プロムナード|何故ピアノなのか?という問いに|能登原由美
何故ピアノなのか?という問いに
In the face of the question, “Why the piano?”
Text by 能登原由美(Yumi Notohara)
今年も8月がめぐってきた。故郷の広島を離れて久しいが、原爆投下がもたらした惨禍について音楽を通じてたどる作業は今なお続けている。季節にかかわらず被爆地のことは常に頭のどこかにあるのだけれど、一年で一番暑いこの時期を迎えると、戦争や平和に因んだ催事の話題が増えるせいもあって普段以上にあの夏を意識することが多くなる。そうしたなか、先日目にしたのが「被爆楽器」を使ったコンサートについての記事(1)であった。
この特殊な名前を冠した楽器についてはすでに、原爆投下から75年を迎えた2020年と翌21年8月の2度にわたって私は本誌で小論を書いている{「被爆ピアノと記憶の継承」(1)、(2)}。ピアノ、ヴァイオリン、ギターなど、被爆時の様子を伝えるツールとして注目を集める近年の動向を紹介したのだが、様々な「物語」の陰で原爆の惨たらしい記憶がますます曖昧になっていくのではと、一種の危惧を覚えたことにも触れておいた。とはいえ、単なる傍観者として批判を述べるだけでは卑怯であろう。何よりも、これらの楽器が注目されるのであれば何故なのか。実際どのような役割を果たしているのか。現在、そして未来の世代に何かしらの影響はあるのか。楽器と人間との関係性も含めて丹念に追究していく必要があるのではと考えた。そこから、被爆楽器を対象にした思索の旅が始まった。
すでに前出の記事でも触れたが、「被爆ピアノ」や「被爆ヴァイオリン」という名称が一般に周知されるようになったのは比較的最近のこと。よって、その定義についてはまだ定まったものがあるわけではないようだが、広島市にある矢川ピアノ工房のサイトでは、「原爆投下時1945年8月6日広島、8月9日長崎で爆心地より約3km以内で原爆の爆風、熱線、放射能等の被害を受けたピアノの事」としている。この工房の主、矢川光則氏は1990年代後半からこうしたピアノの修理と再利用を手がけ、現在は7台を所有。それらはこれまでに全国1,500箇所以上の公演で使用されるとともに、2017年にはオスロでのノーベル平和賞授賞式でも使われるなど、海外での認知にも深く寄与している。であれば、彼の「被爆ピアノ」の定義を一つの参考基準とすることは、あながち間違いではないだろう。
とはいえ、私の関心は「被爆当時」にあるのではなく、80年近くを経た「現在」の様子にある。多くはもともと家庭用の楽器で、すでに製造から100年近く経過している。古い上に演奏会向きとはいえないこれらの楽器が何故、これほど重宝されるのか。まずは被爆楽器を題材にした物語や記事、映画、ドラマなどに目を通した。さらに、修学旅行で広島に来た中学生たちが被爆ピアノを使用するということを耳にした時には、そのイヴェントに同席しさえした。そこで目にしたのは、原爆ドームを前に涙を流しながら歌う生徒たち。それを見守る先生たちも皆、瞳を潤ませていた。
平和を願う歌詞やメロディ、それらをこの特別な場所で口ずさんだことで心が揺さぶられたのであろうが、ドーム同様80年近く前の傷を抱えながらも今なお奏で続けるピアノの響きに、心身ともに共振したとも考えられないだろうか。通常のものではなくこれらの楽器が求められる理由とともに、この現象について説明したいという思いがますます強くなっていった。が、ある時、思いもよらぬ別の観点で立ち止まることになる場面に出くわした。
それは、海外の研究会で「被爆ピアノ」に関する研究報告をした時のこと。戦争の記憶とトラウマについて研究する人々の集まりで、音楽研究者は私以外には誰もいない、また日本に関することを扱う者が他にいなかったこともあり、珍しさもあったのだろう。関心を引いたのは良かったが、これまで考えもしなかった質問が出た。つまり、「何故ピアノなのか? 何故日本の楽器ではないのか?」という問いだ。確かに、広島平和記念資料館のデータベースを見ると、「薩摩琵琶」や「琴」、「三味線」も被爆資料として収蔵されている。そのうち、「薩摩琵琶」は1975年に受け入れたと説明があり、近年の被爆楽器熱の高まりに先駆けること数十年も昔に寄贈されていたことがわかる。むしろ、洋楽器についてはピアノのほかはハーモニカだけであるのに対し、和楽器についてはこれら3種類の楽器が保管されているのだ。
だからと言って、日本の伝統楽器を修理して再利用することがあったとしても、ピアノやヴァイオリンのように注目され、これほど頻繁に取り上げられていただろうか? やはりそうは思えない。何よりも、現在では演奏会や教室の数からして和楽器よりピアノの方が圧倒的に多いことは容易に想像できる。学校現場だってそうだ。普段の授業で使われるのはピアノであり、合唱祭ともなれば影の主役のごとく活躍する。今でこそ和楽器を学ぶ時間が設定されているが、私がティーンエイジを過ごした1980年代には日本の楽器に触れる機会は少なくとも校内にはなかった。その80年代といえば、それまで「良家の子女の嗜み」として富裕層を中心に普及していたピアノが、高度経済成長期に台頭した中間層にも広がり、生産・販売台数のピークを記録した時代として知られている。琴や三味線に代わり、このヨーロッパ伝来の楽器がお稽古ごとの主要な地位を占めていく過程については、階層やジェンダー的価値観の変化も踏まえた詳細な分析を数多くの研究者が行なっているが(2)、それらを見るまでもなく、21世紀の今となっては、和楽器よりも西洋楽器が日常的な存在になっている事実は疑いようもない。
私は迷わずこうした現在の日本の音楽事情を説明し、とりわけピアノは我々にとって最も身近に接する楽器の一つだというような返答をした。質問をくれたイスラエルの研究者は頷きながらも、不思議そうな表情をしていた。この時のやり取りはそこで終わったものの、ピアノに限らずヴァイオリンやチェロなど、世界の音楽コンクールの上位にほぼ必ず日本やアジアの奏者が食い込んでいる状況を見てほしいとも言いたかった。ただ、ふと考えてみると、鎖国から開国への変化に伴い西洋音楽の流入が本格化してからまだ150年余り。幼少よりピアノや西洋楽器に触れる機会のあった人ばかりでなく、日本中のあらゆる人々に至るまで、音の感性は明治以前のものから新たに到来した西洋のものへと完全に置き換わってしまったと考えて良いのか。逆に言えば、琵琶や琴、三味線が被爆楽器としてピアノ同様に全国を巡ることがあるだろうか。それらの方がピアノに比べてはるかに持ち運びが容易なのだが…。あるいは、その音に合わせて歌う子供たちの目から涙を引き出すことはできるであろうか。以後、こうした新たな疑問が私の胸の中で疼くようになった。
もちろん、国内のみならず海外にもアピールするとなれば、ピアノの方が共感を得やすいことは間違いない。昨今、話題を集めている「ストリート・ピアノ」同様、オープンスペースに置かれ、誰でも弾いて良いと言われれば試そうとする人は山ほどいるだろう。むしろ、「最も身近な楽器」としてこの鍵盤楽器が親しまれているのは、日本に限らず世界的な潮流と言えるのかもしれない。けれども、仮にそうであったとしても、日本古来の音の感覚はまだ我々の身体のどこかに残っているのではないか。とりわけ、原爆や戦争の記憶、文化としてこれらの楽器を扱うのであれば、感性や心性の変化を捉える上でも重要な問題となってくる。以前は想像だにしなかった問いに改めて頭を抱えながら、被爆から79年目の8月を迎えることになった。
(1)「平和奏でる被爆バイオリン、祖母が習った教師所有…被爆3世ピアニストが広島で共演へ」『読売新聞オンライン』2024年6月28日
(2)例えば、次の研究などを参照されたい。歌川光一 2019 『女子のたしなみと日本近代―音楽文化にみる「趣味」の受容』 勁草書房;玉川裕子 2023 『「ピアノを弾く少女」の誕生―ジェンダーと近代日本の音楽文化史』 青土社
(2024/8/15)