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評論|被爆ピアノと記憶の継承(2)|能登原由美

被爆ピアノと記憶の継承(2)
Hibaku “Atomic” Piano and War Memoirs(2)

Text by 能登原由美(Yumi Notohara)

被爆75年を迎えた昨夏は、「被爆楽器」を題材にした話がいつになく広島を賑わした。以前から国内外で紹介されてきた「被爆ピアノ」に加え、「被爆ヴァイオリン」や「被爆ギター」など。その一つについて私は本誌で紹介したが、続けて書くつもりであった後編についてはなかなか考えがまとまらない。思うように筆が進まなかったのはもちろん怠慢ゆえだが、何よりも、これらの楽器をめぐる「語り」やそれをみる「眼差し」についてどう捉えるべきか、納得のいく言葉を持たなかったためでもある。それから1年。夏になると増える原爆関係の話題とともに、今年も「被爆楽器」を使った催事の情報があちこちから聞こえてくる。前編から間が空いたこともあり、本稿では、こうした現象について少し距離をおいたところから考えてみたい。

「記憶の時代」の象徴として

前回も見たように、「被爆楽器」、とりわけ「被爆ピアノ」が注目され始めたのは比較的最近のことだ。広島平和記念資料館に最初に登録されたのは1961年だが、相次いでコンサートやメディアで取り上げられるようになったのは、2000年代に入ってから。特に昨年は、「被爆ピアノ」とそれにまつわる話が書籍化、ドラマ化され、さらにそれを題材にした新作ピアノ協奏曲の発表もあったことから、私も改めて注目した。そこで私が感じたのは「音楽のもつある種の『危うさ』」であり、戦争体験の風化と継承の形骸化への危惧であった(これについては、前回の拙稿「被爆ピアノと記憶の継承(1)」を参照されたい)。

とはいえ、被爆者の平均年齢は84歳近くに達し、76年前の出来事を直接知る人がいなくなる時期も間近に迫ってきた。風化は避けられない現実でもある。歴史学者の成田龍一は、「戦争経験」から見た日本の戦後について、1950年代を中心にした「体験」の時代、70年代を中心にした「証言」の時代、そして90年代以降の「記憶」の時代と3つに分類するi)。つまり、「体験」を相互に共有する時代、体験者が非体験者に「証言」する時代はすでに終わり、現在は体験をもたない者同士で分かち合う「記憶」の時代にあるというわけだ。

だとすれば、この20年の間に「被爆楽器」が次々と登場するようになった事実、これこそまさに、「記憶の時代」を象徴する出来事と捉えるべきなのかもしれない。文学者で記憶研究のエキスパートでもあるアライダ・アスマンは、記憶の「蓄積装置」として「アーカイヴ」を掲げるがii)、これらの楽器もその一つと言えるだろう。というのも、ピアノの表面に残された爆風による傷跡は原爆の威力を示す証拠として提示され、貴重な「被爆資料」と認定された第一号が資料館に保存されていることは、すでに述べた通りだ。まさに、過去を想起させる装置として、あるいは過去と現在をつなぐメディア(媒介者)として、こうした楽器に期待される役割は今後ますます増えてくるに違いない。

一方で、これらの楽器は他の保存資料とは異なり、展示ケースの中に収められ単に眺められるだけの存在ではなく、「音を奏でる」という楽器本来の機能をなおも果たし続けている。こうした「被爆楽器」特有の性質をどのように理解するべきか。ここでは別の「物語」に目を向けてみよう。

体験を「共有する」楽器

広島の調律師で、被爆ピアノの修復家として知られる矢川光則。もともと古いピアノを修復して病院などの施設に寄贈する活動を行っていたが、ある出会いをきっかけに、「被爆ピアノ」を全国各地で紹介するようになった。やがてその活動は国外にも及び、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のノーベル平和賞授賞式でも彼が手がけたピアノが使用されるまでになる。さらに、矢川をモデルにした映画も制作され、昨年夏には全国公開に至っている。

被爆二世だが、当初は原爆のことをあまり知らなかった矢川が積極的に「被爆ピアノ」を手がけるようになったのは、ある一台のピアノとの出会いがきっかけであったという。所有者の名前をとって「ミサコの被爆ピアノ」として知られる楽器である。当初は修復と寄贈の仲介だけを依頼されたものであったが、「ミサコさん」いわく「私といっしょに原爆を乗り越えた」ピアノの表面に残された爆風の爪痕を見て、「被爆ピアノとして、全国各地でたくさんの人たちに、その音色をきいてもらいたい」と考えるようになった。そこで、修復を終えると彼女の承諾を得て、ピアノとともに全国を行脚するようになったのであるiii)。その後、彼女の被爆体験なども交えた一連の話が、児童文学の大家、松谷みよ子と木内達朗の絵によって書籍となり、幅広く知られることになる。

ここで注目したいのは、楽器自体が持ち主とともに「被爆を体験した存在」と見なされていることだ。

ピアノはミサコさんが四歳のときに、お父さんから買ってもらったものでした。十七歳で原爆をいっしょに体験し、結婚や子育てをへて、七十四年間ずっといっしょにくらしてきたものですiv)

「原爆をいっしょに体験」したこの楽器は、まさに「体験」を共有する存在だ。一方で、このピアノのように原爆による傷跡が残っていれば、戦争の恐ろしさを伝える証拠にもなり得る。すなわち、非体験者の前では「証言者」でもある。が、それだけではない。すでに当初の機能を喪失し、外見上の姿のみを留めるだけになった展示品とは異なり、これらの楽器は「修復」されることで、再び命を吹き返したもの。いわば、「甦り」の象徴という付加価値をも与えられている。体験の共有者であり甦りの象徴というこうした「被爆楽器」の特性が、人々の関心を引きつけることになったのかもしれない。

「記憶」の継承

別の話を見てみよう。矢川の活動に焦点を当てた映画《おかあさんの被爆ピアノ》。この映画では、「記憶の継承」が主題となっている。あらすじはこうだ。東京の大学生、江口菜々子は、亡き祖母が大切にしていたピアノが矢川(実名で登場するが、演じているのは佐野史郎)のもとに預けられたのを知り、被爆ピアノの演奏会で東京に来ていた矢川に随行する形で広島まで足を運ぶ。原爆の話を避けたがる母親のもとで育った菜々子は、それまでほとんど知らなかった投下時の様子を広島の街で一つ一つ辿るとともに、母が抱える被爆二世としての葛藤を知ることになるというもの。

重要なのは、被爆ピアノが「記憶の継承」を示すツールの役を担っていることだ。そればかりか、劇中で何度も使用されるある一つの楽曲も同様の役割を果たしている。その楽曲とは、ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」》の第2楽章。この曲は、祖母が原爆投下時に弾いていたもので、祖母からピアノを教わった菜々子の母が「最後の」発表会で披露した曲でもあった。「最後の」とは、それ以後彼女はピアノを全く弾かなくなり、娘である菜々子にもピアノを習わせなかったのだ。恐らく、ピアノとともにこの曲は、「被爆した」祖母の記憶を想起させるもの。その血を受け継いだ菜々子の母親は、「被爆二世」という自らの存在を繰り返し呼び覚ますピアノとこの曲に耐え切れなかったのだろう。だが、広島の旅を終えた菜々子は、祖母に繋がるこの《悲愴》を懸命に練習し、被爆ピアノを使った演奏会で、たどたどしいながらも母親に助けられながら披露する。つまり、菜々子の母親によって一旦断ち切られ、眠らされていた記憶は、修復を終えて甦ったピアノ同様、菜々子の中で再び息を吹き返し、新たな世代へと受け継がれていくというストーリーである。

失われかけた原爆の記憶が、楽器とともに想起されるという物語。それは他にもある。ささぐちともこによる文、くまおり純による絵で、昨年出版された『ラグリマが聞こえる』。主人公の10歳の少女が、近所の家から聞こえてくるギターの音色とその弾き手である謎の老人を追いかけるうちに、10年前に亡くなった祖父と、爆風で傷ついたままずっと眠っていたギターの被爆体験にたどり着くという物語だ。そればかりか、先の《悲愴》同様に、ここでもやはり一つの旋律が記憶を伝える役割を果たしている。老人が繰り返し演奏するフランシスコ・タレガの《ラグリマ》がそれだ。

示唆的なのは、これらの楽曲が、持ち主の戦争の記憶を呼び起こすための引き金になるとともに、それが「子」ではなく、「孫」の世代で甦った楽器とともに再び奏でられるということだ。というのも、いずれの話でも、孫たちはその被爆体験を祖父母から直接聞いたわけではない。すでに亡くなった被爆者たちの代わりに当時の様子を伝えるのが、これらの「被爆楽器」なのである。しかも、実際に音楽を演奏させることでその記憶を孫たちへと受け渡している。「証言する者」なき時代の、記憶の継承のあり方の一つを示しているのかもしれない。

このように、「被爆楽器」は「アーカイヴ」に留まらず、演奏という本来の機能を再び備えることで、積極的にこれからの記憶の時代に貢献していくのだろう。

一方で、これらの楽器は、展示ケースを飛び出た「生きた資料」ゆえの危険を孕むようにも思える。つまり、それが単なる「名目作り」に利用されたり、恣意的な歪曲を加えられたりする可能性だ。さらに、映画の中で一人の老人が語ったように、「被爆者が100人おれば、100通りピカの体験がある」v)。これは重く受け止めねばならない。とはいえ、文字とは異なり音の場合、こうした個々の記憶を伝えることは非常に難しい。とりわけ、《悲愴》や《ラグリマ》のような美しい旋律を伴うと、細部の差異は叙情の波にさらわれ、あっという間に大きな「物語」の海に飲み込まれてしまう。「被爆楽器」に対する期待が高まれば高まるほど、それを取り巻く眼差しのありかを冷静に見極めていくこと。この意識が、今後私たちには必要とされてくるのではないだろうか。

i)成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波書店 2020年
ii)アライダ・アスマン『想起の空間』安川晴基訳 水声社 2007年
iii)以上、「ミサコの被爆ピアノ」との出会いについては、矢川光則『海をわたる被爆ピアノ』講談社 2010年を参照
iv)同前 13頁
v)五藤利弘『おかあさんの被爆ピアノ』講談社 2020年 142頁

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(2021/8/15)