評論|伊福部昭―独り立てる蒼鷺―15.(最終回)蒼鷺は飛びぬ、未だ見ぬ郷里へと|齋藤俊夫
15(最終回).蒼鷺は飛びぬ、未だ見ぬ郷里へと
15.The Gray Heron has flown, toward Hometown which he hasn’t seen yet.
Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
和人、アイヌ、北方の諸先住民族等々、それぞれの民が別なく自らの肴持ちて集い、それぞれの酒酌み交わし、それぞれの悲喜こもごもの歌や踊りに興ずる。戦も、支配も、隷属も、差別もない。そんな理想郷がこの世界のどこかに現れることはこの先も永遠にないのだろうか。伊福部音楽を聴く度に感じる郷愁はこの未だ人類が到達したことのないまほろばを恋い焦がれる想いに他ならない1)。
前回「エグザイル・オン・レイト・スタイル」で論じた、生涯頑迷なエグザイル(故国喪失者)として晩年を生き続けることを選んだ伊福部にとっての郷里とは、このまほろばではなかっただろうか? 本論第8回で述べた通り、音更でのアイヌの人々との別け隔てない交流の〈故国体験〉が伊福部のみのものであり、当時もその後現在に至るまで和人はその〈故国体験〉を一般化することはなかったという一種の裏切りを体験した伊福部の復讐心とすら呼べるほどの頑迷さは、筆者が伊福部音楽に感じるまほろばへの郷愁と表裏一体ではないだろうか?
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何故、我々人類はかくも恐ろしくかくも愚かしい存在と化してしまったのだろうか。核戦争、第3次世界大戦のスタートへの秒針の音が聞こえてくるようなウクライナの戦地、ジェノサイド以外のなにものでもないパレスチナでの殲滅戦の報道を眼にして筆者は怒りと恐れと悲しみを覚えざるを得ない。日本を含む世界規模の破壊的な異常気象に、全世界で685万人もの命が奪われた新型コロナウイルスのパンデミック2)の重なり合いは母なる地球を穢し尽くした(ここ日本では原発事故という人類史上最大級の環境汚染がまだ終息していないのは言うまでもない)人類への地球の怒りでなくて何であろうか? 今こそ地球人類が一丸となって知恵を絞り合い地球の怒りを鎮めて人類の存亡の危機を乗り越えなければならない時に何故殺し合い、私利を貪り合うのをやめないのか。パンデミックであれほどに自分達そして類としての人間の死を恐れた人類が自分をも他人をも構わず殺し殺されあうことに恐れをなさないのか。人は何故自ら人らしくあることをやめ、神を僭称する大愚者となるのか。
「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」というのはストラヴィンスキーの有名な言葉です。また、哲学者アランも、全く同一な意見を述べております。3)
上記の「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」とは、伊福部の音楽美学を語る際に決まって引用されるセンテンスである。だが、同書のほぼ直後に下記の記述があることを忘れてはならない。
しかし以上の話によって、音楽は哲学や思想と何も関係がないという意味にとってはならないのです。作品が見事に構成された場合は、作品それ自体が一つの哲学的表現となることは明らかです。この場合、私たちはその作品から作者の思想、哲学、その他を明瞭に読み取ることができるのです。それでこそはじめて作品といい得るし、また、鑑賞者の立場からも鑑賞にたえ得られるのです。4)
本論では伊福部作品に内在する音楽以外のもの、彼の思想、哲学などを作中に読み取ることを試みてきたが、まさに〈危機の時代〉と呼べるであろう現代において伊福部音楽が奏でる思想、哲学とは何であろうか。
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伊福部がしばしば言及してきた思想にユングの「集合的無意識」がある。伊福部曰く、「今後も変わらないと考えているのは、種族の血がもつ審美感、思想、伝統等、誤解を恐れずにいえば、ユングのいう集合的無意識の存在とその重要性です」5)。ユングの原著に当たると、「個人的な性質をもった意識的な心の部分(中略)だけをわれわれは経験可能な心の部分であると信じているが、しかしそれとは別に心には第二のシステムがあって、これは集合的で非個人的な性質をもっており、すべての個人においても同一である。この集合的無意識は個々人において発達するのではなく、遺伝していくのである」6)とあり、伊福部の説く「種族の血」とはユングの説く「遺伝していく」ものに当たると考えられよう。
だがユング思想においてはこの集合的無意識からさらに人間の無意識の深部に沈潜した時に現れるものがある。それすなわち「元型」である。元型とは新生児が生まれた時にすでに遺伝によってこころ(ゼーレ)の中に含まれている、民族や種族を越えて人間の類としてのレベルで共通の普遍性を持った、無意識を司るイメージの在り方である7)。民族や種族の特殊集合的無意識を通過して人類普遍の一般元型に至る、という伊福部音楽における無意識の遡及運動は伊福部の次の言葉に現れていよう。
芸術というものは、民族の特殊性を通過して共通の人間性に向かわねばならないもので、だから民族性は通過するだけで結局それが目的だとは思っていません。8)
この人類普遍の一般元型へと無意識を遡及することから、反転して、無意識の過程に順行する形で、日本人には他なる民族によって伊福部音楽が見事に花開く様を近年我らは見届けた。アンドレア・バッティストーニ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団による『シンフォニア・タプカーラ』録音9)や岩崎宙平指揮、ピルゼン・フィルハーモニー管弦楽団による『日本組曲』録音10)、カーチュン・ウォン指揮、日本フィルハーモニー交響楽団による『シンフォニア・タプカーラ』(2023年1月)、『ラウダ・コンチェルタータ』(2023年12月)、『舞踏曲サロメより「7つのヴェールの踊り」』(2024年1月)ライヴなどがそれである。これは前述のまほろばの実現への一歩であるとは見られないだろうか?
しかし、「記憶の砦」として記憶が失われていくのに抗い(本論第3回)、滅ぼされゆく民族と自らを重ね合わせて見て(本論第6回)、世界に満ちる光の当たらない闇に自己同一化する(本論第10回)、そのような作曲家たる伊福部の晩年性(レイトネス)〔前回サイードの言葉を借りて表した〕が作品に投げかける影はどうしてもまほろばへの穏やかな自己同一化を拒む。
伊福部音楽に満ちる強靭かつ峻厳な意志は、まほろばへ向かわんとする闘志とも言うべきものであり、この意志は現実世界に強烈な「否」と「然り」の両方を突き付ける。それは本論第1回で示した、動かぬ蒼鷺の〈生と死への抵抗〉でありかつ〈生と死への意志〉と相似形をなす。〈危機の時代〉に響き渡る伊福部音楽は、人間の非道に頑として「否」を突きつけ、人間が人間らしくある姿に力強い「然り」を与える。
伊福部は最晩年の2005年、「音楽・九条の会」呼びかけ人37人の1人に名を連ねた。そして死(2006年2月8日)の直前、2006年1月26日、大阪市いずみホールでの「音楽・九条の会」コンサートで『SF交響ファンタジー第一番』が演奏されたというエピソードがある。尚武的な『SF交響ファンタジー第一番』が平和憲法の要たる九条を称える演奏会で演奏されたということは皮肉なようでいて、〈危機の時代〉における伊福部音楽のあり方として至極真っ当とも捉えられる。『SF交響ファンタジー第一番』には「愛」と「怒り」が満ちているが、平和への「愛」――「然り」という言葉――は、戦争への「怒り」――「否」という言葉――と共にあらねば虚偽となる。また、ゴジラの怒りと悲しみは反核・反戦の願いとともにある。
未だ見ぬ郷里、まほろばを目指して飛ぶ蒼鷺の鳴き声を聴く時、我々は郷愁と共に厳粛なる意志の力を掻き立てられる。伊福部があくまで人間らしい人間として奏で続けた音楽は我々が果して人間と呼ぶに足る存在かどうかを問いかけ続ける。人間の皮を被った怪物とならぬように、自分が人間であることを確かめるように、我々はこれからも伊福部昭の音楽を奏で続けるだろう。
1)音楽体験を「それはひとつのノストス(帰郷的回帰)なのである。音楽は郷愁である」としたのは今道友信「思想の自己呈示としての音楽」『精神と音楽の交響』音楽之友社、1997年、p39、である。
2)この情報は下記サイトの統計に拠ったhttps://coronaboard.com/global/
3)伊福部昭『音楽入門』角川ソフィア文庫、2016年(原著1961年)、p45。
4)前掲書、p48。
5)前掲書、「二〇〇三年新装版(全音楽譜出版社)の跋」、p160。なお、ユングの集合的無意識については日本フィルハーモニー交響楽団、2004年5月31日サントリーホール「伊福部昭 九十歳[卆寿]を祝うバースデイ・コンサート」プログラム、p2や、片山杜秀『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』新潮社、2014年、p19にも言及がある。
6)C.G.ユング『元型論〈増補改訂版〉』林道義訳、紀伊國屋書店、1999年、p13。
7)前掲書、pp92-93などを参照。
8)伊福部昭(訊き手:片山杜秀)「伊福部昭、自身の創作理念について大いに語る」『音楽現代』芸術現代社、1999年10月号、p76。
9)CD、アンドレア・バッティストーニ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団「バッティストーニ ドヴォルザーク:交響曲第9番『新世界より』、伊福部昭『シンフォニア・タプカーラ』『ゴジラ』」DENON,COCQ-85414,2018年発売。
10)CD、岩崎宙平指揮、ピルゼン・フィルハーモニー管弦楽団「日本とチェコのインスピレーション」Tokyo M-Plus,ARS38618S,2022年発売。
(2024/3/15)