評論|西村朗 考・覚書(43)オペラ『紫苑物語』(下)と『胡蝶夢』〜悲の河|丘山万里子
西村朗 考・覚書(43)オペラ『紫苑物語』(下)と『胡蝶夢』〜悲の河
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
「歌道」を見る中で、筆者は「歌」は「悲」とした。
ここで仏教における「悲」「大悲」を見ておく。
「悲」(karuṇā)とは文字通り悲嘆のほか、あわれみ、同情、いとしむ、苦しみを除く、苦しみを除くあわれみ(『維摩経』『大日経』などに記述)など1)。
「大悲」(mahā-karunä)とは大いなるあわれみ。大悲は仏のあわれみに限られるという考え方もある。また、他人の苦を除くのが「悲」で、他人に楽を与えるのが「慈」(maitrī)と対されると考えられた2)。
西村は1994年ベナレスを訪れ、ガンジスの日没日昇に「生と死」の深い啓示を受ける。『蓮華化生』(1997)(第39回)はその音景だが、同年、彼は『悲の河Ⅰ』(独奏ヴァイオリンと弦楽のための)、『悲の河Ⅱ』3)(クラリネットと9人の奏者のための)も書いている。『悲の河Ⅰ』は舞い降りる高音が河面に吸い込まれ、深い澱みから伸び上がる不穏の音声にヴァイオリン独奏の切実な調べと哀感に満ちた歌が流れる美しい作品だ。彼はその CD解説で仏教の「悲」が魂を苦悩から解放するという意味を持つことに触れ、「『悲の河』とは生と死の境を流れ、生の苦しみから魂を救い、来世へと送る幻視の河である。(中略)1994年の春、インドの聖地バラナシ(ベナレス)で夕刻に見たガンジスの流れは、仏教とヒンドゥー教の違いを超えて、まさに悲の河という趣であった。(中略)死者の生の記憶の内にあるさまざまな苦しみはゆっくりと大河の流れに解けてゆくかのようであった。」4)と述べている。
ガンジスはヒンドゥー教ではヴィシュヌの足の指から流れ出た女神ガンガー(Gangamataji/母なる河)であり、沐浴により罪は浄められ遺灰を流せば輪廻から解脱すると信じられるが、その河に西村は「悲」を幻視している。ここで「悲」はむろん苦からの解放、人の苦しみを取り除くことだが、同時にその光景を、こうも言う。「それは生きとし生けるものの、切なる祈りの心に宿りうるひとつの原風景、原光景といえるのではないだろうか。」(『光の雅歌』p.136)
「大悲」は、佐々木が東日本大震災後に津軽三味線二代目高橋竹山と歩いた東北の地での共感疲労への共震として発される。佐々木は被災の人々の話をひたすら聴き続け、それしかできなかったと言う。だからこそ「詩」が産まれ、その詩に西村は反応した。それが『鎮魂歌―明日―風のなかの挨拶』(2012/無伴奏女声合唱曲)だ。そこで彼は佐々木の詩魂の錯乱と自身の創作における冷静の著しい欠如を語りつつ、こう述べる。「仏教にいう”大悲心”(同情同苦し慈愛の献身をなす心)の響きを熱く感じた。この三つの詩魂はすなわちまさに”大悲(マハー・カルナー)”であると言ってあやまりではなかろう」。
その女声合唱の高音の澄明な圧力に筆者は「同苦」を聴き、佐々木の詩に「受苦」を、西村の音声に「大悲」を感受、この「同苦」の響応が二人を繋ぐ最も深い地下水脈ではないか、と考えたのであった。佐々木の詩も西村の音もいずれもが「歌」であれば、すなわち「悲」だとも言えよう。
一方、「大悲」にすぐと想起されるのが『大悲心陀羅尼』(1990/女声3部)。サンスクリットの陀羅尼(咒)をそのまま借用(ゆえ意味不明)、曲冒頭にsempre forte の指示のほかは強弱記号もなく、アクセントでのみ表情を創る特異な作品で、言霊・音霊がそのまま顔を出す音声世界であった。これは合唱第1作『汨羅の淵より』(1978/無伴奏混声合唱)での読経・意味不明路線上で、『清姫―水の鱗』での『観音経』マントラもそれ。『紫苑物語』の「呪詛の歌」「仏頭の歌」「鬼の唄」もこの流れを汲む。
だからこそその音霊言霊の波間から、平太の言葉と叫び「この世界の悲しみの奥にあるものは何だ?」「悲しみだけが消え残る。」が浮き上がってくるのであろう。
「歌」は「悲」とは、ここに極まるのではないか。
いや、一気に言えば「歌道」も「弓道」も「神仏道」も全てを呑み込み流れている大河、それが西村の「悲の河」であり、その生死両界に架かるカタチなき設営行為たる響きと声の大曼荼羅こそが『紫苑物語』なのではないか...。
筆者は西村作品を追ううち、「死」への彼の異常なまでの敏感・関心を感じ始めた。ガンジス日没日昇体験が、彼の心身の内裡に奥深く潜んでいたその感覚をはっきり呼び起こし、自覚させたのは確かだ。
人類の初発の声を筆者は「死」への応答としたが、西村の発声もおそらくそれではないか。
仏道でブッダの言う四苦八苦は生老病死の四苦に、愛別離苦(愛する人との別れの苦しみ)・怨憎会苦(おんぞうえく/恨み憎む人と遭遇する苦しみ)・求不得苦(ぐふとくく/求める物が思うように得られない苦しみ)・五蘊取苦(ごうんしゅく/精神身体が思うようにならない苦しみ)を加えた八苦。
この苦から如何に逃れるか。それが仏教の祖たるブッダの教え(原始・小乗仏教)のキモであり、解脱への道の開示だった。最古の仏典『スッタニパータ』(ブッダが語った言葉に最も近いとされる)にはその道標が示されており、そこに「矢」という一節がある。いくつか拾う5)(後で気づいたが、『絵師』での良秀が「人間の業苦についての語り」(西村台本)で同内容のことを語っている)。
「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。」(574)
「生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。」(575)
「汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。」(582)
「人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。」(586)
「己(おの)が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。」(592)
「(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。」(593)
そう言われても煩悩の矢を自分で抜くこと(自力)など巷の一般人(凡夫・衆生)には難しい。なんとかしたいと思ったのが大乗仏教で、ブッダの死からおよそ500年後に現れる。「ブッダが言ったことは実はかくかくしかじか」と新解釈を展開し、民間の支持を得た。それが種々のルート(雑駁に言えば南ルートは原始仏教、北ルートは大乗仏教)をへ、大乗仏教の多様な宗派(密教もそれ)となって今日に至るわけで、本作『紫苑物語』に出てくる密教経典『大日経』もその一つ。
大乗のキモは「皆さんに刺さった矢を取り除くためにできる限りのことを致します。それが完遂するまでは私は涅槃に行きません」とのメッセージだ。菩薩6)の四弘誓願(しぐせいがん)がそれで、仏道を求めるにあたり最初に立てる四つの誓願「上求菩提・下化衆生」(悟りの知恵の追求とともに衆生に益を与えること)、つまり自利・他利をいう。
岡本かの子が『観音経』で「観世音菩薩は、逸早く駆けつけて“皆得解脱”の合理に是正克服戦と待ち構えて居る。常に、スタートを切らんとし身構えて居る走者の如きものである。」と言っている通り(第38回)。
筆者はこの論考の最初に、奈良の新薬師寺を訪ねた。2020年、新作『ヴィカラーラ』(12奏者と弦楽のための)のプログラムに以下の言葉があったからだ(事前に読んだ)。
「十数年前、偶然にも人の気配がなく、ただ一人初めてこの堂内に立ち入った時、まさに心身は震え、凍りついた時間の中での幻聴を体験。何か恐ろしいほどに激しく骨身に響くものを感じた」。
薬師如来は人身健康の保護者であり、生きとし生けるものの命や魂そのものの象徴、化身ゆえ8世紀の人々がこの仏にどれほど全身全霊で祈りすがったかを思うと、
「その極限的な切実さに、生きるということの意味を新たに痛感し、長く合掌した。その合掌の記憶が、時を経てこの作曲となったと言えるかもしれない」。
新薬師寺の本尊薬師如来には十二の大願があり、筆者はそのマントラ「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を口に転がしつつ堂守僧侶が見せてくれた『薬師瑠璃光七佛本願功徳経巻上下』をめくったのであった。初演時、ホールを包んだ音の波を筆者は瑠璃光波と言ったが、この「瑠璃光」7)に今、忘れな草の瑠璃色を思う。
コロナ初期であったことから西村はこの創作に、祈願の気持ちを込めたという。当時筆者は斜め目線であったが、それはやはり純心の動きであったろうと理解する。
ともあれ、ここで筆者が確認したいのは、宗教と呼ばれるものの本質は、古今東西「死」にこそある。「悲」とは「死」を因とし、であれば鎮魂歌こそ「悲」の最たるものと言えようか。『ヴィカラーラ』もまた、その応答であったのかもしれない。
本オペラでの引用が『大日経』とは、その根本が「大悲」ゆえだろう。むろん、その経文の音調がすぐれて西村の感性(語感)と重なるからではあろうが。
石川の原作は、谷底まで落ちず真下の岩の窪みにとどまった仏頭(ほとけの首)の様子をこう語る。
「目をむき、牙を鳴らし、炎を吐きかけ、あくまでも荒れ狂って、悪鬼と言うものか、これを見れば三月起こりをふるうほどにひとをおびやかした。ところでこの首をもちあげ、それが元あった位置の、岩のあたまの部分に載せると、ぴったり納まった。そして悪鬼の気合いはウソのように消えて、これを見れば相好具足、ずいぶん頼みになりそうな大悲の慈顔とあおがれた。」8)
西村がなぜ「死」を絶えず意識したのか、そんなことはわからない。
ただ彼が四苦八苦に悩める衆生を自分もそうだ、と、物心ついてこのかたずっと感じていたのではないか、それはここまで作品の声に耳を傾けて唯一、述べることのできる筆者の実感だ。
菩薩道は上位に仏、下位に衆生を置いている。だが、西村にそれはなかろう。彼の信心は大日如来への帰依などでなく、宗教の基底たるまことの「悲」(仏の大悲でなく)に直結するもので、だからこそ「音の原人」たりうるのだと筆者は考える。意味不明(ことわけ以前)の宿す音霊言霊歌霊の素の声、一音成仏の圧倒的な「原始力」と、その底に流れる「共苦共覚」のようなもの。古代人は人間の大もとたる「共苦共覚」(それを言葉で言うのは難しいが)すなわち「悲」への原感覚を備え、それこそが西村の言う集合意識、すなわち「悲の河」なのではないか。
筆者は彼の引っ張ってくるあれこれ経典マントラなどなどの宗教素材を胡散臭く思っていた。が、それは方便。その底の底にあったのは宗教以前、人類が備えていたであろう「悲」たる「共苦共覚」ではないか。
「この世の悲しみの奥にあるものはなんだ?」の問いの傍に彼はいつも立っていた。一見一聴では、『紫苑物語』もただの官能満載宗教借用エンタメオペラに思えたが、ここに彼の全容があったと、今は思う。ただそのことと、実際の舞台は別。DVDでの視聴も別。
『ブッダの言葉』が今なお新たに生きているように、本作もさまざまなアプローチによってその命を絶えず生き直してゆくだろう。そういうオペラだった、と思う。
「呪詛の歌」「鬼の唄」に響く音声は、それぞれの耳と心で、どうにでも聴こえよう。意味不明の意味は、各々が掴み取るものだ。
ただ筆者は、「呪詛の歌」の清らな音調、「鬼の唄」の異形、そして平太の第2幕第5場でのホーミーを伴う狂熱の歌唱に、西村の音楽の真骨頂を聴く。
なるほど本人も語るように、西村のテーマは「死」かもしれない。だが筆者は、原始世界の湛える共苦共覚、集合意識、すなわち「私たち」たる「悲の河」にこそ、彼の本然を見たい。
* * *
西村が完成した最後の作品『三重協奏曲《胡蝶夢》』(2023)に触れておく。
スコアの作品解説をそのまま引く。
「胡蝶の夢」は、中国戦国時代の宋の思想家荘子(BC369~BC286頃)の残した有名な説話。
「あるとき夢の中で、一匹の蝶になった荘子は、自分が荘子であることをすっかり忘れて、美しい花々の間を舞って楽しい時を過ごしていた。ところが、急に夢から覚めると、驚いたことに自分は荘子という一人の人間だった。しかし待てよ、自分は本当は蝶であって、蝶の夢の中で今、人間になっているのではないのか。」
ずっと以前は、たわいのない説話だと思っていたが、歳を重ねるにつれて意味が深まり、今日ではその内容に対して一種の実感のようなものが生じてきた。
そこで今年70歳を迎えるにあたり、この説話をテーマにしてみることにした。
三人のソリストの意味は、あえて言うならば、ヴァイオリンとクラリネットは、蝶もしくは人(固定的ではないが)であり、ハープはそのどちらでもなくどちらでもある「本性」のようなものと言えるかもしれない。
曲の最後でソロの三者を一つに同化させるという道もあったが、それは採らず、ヴァイオリンは超高音域に上昇して消えてゆき、クラリネットは最低音域に沈んで途切れ、ハープは中音域の点描音で沈黙する。
この曲の夢はそのように解けてゆく。
いずみシフォニエッタ大阪と東京シンフォニエッタの共同委嘱作品として、2023年の春に作曲。
(西村朗)
2023年7月8日@住友生命いずみホールで、《新・音楽の未来への旅シリーズ》いずみシンフォニエッタ大阪第50回定期演奏会「50回記念―生誕60,70,80,90,100年特集」として指揮:飯森範親、ヴァイオリン:小栗まち絵、ハープ:篠崎和子、クラリネット:上田希、いずみシンフォニエッタ大阪で初演された。筆者は大阪公演に行かれず、氏の急逝後の2023年12月22日に東京公演で聴いた。7月、大阪に行けなかったことを詫びたメールに氏はすぐにスコアと音源を送るよう手配したとの返信で、東京公演ではすでにスコアが手元にあった。が、いつものようにまずは音、と演奏会に出向いた。
ここまでの幻想美があったろうか。とにかくハープが美しい。それが筆者の印象であった。
『紫苑物語』の桃源郷で、胸いっぱいに湧き出る歌を歌っている。どんな異形の音もなく、ひたすらヴァイオリンとクラリネット、ハープがさまざまに互いを繋ぎ、互いをくるみこむ。
当夜の会場ではお会いできなかったが、佐々木氏はそれを「美しい音の散華」とおっしゃった。まさにその通り。
楽曲分析はまだ筆者にはできないし、したくない。
冒頭、弦の不可思議な濁音一声ののちHp.ジャララランからすでに夢幻世界へ誘われる。下では弦がppp<f>pppの波。やがてVn.が歌い出し、その情緒豊な調べにHp.が絡む。蝶が舞い飛び、あるいは急速な羽ばたきを見せ、その背後を管弦打が静かに寄り添い、縫いあげ、あるいは埋めてゆく風情。Cl.が出てくるのはVn.独奏の自在なトレモロ飛翔の後で、全80ページ半ばに近い。三者揃っての短い輪舞ののちのCl.独奏はそれまでの沈黙を取り返すかの勢いで多彩に動き回り、かなりの長さ。続く多種多様な楽器のざわめき、歓声(ポルタメント、グリッサンド、トレモロなどなど各種手法全開)の高揚を打が断つ。再び各楽器のトレモロがあちこちで揺らぎはじめ、さらなる高みへ。総休止ののち Misteriosoのコーダで淡い幻想の色を浮かべ、宙に溶け入る。
「散華」とは法要の折などに撒く花のこと。筆者ははるか昔、とある禅寺の本堂落成記念に、豪奢な僧衣を纏った僧侶たちによる壮麗な散華を間近に経験したが、堂内を巡行する読経の響きとともに、ハラハラ撒かれてゆく色とりどりの花びらに、なるほど極楽浄土とはこのようなものであるのかと一瞬思ったものだ。馥郁たる花の香りに満たされた金色仏の座す堂内、花籠を携えた僧衣の袖が揺れ、ふわり宙へ舞いほろほろ溢れてゆく花びらたちが生む花の帯、花の道、花の川。仏道とは、このように一瞬の幻を描き出す儀礼方便によって人々の信心の種を蒔くのであろう。
これもまた「悲」なのであろうか。
なぜここで荘子だったのかには触れない。
ただ合唱第1作『汨羅の淵より』が屈原であったこと、その後、漢字文化圏から材を取ることがなかったことだけ指摘しておく。
なお、本作に似た響きの世界は『虹の体』(2008)にも聴き取れる。
虹の体とはなんだろう、とこれまた胡散臭く思ったが、楽器編成(『胡蝶夢』より打楽器が4つ多い。ラジオ・フランスの委嘱で東京シンフォニエッタのパリ公演作品)が似ていることもあり、響き、音調に類似の色彩がある。虹の7色に合わせ7つの部分( A~G)より成り、夢幻の耽美ありケチャもどきありと多様。こちらは甘やかな幻想とともに活力に溢れたエネルギーをも撒き散らしている。本人によれば、虹の体とはチベット仏教由来で、スコアには以下の説明がある。
「チベット仏教において修行を積み、高い悟りに至った行者は、その死の時、魂は肉体を離れて永遠の至福の光と同化し、同時に肉体も虹の輝きを放って大気中に昇華して消えることがあるとされている。それを“虹の体”と言う。この作品はそのような、魂と肉体の、輪廻からの美妙なる解脱に対する憧れをこめた瞑想的幻想曲である。」
『チベットの死者の書』が与えたものの大きさを改めて思うものの、ここにある屈託なき自己解放は、『胡蝶夢』においてはずっと成熟した自然な静けさに昇華されているように思う。
* * *
『胡蝶夢』完成後、西村氏から頂いたメールの一部を最後に引く(5月16日付)。
「7月に大阪のいずみホールで初演予定の新作、三重協奏曲〈胡蝶夢〉〜ヴァイオリン、ハープ、クラリネットと管弦楽のための〜が仕上がりました。初めて、荘子に触れました。
が、とても危険な体験で心身の生気を吸い取られてゆくようでした。
なので、荘子にあがなう*ような曲になりました。なかなか前に進めず、かなりエネルギーを消耗したのに、18分が精一杯でした。」(*ママ)
筆者は執筆当初から自作についての氏のコメントをお断りしており、受け取るのは毎回の掲載文への簡単な感想と今後の公演情報についてのみ。新作についてこのようなことを吐露なさるのは初めてで、かなり驚いた。夢と現との往来に、よほどエネルギーを吸い取られたのだろう、とその時は思った。
東京公演を聴き終え、氏は散華の中にあちらへ渡られたのだ、という気がした。
佐々木氏との対談の中で未知の音を運んでくる第六感について語り、これを働かせるための真空地帯でその作動を待つ、「消えていく、戻れるかどうかのぎりぎりのところを待つんです。」と言っている。そういうぎりぎりのところで得た音たちの散華...。
直接のメールをいただいたのは入院を知らせる7月21日が最後で、その1か月半後に旅立たれた。未完の『ピアノとオーケストラのための「神秘的合一」』の第2楽章、コンセプトの指示のみの『チェロ独奏曲「オン・マニ・パドメ」』を遺して。(第39回)
次回で2020年7月15日号より開始した本論考を終える。
脚注
- 『仏教語大辞典』 中村元著 東京書籍 1981 p.1130
- 同上 p.926
- 『悲の河Ⅱ』は、『Ⅰ』とは全く異なる音調でほぼ全て弱奏、未知の響きを求め種々の音響的試みを行った実験的作品。現代作品演奏を主軸とするオーストラリアの室内オーケストラ ELISIONによる委嘱。
- CD『残光』 カメラータ・トウキョウ 28CM-522 解説
- 『ブッダの言葉』 中村元訳 岩波書店 2007
- 菩薩とは悟りを求める者のこと。
- 瑠璃光とはエメラルド、アクアマリンといった緑色、青緑色、ラピスラズリの宝石の輝きを言う。
- 『紫苑物語』 石川淳著 講談社文芸文庫 1989 p.77
参考資料)
◆楽譜
オペラ『紫苑物語』 新国立劇場創作委嘱作品 全音楽譜出版社 HIRE LIBRARY 1,2巻
『三重協奏曲「胡蝶夢」』全音楽譜出版社 HIRE LIBRARY
『虹の体』 全音楽譜出版社 2009
◆書籍
『紫苑物語』台本 西村氏より借用
『東北を聴くー民謡の原点を尋ねて』岩波書店 2014
『大日経 金剛頂経』大角修訳・解説 角川ソフィア文庫 2019
『仏教語大辞典』 中村元著 東京書籍 1981
『ブッダの言葉』 中村元訳 岩波書店 2007
『紫苑物語』 石川淳著 講談社文芸文庫 1989
◆DVD
オペラ『紫苑物語』西村氏より借用
◆CD
『三重協奏曲「胡蝶夢」』カメラータ・トウキョウより借用
『残光』 カメラータ・トウキョウ 28CM-522 1999
『虹の体』 カメラータ・トウキョウ CMCD-28282
(2024/5/15)