特別寄稿|ジルヴェスターとニューイヤーは何のためにある?|田中 里奈
ジルヴェスターとニューイヤーは何のためにある?
――2020年に一区切りつけるために
Text by 田中 里奈 (Rina Tanaka)
正月嫌いの正月の越し方
私は年末年始が嫌いだ。一年のうちで誕生日の次に嫌いな期間かもしれない。「門松は冥途の旅の一里塚だから」と普段なら言い訳するのだが、何のことはなく、10年以上独りで年を越していれば嫌いにもなる。だから基本的に祝わない。以前は、海外から訪れた友人たちに何となく正月飾りをプレゼントしていたが、自分は何も自宅に飾らないのだから有難みがない。年の変わり目で唯一好きなのは、窓の外、遠くのどこかから聞こえてくる除夜の鐘の音や汽笛の音、あるいは寂しげな花火の音だが、それをしばらく堪能したら窓を閉めて仕事に戻る。どの国にいてもそんな具合なので、心底性に合わないのだと思う。自分で言うのもアレだが、面倒臭い奴である。
そんな私が、昨年から今年にかけての1日間は珍しく季節感を大事にした。結論から言うと、「24時間くらいかけて年を越す」ことにしたのである。
まず、大晦日の夕べに演劇『No. 9 ―不滅の旋律―』1を観て、NHKの「紅白歌合戦」をチラ見しながら鴨そばを啜り、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団によるオンラインコンサート『交響曲第9番』、もとい「3つの楽章と1つの場面による交響曲」2を聴き、その次にシャウシュピールハウス・チューリヒによる音楽付き芝居『ある一匹の蛙のための集会』(ジルヴェスター特別版)3を観た。この時点で空が白んできたので、いったん仮眠を取った。諸々の雑事を済ませてから、元旦の昼をだいぶん過ぎた頃にヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤー・コンサート4をオーストリア放送協会のオンラインラジオOe1で聴いた。
来年も同じように過ごすかどうかはさておき、ここまでしてようやく「2021年を迎えられた」という気持ちになったのだから、面倒臭い奴としてもやってみる価値を実感できた。2021年の新年は一度しか訪れないのだから特別もヘチマもないのだが、それでも、2020年の大晦日から2021年の元旦にかけては特別な24時間だった。それは、正月嫌いの私に言わせれば、よりによってコロナ禍の年末年始を、劇場やコンサートホールでどうしても祝わなければならない理由を(とはいえ、上記に挙げた作品のうち、『No. 9』を除いたドイツ語圏発のものは無観客で上演されたのだが)、それが社会的に「不要不急」だと切り捨てられないだけの、説得力のある言葉で説明しようと試みていたからだった。
ジルヴェスターを祝わないと新年が来ない?
では、私たちはどうしてジルヴェスターとニューイヤーを祝うのだろうか。ジルヴェスター版『ある一匹の蛙のための集会』には、作・演出のニコラス・シュテーマン Nicolas Stemannがマイクを持って現れて、観客に向けて次のように説明する場面がある。
もし今年のジルヴェスターを中止にしたら、来年のジルヴェスターの代わりに2020年のジルヴェスターがもう一度来ることになります。そうしたら来年末のジルヴェスターも再び中止になって…メビウスの輪のような終わりのないサイクルから出られなくなってしまいます。
『ある一匹の…』は、童話に出てくるキャラクターが「公演中止のため空になった舞台」という半ばフィクションで半ば現実の劇場を介して、劇場の外にひょっこり出ていってしまう作品である。虚構と現実がない交ぜになった空間で、しかも枠組みとしては一応子ども向けとくれば(使われるジョークの種類からして明らかに大人向けなのだが)、上記のようなファンタジー風のこじつけにもなんとなく納得できてしまう。クリスマスイヴになかなか寝付かない子供に対して、「早く寝ないとサンタさんが来てくれないよ」と言い聞かせるような、一種の方便に近いのかもしれない。
「何か特別な儀式をしない限り、時が止まったままになってしまう」ということが頻繁に起こるのはファンタジーの世界だが、よくよく考えたら、似たようなことをタモリも改元の節目に話していた5。元号というのは、本の「章」のようなもので、それがあるから綿々と続く日々に一区切りをつけることができる、という趣旨の発言だったと思う。タモリは昔、アンリ・ベルクソンをネタにしていたはずなので、この発言をヒントにして私たちの意識と時間の流れとの間にある関係を紐解くこともできるかもしれないが、あいにく専門外なのでいったん棚上げしておく。
思い出作りに、と写真をたくさん撮るわりに撮った写真を見返さない人がいるが、節目を作るということは、なにも2020年を「過去のもの」として忘れてしまうための作業ではない。むしろ、いったん「現在」とは異なるラベルを付けることで、そこで起こった出来事と距離を取って、振り返りやすくすることだろう。言い換えれば、ジルヴェスターとニューイヤーを何らかの形で祝うことは、祝うという行為を遂行することによって、心を整理していく作業である。
「夢を見るための勇気」
この点で思い出されるのが、オーストリア大統領アレクサンダー・ファン=デア=ベレン Alexander Van der Bellenによる新年の挨拶だ。隣国ドイツのメルケル首相と比べて、日本ではイマイチ取り上げられないのだが、COVID19で多くの人が亡くなり、また社会が混乱に陥った2020年から新たな2021年を迎えるにあたって、「夢を見るための勇気」という言葉で結ばれた最後の段落を、ここに引用したい。
今後数カ月のうちに、パンデミックが過去のものになるか、あるいは少なくともコントロール下に入ったと、徐々に感じられるようになるでしょう。その時に、私たちが2020年をできるだけ早く忘れて、日常に戻っていくことのないようにしましょう。年の変わり目のこの時を、私たちがそのように願う限りにおいて私たちの未来がいかに開かれ、自由であったのかを覚えておきましょう。元日だけでなく、新たな日が昇る毎に。この幕間(Pause)の時間を使って、一緒に夢見ましょう、どんな未来を私たちは見たいと願うのでしょうか? そうすることができたら、私たちはもうより良い世界への第一歩を踏み出しているのです。勇気を掴まえて、私たちの夢々を共に叶えていきましょう。
オーストリア国民と、ここで生きるすべての人々へ。あなた方とあなた方の愛する人々に素晴らしい2021年が訪れるよう、願っています。あなた方が幸せで、そして何よりも健やかでありますように。そして、夢を見るための勇気を持てますように。
私たちにとって良い年になりますように6。
夢を見ることもできないような状況で何を綺麗事を、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。この声明が出された時点でのオーストリアは、12月26日に始まった三度目のロックダウンを延長しつつ、ワクチン接種を開始したばかりだったから、上記のような発言が出たことも否めない。
それでもなお、先を見通すことのできないコロナの時代において、より良い世界を「夢見る」ことは本来私たちに欠けてはならない行動であるはずだと私が思わずにはいられなかったのは、昨年4月、哲学者のシュレッコ・ホルヴァートSrećko Horvatと演劇人で活動家のミロ・ラウMilo Rauの対談でもまったく同じ危惧が――「危機の後で、これを悪夢で終わらせてしまうことが一番怖い」(Horvat)――述べられていたからだろう7。
10カ月前のあの時点で、ホルヴァートは「絶望と希望の間で一日中行ったり来たりしてしまって正直疲れる」と素朴に吐露したうえで、次のように述べていた。アポカリプスの原義は「覆いを取ること」であるように、これまで見えなくなっていた問題が今は明るみになっている。だから危機の間は、その問題づくしの社会をより良くすることも、より悪くすることもできる、と。これに対し、ラウの方は、社会で矛盾した立ち位置に置かれた芸術こそが――芸術は、社会が正常に機能していないと成り立たないくせに、社会にとって直接関係のあるもの(relevant)とは言い難い――社会に必要だと説いたのだ。
社会にとって芸術は必要か――健康は最優先、そして心の健康も
より良い世界を夢見るための装置としての劇場、あるいはコンサートホールという点に行き着けば、リッカルド・ムーティ Riccardo Mutiが今年のニューイヤー・コンサートで述べたことを避けては通れない。
音楽家たちは彼らの武器の中に花を持っています――それは人を殺す物ではありません。私たちは歓び、希望、平和、人類愛、そして大文字で始まる愛を届けます。音楽が重要なのは、それがエンタテインメントだからではありません。私たちは何度も、音楽がエンターティナーとみなされる現場を観てきました。音楽はプロフェッション(profession)ではなく、そこには使命(mission)があります。だから私たちはこの作品をやるのです。
音楽が担うのはどんな使命でしょうか? 社会をより良くすることです。丸々一年間を深い考えに奪われてしまった新たな世代の人々を思うことです。彼らは絶えず健康のことを考えていました。健康は第一に最も重要なものですが、心の健康も重要です。音楽はそれを助けます。
だから、世界中の知事や大統領、首相たちへの私のメッセージはこうです――未来により良い社会を築く助けになるよう、文化をつねに最も基本的な要素のひとつとみなしてください。
「健康は第一に重要」としたムーティの発言は、昨年5月8日のドイツ終戦記念日に、ベルリン国立歌劇場管弦楽団が無観客コンサートをテレビ配信した際、指揮を振ったダニエル・バレンボイム Daniel Barenboimがカメラに向けて発した言葉と呼応している。少し振り返ってみよう。
最も優先されるべきは健康です。第二には、この危機に対する経済政策です。けれど今、第三のことが鑑みられるべきです。「文化」という言葉がまったく聞こえて来ないのです。耳にするのは、文化や音楽家たちに対して経済的に何ができて、何をすべきかということだけ。それはもちろん大事です。けれど、どうか忘れないでください。音楽が成立するのは、空間においてだと。私たちが認識すべきことは、私たちが演奏できること、そして聴衆がそれをライヴで鑑賞できることです。膝を折ってお願いします。責任者の皆さん。強く、けれど非常に慎重に、強力な想像力を絞り出して頂きたい――どうすれば、私たちは演奏を再開できるのかを。ありがとう8。
ムーティもバレンボイムも、彼らの長い音楽生活の中で政治的な発言をしばしば行ってきた。私がここに2つの長い引用を持ってきたのは、それらの一つひとつ、あるいは彼らの過去の言動を挙げて検討することではない。そうではなく、彼らの言葉には強い影響力が伴われていたという事実を確認したいのである。
『憂いもなく』の背後にある憂いをみつめる
彼らがつねに第三の軸を――生命でも経済でもない、文化という軸を――掲げているのは偶然ではない。また、そこで語られている「文化」とは、日本語で文化や芸術の話をする際、たびたび信じられているような、一部のハイソな人々だけが十全に享受できるような崇高なものにまったく限られない。そうでなければ、どうしてヴィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでは毎年、せっかく高くて希少なチケットを手に入れた観客は、手拍子でもって『ラデツキー行進曲』の生演奏をかき消してしまうのだろうか?9
むろん、これらの指摘はニューイヤー・コンサートの華々しく、愉快で、そして晴れやかなプログラムの内容にケチをつけたいわけではない。それどころか、今年のプログラムは楽観的と言ってしまうには時節を捉えていた。ヨーゼフ・シュトラウスの『憂いもなく』(1869)のスピーディーな音の運びを、ヴィーン・フィルの演奏者たちによる「アッハッハ!」という笑い声とともに聞くとき、まさか当の作曲者が病を得、すっかり意気消沈していた中でこの曲を書いたとは思うまい。
そして、定番のアンコール曲であるヨーハン・シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』(1867)が私たちに語り掛けてきたメッセージを、ムーティの言葉を借りれば、「喜びと悲しみ、生と死に溢れた、この美しい音楽の波に乗せて、私たちがより良い年のことを思えるように」という願いと聞いた。ヴィーン通にはよく知れた話だが、『美しく青きドナウ』の最初のバージョンには、ヨーゼフ・ヴァイル Josef Weylによる詩がついていた。「Wiener seid froh!(ヴィーンっ子よ、陽気にやろうぜ)」で始まるウィットたっぷりの歌詞をここですべて引くことはしないが、せっかくなので一番くらいは引いておこう。「だから時代に逆らおう/こんな時代に/憂鬱さに/うん、それがいい/後悔しても悲しみに暮れても何になる/だから陽気に楽しくやろうぜ」10 ――この歌詞に立ち戻った時、ひょっとしたら、オーストリアの代表的な音楽というレッテルを超えた何かを、『美しく青きドナウ』から感じ取れるのではないか。
私は何も感染対策を度外視して、ジルヴェスターやニューイヤーをこれまで通りに祝うべきだと言いたいわけではない。そもそもニューイヤー・コンサートに出演したヴィーン・フィルの演奏者たちは、毎朝リハーサル前にPCR検査を受け、舞台裏でFFPマスクを二重に付けるといった対策を徹底してきた11。それを実現できるだけの予算と人員を、ヴィーン・フィルだからこそ投入できたことは疑いない。
感染対策という点において、日本ではここ1年にわたって、芸術の担い手たちが芸術活動の継続に捨て身で取り組んできた。芸術に携わるすべての人々が、観客も含め、できる限りの対策をこれまで講じてきたと思う。だが、有症状になる2日前に感染力がピークに達するというCOVID19の特性は、個人が気をつければどうにかなるレベルを超えている。だから、ソーシャル・ディスタンスの保持やマスクの着用といった、「無症状の感染者が誰かに感染させない」ための措置が義務付けられてきたし、それができない状況においては、少なくともドイツ語圏の複数の団体では、全団員に毎日検査を実施して、感染拡大のリスクを低減させてきた(もちろん偽陰性の保証は無いが、それでも毎日行うことでリスクは下がるはずだ)。そういった対策なしに舞台上で感染リスクのある行動を取る場合、自分や相手が感染していない保証は残念ながら無い。そもそもそういった対策には莫大な予算が必要なので、多くの団体では実現不可能であり、結局のところ、個々人が「いつも通りに」捨て身で活動せざるを得ない。それに目を瞑って応援するのも、逆に糾弾するのも簡単だ。だからこそ、そのような状況にならざるを得ない構造や実態に目を配り続けるべきではなかったのか。
もしジルヴェスターとニューイヤーを祝う行為が心の健康につながるのであれば、私たちはもっとそれについて話すべきだったろう。苦しくなってしまう前に。長い自粛をこれからも休み休み続けていくために。
追記)本稿は、日置貴之の「非日常における観劇生活」(『日本文学』2020年12月号収録)より多くの示唆を得たことを記しておく。
(2021/2/15)
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田中里奈 Rina Tanaka
東京生まれ。明治大学国際日本学研究科博士課程修了。博士(国際日本学)。博士論文は「Wiener Musicals and their Developments: Glocalization History of Musicals between Vienna and Japan」。2017年度オーストリア国立音楽大学音楽社会学研究所招聘研究員。2019年、International Federation for Theatre Research, Helsinki Prize受賞。2020年より明治大学国際日本学部助教。最新の論文は「ミュージカルの変異と生存戦略―『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって―」(『演劇学論集』71、日本演劇学会)。
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註
- 木ノ下グループpresents『No. 9 ―不滅の旋律―』(TBS赤坂ACTシアター、2020年12月13日~2021年1月7日)、https://www.no9-stage.com/.
- Hamburg, “Beethovens 9. Symphonie: Eine Symphonie ohne Chor. In drei Sätzen und einer Aktion,” 31. Dezember, 2020, https://www.symphonikerhamburg.de/mediathek/mediathek-video/beethovens-9-symphonie-308/.
- Zürich, „Versammlung für einen Frosch“, Sylvester-Spezial am 31. Dezember. 2020, https://www.schauspielhaus.ch/de/kalender/19679/versammlung-fr-einen-frosch.
- Wiener Philharmoniker, “Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker”, am 1. Jänner, 2021, https://www.wienerphilharmoniker.at/de/neujahrskonzert.
- フジテレビ「FNN報道スペシャル 平成の“大晦日” 令和につなぐテレビ」、2019年4月30日放送、https://www.fujitv.co.jp/heisei-ohmisoka/.
- “Neujahrsansprache 2020 von Bundespräsident Alexander Van der Bellen: ‘Welche Zukunft wollen wir sehen?’”, 1. Jänner, 2021, https://www.ots.at/presseaussendung/OTS_20210101_OTS0020
- “Philosophical theater: Let’s Think the World Over, with Srećko Horvat and Milo Rau,” on Bitef Theater, April 23, 2020, https://youtu.be/cfQWI3URRS8.
- 3sat, “Gedenkkonzert 75 Jahre Kriegsende: Daniel Barenboim – Staatskapelle Berlin”, 8. Mai, 2020, https://www.3sat.de/kultur/musik/gedenkkonzert-kriegsende-110.html
- ちなみにヴィーン・フィルの事務局長にしてコントラバス奏者のMichael Bladererは、Oe1のインタビューに答えて、「今年は初めて手拍子なしで、ちゃんと音を聴ける回になるかもしれませんね」と愉快に皮肉っていた。もちろん冗談である。
- Wiener Zeitung, “Eine Nation als Faschingsjammer”, 5. Dezember, 2016. 日本語訳はすでに多くあるが、ここでは拙訳とした。
- ソニーミュージック「世界に届けたいのは、「希望」であり「平穏」への思いなんです―――リッカルド・ムーティ いよいよ開催が迫るウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに向けての無観客記者会見・全記録。」2020年12月31日、https://www.sonymusic.co.jp/PR/new-years-concert/info/525551