Nobukiyo NAKAMATA:Space for 3 shakuhachi
Toru TAKEMITSU:Songs
Ryo DAINOBU:Shape of Wind ※World Premiere
Commissioned by The Shakuhachi 5
Makoto MOROI:5 Dialogues
Akira NISHIMURA:Sara Soju for five Shakuhachi ※World Premiere
Commissioned by The Shakuhachi 5
-Encore-
Toru TAKEMITSU:Sakura from Songs