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評論|西村朗 考・覚書(44)エピローグ|丘山万里子

西村朗 考・覚書(44)エピローグ

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

本年、5月3日。
筆者は例年ゴールデンウィークに開催される合唱祭『Tokyo Cantat』(「音楽樹」主催@すみだトリフォニー)で西村の『敦盛』(2009/無伴奏混声合唱のための)を聴いた。
2018年同祭での『「青猫」の五つの詩』(1996/女声合唱と四重奏のための)に衝撃を受け、翌年『紫苑物語』を見て西村朗という作曲家を描こうと決めた、筆者には因縁の祭だ。
『敦盛』は未聴、スコアも音源もなく、西村逝去後に初めて立ち会う合唱実演。
凄まじい音声であった。怒涛の頂点・要所では、足踏みがどどん、ダダンと地を蹴る。舞台が揺れる。チベットシンバルが鳴る。
この人にはやはり魔物が棲む。いや、声の渦の真ん中に青黒い大蛇がとぐろを巻き、そこらじゅうに真っ青な血を吐き散らし、浴びせかける。
その生臭い血は筆者にも飛んできて、呪いのように筆者を侵す。
一体これは、なんなんだ。
エピローグへ向け、『敦盛』を聴く前の筆者にあったのは、集合意識としての悲の河、そのリアリティとは、だった。もう見えている気がしていた。
そんな薄っぺらい理解の仕方を嘲笑うような音声だった。

『敦盛』は能、世阿弥の作品。源平須磨一ノ谷の戦い後、出家し蓮生法師となった直実が清盛の甥で笛の名手敦盛(16歳)の菩提を弔おうと当地を訪れ、笛吹きに出会う現在能が前半。敦盛の亡霊が平家一門の運命、合戦前夜に陣中で笛を吹き舞ったことを語る夢幻能が後半で、蓮生法師の弔いに、二人はもはや法(のり)の友と感謝しつつ姿を消す。西村が作曲したのはこの後半。口笛や足踏み(能の所作)が入り、チベットシンバルは「魂の救済と西方浄土からの光の象徴」(プログラムより)とのこと。
終景は合唱の長い減衰のうちにチベットシンバルが時折シャランシャランと鳴り、闇へと歩む。やがて暗転、しばらくは全き闇と沈黙の中で、何かを弔うようであった。
だが、筆者が心底打ち震えたのはそんな弔いの音調でなく、とぐろまく大蛇の放つ呪詛の声だったのだ。
真っ青な血、それは佐々木との合唱第2作『大空の粒子』への言及で筆者が引いた佐々木の言葉、「デモ隊の行列を大きな蛇に喩えたとき、その切断面が真っ青であるーー」。そこから滴る血に、筆者は猛毒を飲み干す青頸観音すなわち『大悲心陀羅尼』(1990)を想起したのであった。
いや、そんな生っちょろい話でない、『敦盛』にあったのは怨霊の塊。法の友など嘲笑い仏道など戯論と蹴り上げる、あれは怒気を孕んだ怨霊の叫声であり地団駄だった。
俺の毒を飲み干してみろ、と怨念は噴き上がる。
首塚に、その切断面に、ほれ、次々生えてくるこの生首を、念仏などでしゃんしゃん手打ちなどできようか!
魂の救済?浄土?

*   *   *

ちょうど1ヶ月前、筆者は西村の生地、鴫野を再訪している。
執筆当初から引っかかっていたことを確かめられるか、と。
JR大阪環状線の京橋を過ぎ、寝屋川を渡って一つ目が大阪城公園駅で、そのすぐそばに西村が音楽監督を務めたいずみシンフォニエッタ大阪の根拠地、住友生命いずみホールがある。4年前にそこで『ヴィカラーラ』初演を聴いたが、今回は大阪城公園の船乗り場から水上バスに乗る。桜満開での桜ツァー。屋根なし、光と風を受け、両サイドの桜並木を愛でつつ第二寝屋川を下り寝屋川との合流地点へ、天満橋を左に川崎橋の下をくぐり大川に入り、造幣局の桜で転回、戻る航路。第二寝屋川と寝屋川の合流地点は三角州になっており、近代的なビル群の並ぶその名もビジネスパーク。かつて東洋最大の軍需工場たる大阪砲兵工廠があった。筆者の目的はその三角州を水路から見ること。
大阪砲兵工廠は終戦前日に大砲撃を受け、壊滅した。西村の両親はその死傷者の救助に駆けつけるが、「死者の集積所は、夜、人体の脂の燐火がぼんやり発光していた」そうだ。
この焼け跡はスラム化し、「だから子供のころ、そっちの方角に行っちゃいけないと言われたものです」。
筆者にも幼い頃、「行っちゃいけない場所」はあった。かつての防空壕らしいものが残っているところとか。原っぱの向こうに立ち並ぶ、暗く陰気な長屋の方角とか。
ゆえ、この感じはよくわかる。彼の実家はここから1キロ程度。
「塗料のにおい、鉄の焼けるようなにおい、さびのにおい、そういうのがのべつ漂っていた。悪臭漂う、ある種ダーティな曼荼羅みたいのがだーっと広がっているような風景」「うちの前にはバス停があって、商店街だし、常に人や車が右往左往している。非常に落ち着かない環境なわけです。」1)

スラム化した跡地には浮浪者らが寄り集まったが、1955~59年の間に有名になったのがアパッチ族と呼ばれる人々。夜な夜な川を越えここに不法侵入、残骸の鉄くずを回収売却する在日韓国人、在日朝鮮人ら(だけではないが)で、彼らと警察の攻防を映画『アパッチ砦』のアパッチ族に模してこう呼んだという。開高健の小説『日本三文オペラ』(1959)は、その生活を描いたもの。
だが、そもそも大阪は難波の港がシルクロード文化の入り口で、大和への途中にある湿地帯であった河内平野には渡来人の村落が多く、国際的な文化の坩堝でもあった。西村の小学校時代、朝鮮出身者で名前を日本人にした子どもが1クラス40人に10人はおり「二つ姓を持つ子がたくさんいました」。当時(今も)はこれら半島の人々への強い偏見と差別があった。婆や付き過保護坊ちゃん西村は城東小学校の6年間そこに身を置いたが、中学は当時大阪屈指の進学校、天満橋近くの市立東中学校へ越境入学、作曲家への道を歩き始めている。ちなみに城東小学校にはデモで死んだ佐々木の友も数年通い、西村とは入れ違いだった。
「僕の育った環境は大阪の中でもそんなに裕福な地域ではなかったから、常に朝鮮の言葉、それから当時ホルモン焼きと言っていた焼き肉の臭い、ニンニクキムチの臭い、等々が近くにありました。そういう意味では日本でありながらももう少し広い範囲の東アジアの文化の香りが生々しくあった。それがたぶん僕の東アジア的なものへの志向が自然に育まれた一因でもあるかもしれません。」
『アリラン』にもノスタルジーを感じ、裕福貧乏というだけでなく、人にはさまざまな区別が存在し、一種コロイド状態のようなありようがそこに見えた、と言う。2)
いや、そういう語りで綺麗に整頓される文化論でなく。
いわゆる底辺(という言い方は良くないが)あるいは差別される人々へ、彼はどんな眼差しを向けていたのか。青年期、佐々木が加わった学生運動に、彼はそれもまた暴力だ、としか語らず、完全なノンポリ。理不尽、不条理な現実への抗議には醒めた目しか持たなかった。
三角州一帯は「得体の知れない場所で大阪の巨大な闇を形成していた」。
眼前のそれは桜に彩られ、ビルが林立、巨大な闇など一点もない。
大阪は水路の街でその河面を多くの船が行き交った。様々なモノ、人、歌を載せて。
大きな船が通れば筆者らの小船はその波を受けて揺れ、通り過ぎるのを待つ。
水面に散る陽光が眩しい。

船を降り、公園内の店のカウンターでたこ焼きを食す。4年前、南鴫野商店街のおっちゃんおばちゃんのたこ焼きが絶品だったが、もう無くなっているかも、と。向かいの若い女性がビール片手であるのを羨みつつ、いや、これから鴫野へ行くんだから、とこらえる。
京橋に戻り、学研都市線で一駅の鴫野へ。寝屋川、第二寝屋川の中間あたりにある街で、西村の実家は駅のすぐそば。以前と同じ事務所だが、隣の「なんぼや」は無人餃子特売所に代わっており、南鴫野アーケードはほぼ全ての店のシャッターが降りていた。むろんたこ焼き屋もない。なぜか入り口の駄菓子屋に数人人だかり、隣に謎のアップライト「誰でもピアノ」コーナーがあった。そのわずかの隙間に自転車を何気に駐めてゆくおばさんたち。蓋を開けるとキーに絆創膏が点々と貼ってある。バッハの平均律『第1番』をほろほろ弾いてみる。場違い。
その狭い路地裏の奥、ふとキムチの匂いを嗅ぎ、そこを離れる。

その日は夕方、宿のすぐそば、1703年に起きた『曽根崎心中』(3ヶ月後には人形浄瑠璃初演@竹本座/近松門左衛門作)で知られるお初天神・露天神社(つゆのてんじんしゃ)へ行く。恋人の聖地とかで若い子たちがぶらついている。横手の路地は人工葉っぱのアーチに紙風船の行列で、なんかちゃっちい。文楽で見た人魂ゆらゆら、どころか神社背後に覗くビル群に情緒皆無。心中土壇場で唱える「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」、最後を「未来成仏疑いなき 恋の手本となりにけり」で締める舞台の大ヒットで、この地は事件後心中のメッカとなった。幕府が心中取締令を出したが(1723年)、遺骸は多く船で道頓堀墓所に担ぎ込まれた。もともと道頓堀(難波村の荒地)は豊臣滅亡とともに灰燼となった大阪の再建に市中の寺院、墓地を市外4ヶ所に集め、市内の放浪乞食(野非人)を集団居住させたゲットーのようなもので、そこに芝居小屋、見世物小屋、遊郭などなどが並ぶようになる。日雇い汚れ仕事に群がる放浪乞食や非人の類がひしめき、行き倒れや病者の堆積する底なし泥沼、竹林寺、法善寺を中心とするハレとケガレの人間模様が堀沿いに広がった。お初らの生きた世界はまさにコロイド状であったのだ3)
恨みつらみ、この世の不遇はお念仏で仏に預け、いざ浄土へ参らん。
曽根崎心中の大ヒットには、こうした当地の歴史、地霊精霊心情が背景にある。
今日、天神へのアーケードは飲み屋、焼き鳥、焼肉、カラオケなどせせこましく身を寄せ合う猥雑さ、焼き鳥片手の海外観光客が行き来するのであった。

その前日は地下鉄谷町線で谷町九丁目下車、齢延寺(曹洞宗)に墓参している。本堂両脇丸太柱に彫り込まれた龍の立派な寺で、満開の桜を背に西村家の墓石。しばし合掌。
すぐ近くの生国魂(いくくにたま)神社、さらに四天王寺へと回った。
一帯は夕陽ヶ丘と呼ばれ、かつては眼下に海、西方に沈んでゆく美しい赤光が望めた高台であったという。
この丘で、臨終を前に『新古今和歌集』選者、藤原家隆(1158~1237)が詠んだ名歌、西村が愛唱したという歌を一つ、著作『曲がった家を作るわけ』より引く。(p.254)
「契りあれば難波の里にやどりきて浪の入り日を拝みけるかな」
ここから下れば通天閣・新世界、難波・道頓堀はすぐだが、道頓堀界隈は昨秋訪れており、日暮て繁華街をほっつき歩く気持ちにならず、帰宿。梅田地下街で新世界の串カツだるま支店を見つけ、やっぱ「道頓堀セット」でしょ、と、どで焼き(ってなんですかと聞けず)、酒とともに「熱いから気をつけて」と金属バットに載って出てくる串9本と山盛りキャベツをまったり食したのであった。

*   *   *

『敦盛』の、あれはなんだったのか。
スコアを入手し、常と変わらぬ西村節を目で追う。
「生死を結ぶ鮮烈な劇的情念を、聴き手の心に打ち込むように、一種のねばりを持って、語るように歌う(謡う)こと」
「 Si~~~」「口笛(妖しい光を漂わせる霊界からの微風のようなイメージで)」
情念を、筆者は怨念と聴いたのか。
集合意識、悲の河、などの言葉が頭をぐるぐる回り、得体の知れない巨大な闇であった三角州がしきりと気になる。以前、調べはしたものの目を通さなかった『日本三文オペラ』4)を開く。
ストーリーは追わない、その地についての記述のみを拾う。
筆者が鴫野へ乗り換えた京橋付近、終戦当時の城東線沿線の町は全て低湿地帯で、中小企業の町工場5)や朝鮮人街が集落をなしているところである。「このあたりは、どこを歩いても、いたるところで下水溝が泥や米粒の嘔吐をもりあげ、道を緑色に腐らせている。」p.255
主人公フクスケはその中でも最下層の貧民部落に誘い込まれアパッチ族となったが、部落は「平野川6)をわたる城東線の鉄橋の脚部から発生して、荒地の対岸一帯にほぼ100軒、人数にして800人前後の人間が鶏小屋のような土の腫物のなかに住んでいる」。定住者もいるものの、多数は前科者、浮浪者、失業者、密入国者などで、「たえず風のようにきては水のように去ってゆくのであった」。p.274
1879年から66年間、黒板塀に囲まれ底知れぬ運河によって隠されていた35万坪に及ぶ砲兵工廠が鉄骨の密林と砲弾、戦車など無数の残骸が埋め尽くす廃墟となった敗戦時には約7万の人々が働いていたという。やがて硬く強直なススキの原が一面を覆う頃、これら部落民たちが集団を形成、夜10時から明け方まで夜毎闇を這いずり回り、シャベルやツルハシをふるい鉄屑を拾い、伝馬船に載せ川を渡ったのである。泥川は、落ちれば生還はなかった。
族の頭領キムによれば、「ここらは寄り合い世帯や。ええか。住んでるやつは朝鮮、日本、沖縄、国境なしや。税金もないし、戸籍もいらん。南鮮も北鮮もないのや。指名手配や密入国した奴もいよるし、炭鉱で赤旗振って首になった奴もいよる。な、ええか。」p.292
西村が「行っちゃいけない」と言われた巨大な闇とは、この一帯だ。
少年西村が、足を踏み入れることはなかったろう。
だが、その存在は知っていた。クラスにたくさんいる子ら、大山君は朴さん、金田君は金さんだったその背後に、おぼろに何かを感じていたに違いない。
筆者が言えるのはそこまで。

*   *   *

悲の河。
「この世の悲しみの奥にあるものはなんだ?」
意味不明の宿す音霊言霊歌霊の素の声、一音成仏の圧倒的な「原始力」、その底に流れる「共苦共覚」のようなもの。それが西村の「悲」では、と筆者は言ったが理屈に過ぎない。
『敦盛』に筆者が見たとぐろまく大蛇が吐く血は、鐘に巻きついた清姫の恋の炎でも水でもあったろう。絵師が最後に将軍に向け吐く呪い「あなたの地獄 その地獄の名は “虚無”!」でもあったろう。筆者は滅びの美学などと呼んだが、そんな生やさしいものでない。
今、酷烈なリアリティを持って筆者を抉るその音声、それがどこから発せられたのか。
ガンジスを西村は死と再生、穢れと浄化の混沌たる「悲の河」と言ったが、鴫野を含む三角州地帯、あるいは難波・道頓堀・新世界など、そこら一帯を流れる幾筋もの河のそれぞれが、「悲の河」であったのではないか。彼はたぶん自覚なしに、いつもその淵に立っていた。そんな気がする。
我の井戸の底の底にじっとり滲みる声声の、蓋を開けたら歯止めが効かない、それが宿すものの何たるかを感知すればこそ、彼は声の領域になかなか手を出さなかった。
だが、出せば必ずそこにそれらが現れ出た。とりわけ合唱作品に。
それは繰り返し繰り返し、姿を見せている。
声の河は、嘘をつけない。

*   *   *

本論考半ばで筆者は道について考えた。
ウィーンのシューベルト『軍隊行進曲』が小学5年の西村に降りてきた最初の神秘体験であれば、そこに筆者はロマ性を見た。アレクサンドロス大王の北西インド侵入(紀元前326)で、ラジャスターンから移動した人々がロマの源であったと言われる。バラモン社会の最下層不可触民チャンダーラは人々が忌み嫌う仕事を担ったが、そこには民俗芸能者も含まれた。流れ歩く楽師たちの楽音は、見知らぬものへの恐怖と誘惑とを村々の人々に撒いて消えてゆく。芸能者とは古今東西どこであっても異能・異物の人々、あやしくいかがわしく禍々しい存在だ。そうした異物感こそが、芸能本来の宿す「魔性」であり、高尚な芸術音楽とは一線を画す。だからこそプラトンは都市国家にあっての異端を「ヘテロ」とした。が、東アジアは「ヘテロ」を多様の中に包摂し、そこに人の自然本然を見た。
言ってしまえばそれが西村の入口で、彼はそこにヘテロフォニーを見出し、さらに人類史を遡り、宇宙開闢の暗黒原水に至る。
ユーラシアの四大文明はいずれも河沿いに発達、人間の歴史を紡いだが、人々が拓く人の道、ロマの道であれシルクロードであれ、その地層時層地脈水脈に底深く流れる原水の響きをこそ彼は聴き続け、汲み続けた。それが彼の音声であったと思う。
闇も光も生も死もハレもケガレもごた混ぜのガンジスは、寝屋川でも平野川でも道頓堀川でもあったろう。幼少時から母に連れられ、大阪のあらゆる大衆演芸に親しんだ彼は、一方で日没後真っ暗で異様な感じの砲兵工廠跡を常に片隅に感じてもいた。
「悲の河」の感性はそこに育ったのではないか。
戦後登場する戦中派も含めての西洋音楽畑の日本の作曲家で、このような精神・肉体・風土を鮮明に強靭に持ち続け、いわゆる日本人性を対西欧として主張するのでなく、西欧近代自我意識など跨ぎ超え、哲学宗教思弁にとらわれず、あくまで自身の生理・リアリティに従い全宇宙開闢太古普遍の音の原水から発声し続けた作曲家を他に知らない。
あの世の憧憬もこの世の怨念も、讃歌も呪詛も、神の歌も鬼の唄も、等しく彼は往還し、時々に忘れ草、忘れな草をそこに植え続けた。
なるほど色彩豊かな器楽音響、その気宇壮大をもってシンフォニストと知られようが、彼の本然は「声」にこそあると、再度言っておく。

最後に、初期合唱作品で彼がこよなく愛した女流歌人『式子内親王の七つの歌』(1990)より二首を引く。

しるべせよ跡なき浪に漕ぐ舟の行方も知らぬ八重の潮風
しずかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞかなしき

(完)

西村朗 考・覚書 全回

1)『光の雅歌』p.13
2)『洪水1号』 p.54,55
3)『ベナレスと道頓堀』
4)『日本三文オペラ』
5)西村の実家はフィリピンから帰国の祖父が鴫野に開いた町工場の一角で、父は自転車屋を営み、母は市役所の勤め人であった。
6)平野川は第二寝屋川にかかる鴫野大橋と弁天橋の中間地点で平野に向け分岐する川。

参考資料)
◆楽譜
『敦盛』栗友会より拝受
『式子内親王の七つの歌』(1990/無伴奏混声合唱のための) 音楽之友社 1990
『曲がった家を作るわけ』 西村朗 春秋社 2013

◆書籍・資料
『洪水1号』洪水企画(編集・発行人/池田康) 草場書房 2007
『光の雅歌』西村朗+沼野雄司 春秋社 2005
『日本三文オペラ』 開高健全集 第2巻 新潮社 1992
『ベナレスと道頓堀』―葬墓制と他界観の一局面― 山折哲雄 国立歴史民族博物館研究報告 第49集 1993

(2024/6/15)