共生を求める水 ディミトリス・パパイオアヌー INK |能登原由美
共生を求める水 ディミトリス・パパイオアヌー INK |能登原由美
Water Seeking Coexistence: Dimitris Papaioannou INK
2024年1月21日 ロームシアター京都
2024/1/21 ROHM Theatre Kyoto
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by Julian Mommert / 写真提供:ロームシアター京都
演出(コンセプト・ディレクション・セット・コスチューム・ライティングデザイン):ディミトリス・パパイオアヌー →foreign language
出演:ディミトリス・パパイオアヌー、シュカ・ホルン
音楽:コルニリオス・セラムシス
音響制作:デヴィット・ブルーアン
照明デザイン:リュシアン・ラボルドリ、ステファノス・ドルシオティス
古来、水は万物の根源と捉えられてきた。聖書においては、あらゆる生物の誕生に先立ち、水は天地とともにあった。先人より自然崇拝を受け継ぎ、農耕民族として栄えてきた日本においては、水は神として崇め奉られる対象でもあった。時に津波や豪雨といった禍をもたらすとはいえ、何よりもこの地球上の生き物にとっては存在のための前提条件であり、絶対条件なのである。
本作は、コロナ禍によるロックダウンの中で制作されたものという。未知のウィルスとの闘い、生の危うさを突きつけた未曾有の歴史的災厄のなかで生まれたと聞けば納得がいく。というのも、ここでのキー・ファクターは「水」。2人のダンサー(あるいは2つの個体というべきか)は、水を媒介にして様々な関係性を築いていく。認識、抑圧、排除、闘争、交流、反発、和合…。いずれも異質なものが同時に存在する場では必然的に生じる現象だ。もちろん、ウィルスと人間との関係にも当てはめられるだろう。あるいは、世界のグローバル化、社会の流動化が進み、多様な人々の共生がより求められるようになった現代社会では、この「複数性」こそ、人類の生き残りを賭けて改めて向き合うべき事象なのかもしれない。
とはいえ、パパイオアヌーは何よりも「水」そのものの美しさを提示する。視覚だけではない。聴覚にも働きかける。開幕前からホール内に広がる水の音。生まれて間もない人間よろしく、視覚に先立ち聴覚がまずは始動するのだ。音の主は舞台端に設置された水道栓と、そこから放射される水。
一人の男(ディミトリス・パパイオアヌー)が蛇口の向きを変えたり流れを遮ったり、透明の球体に当ててみたりする。スポットライトで照らし出されたしぶきはその度に形や色、影を変えていく。舞台背後に吊るされた黒いシートに当たれば、霧状に広がる粒子がラメのようにキラキラ舞い上がる。床の上に溜まり続ける水は男が歩くたびに輪を描き、光が水面を反射してホール内の壁や天井に様々な模様を穿つ。もちろん、これら一連の動作は音の形をも様々に変えていくのだ。(それにしても、幕開け前とはいえ、水の音が聞こえ始めてもトーンを落とすことなく世間話を続ける2人の中年男性には辟易した。「音」も作品の一部だと思うのだが。)
が、表層だけでは終わらせないのがパパイオアヌー。この舞台の深層にあるのは「媒介者としての水」。何と何を媒介するのか? あらゆる存在と存在の間を、である。それには「他者」が必要だ。もちろんそれを生み出すのも「水」。不意に水面からぬっと生え出る物体(シュカ・ホルン)。透明の膜に包まれているが、よくみると人間の形をしている。一糸纏わぬ裸身ゆえ、まるで母親ならぬ地球の胎内から今出てきたばかりのようだ。外に這い出ようともがくが、それに気づいた男(こちらは服を身につけている)は上から覆い被さりその動きを制止する。もがく。抑え込む。跳ね返す。紐で縛りつける…。こうした格闘が繰り返される。とはいえ、複数だからこそ発生する力の作用だ。2つの個体に向かって絶えず降り注ぐ水、蛇口から勢い良く吹き出し続ける水は、単体では生じ得なかったエネルギーの放出を示唆するともいえよう。
葛藤があれば融和もある。ようやく膜から抜け出た裸体の人間は、やがて倒立して下肢で球体を持ち上げ、器の中に溜まった水を男の顔に注いだ。その一見シュールな動きはそれまでの激しい闘争とは一転して静けさを纏い、まるで水を分け与える行為のような神々しさを湛えていた。まさにこれは、他者の存在を受け入れ共に生きるための通過儀礼であったと言えまいか。この瞬間、水は共生のシンボルにもなった。
共存する個と個が一つに融合すれば、新たな個体が生み出されていく。男(むしろここでは性別は関係ない)の体から出てきた赤子はその象徴。愛おしそうに乳を与えている。生命の連鎖、相互の繋がりを彷彿とさせる。だがそもそも胎内にいる間にその命を育む羊水も、乳を作り出す養分も、その源は何であるか。魚や蛸などの獲物を手当たり次第喰らう姿に表れているように、水が全ての根源であり、恵みの源泉でもあるのだ。我々の命の循環を促しているのは、今もなお目の前の蛇口から流れ続けている水なのである。
だが舞台上では再び格闘が始まる。抑圧するものと抵抗するものの争いは終わらないのだ。我々人間社会だけをとってみても、どれだけこうした闘争が繰り返されてきたことか。いやむしろ、組み合う2人は裸体と着衣という対照性を有している。それは自然と文明の象徴でもあり、ここで繰り広げられる闘いは、人類の誕生から絶えず続く両者の関係性にも置き換えることができるのかもしれない。
そもそも「水」は、その獲得をめぐって人間や動植物の間に争いを引き起こす種でもある。どんな生命にとっても必要不可欠であるがゆえに、軋轢をもたらすのだ。存在と存在を繋ぐものであると同時に、相互を引き離していくもの。この相反する作用を引き起こすのが「水」であり、古代から続くその神秘をパパイオアヌーは具現したのではなかったか。さらに言えば、その共有と共生が担保されない限り、いずれは文字通り枯渇していくものであることを問いかけることになったのではないか。
図らずもこの公演の10日後、「海洋オペラ」という新しい視点を投げかける講演に接する機会があった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校のジョイ・カリコ(Joy H. Calico)教授が、“Blue Opera Studies: A Proposal” との題目を掲げて行なったものだ(2月1日神戸大学にて)。 “Blue Opera”とは、海や川など「海洋」が重要な鍵を握る(と解釈される)オペラ作品を指すようだが、もちろんその根本にあるのは「水」、さらに言えば「自然」であり、人間を取り巻く「環境」あるいは「生態」である。人類にとって喫緊の課題である「環境問題」への関心の高まりももちろん背景にあるが、そもそも人間と自然との断ち切れない関係性を俎上にあげることで、従来の「音楽」の捉え方に新たな視座をもたらすように私には思えた。すなわち、地球という大きな生態系に生きる一つの生物として人類を振り返り、その文化を捉え直すこと。この舞台にも、同様の眼差しがあったのではないだろうか。
(2024/2/15)
—————————————
Created (concept, direction, sets, costumes, lights) by Dimitris Papaioannou
〈Cast〉
Dressed Man: Dimitris Papaioannou
Nude Man: Šuka Horn
Music: Kornilios Selamsis
Sound Design: David Blouin
Lighting Design: Lucien Laborderie, Stephanos Droussiotis