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プロムナード |ワルシャワのスープ| 小石かつら

ワルシャワのスープ

Text by 小石かつら(Katsura Koishi)

1999年夏、ケーテン大学でのドイツ語サマーコースに参加した。参加者のほとんどが、ドイツ学術交流会DAADの全額支給奨学金をもらっていた。みんなドイツに来るのは初めて。私は1998年4月からデュッセルドルフ近郊に留学していたので、既に1年3ヶ月ほどドイツに居た勘定。語学苦手日本人と、各国から選抜された初ドイツの学生たちと、コミュニケーション力はちょうど同じ感じで、対等に話のできる充実した4週間だった。

ケーテンは、バッハが宮廷楽長をしていた、あのケーテンだ。「バッハの町」と思って行ったけれど、実際は旧東ドイツの町だった。私にとって初めての東側。崩れたままの外壁、アルコール中毒の人々、営業しているのかわからない佇まいのお店、やぼったい服装、やつれた顔・・・。ケーテンは、バッハの影もなく、観光地でも工業都市でもない、寂れた町だった。

集まっていた学生も、旧東側からが多かった。モンゴル、ベラルーシ、ロシア、ウクライナ、ポーランド。デュッセルドルフでは出会わない国々の学生たち。モンゴル人は大柄で、褐色で、筋骨隆々たくましい。ベラルーシからの男子は色白でひょろひょろして、服の着替えもなく、いつも同じ緑のよれたプルオーバーを着ていた。その一方、ロシア人は当時珍しかったパソコンを持っていた。ウクライナの女子学生は2人いて、20歳の子は妊娠中だった。ガリガリに痩せていて、栄養を摂らないといけないからと、いつも具だくさんのスープを大鍋いっぱいに作って、私にもふるまってくれた。彼女はとても優秀で、まったく減点の無い作文を用紙いっぱいに書いては、先生を驚かせた。そのウクライナ人の陰口をそっとたたくのが、ポーランドからの2人、マリアとモニカ。「ボルシチはポーランドの方がおいしいよ、ワルシャワに食べにおいでよ」とか言って、私に話しかけてきて、それですっかり仲よくなった。

週末の夜はいつも、誰かが古めかしいラジカセを持ってきて、廊下の行き止まりの広いスペースでダンスが始まる。どれも、私は全然聞いたことの無い曲。古いのか新しいのかもわからない。でも、すべての国の学生が、一緒になって踊った。日本では見たことのない風景で呆然としていたら、マリアもモニカも踊っていて、私を誘う。知らないの?踊れないの?具合悪いの?って言われても、踊りを知らないのじゃなくて、こんなふうに学生が集まって踊るという、その発想自体を知らなかった。薄暗い中、大音響で夜更けまで踊った。一緒に踊ったけど、たのしいとか以前に、みんながたのしんでいる状況が、うまく飲み込めなかった。

ケーテン市民プール(旧東ドイツ時代の絵葉書より)

みんなでプールにも行った。屋外の市民プールだ。ケーテンでの出来事は、どれもこれも衝撃的だったけれど、プールは桁外れの衝撃。足のつかない深さなのは、ドイツどこでも同じ。50メートルプールなのも、ドイツどこでも同じ。でも、プールが藻だらけで、足に水草がからまって、というか、水の中が見えないプールは、後にも先にも、ケーテン市民プールだけだった。キラキラの夏の空、その光を反射する水面は、緑色。でも、泳いじゃえば水は透明でなくても大丈夫で、プールも池も一緒だ、と思った。水しぶきを上げて、キャーキャー騒いだけど、それでも、私は水には潜れなかったし、必死で立ち泳ぎした足の感触は、まだ覚えている。ちなみに、この原稿を書きながら検索してみたら、市民プールは新しくなっていた。当然とはいえ、少し残念。

そんな、現実とも非現実ともつかないような日々が終わる時、マリアは、ワルシャワに来るようにと私に何度も言った。その秋、私はライプツィヒ大学に入学し、何度も手紙のやりとりをして、ワルシャワを訪ねた。

マリアの家
(Googleマップで検索、2019年7月の撮影らしい)

マリアの家は、日本の公団住宅のような外見で、外国っぽさがなかった。ところが、飲料水は、外の水道に汲みにいくのだ。部屋に水道が無いのならわかる。でも、台所も洗面所もお風呂も、蛇口をひねればその瞬間にお湯が出るのだ。おかしすぎる。いや、「おいしい水」を汲みに行くのならわかる。でも違う。部屋の水は衛生上汚くて飲めないらしいのだ。部屋で常に熱湯が出るハイテクと、鍋を持って外まで水汲みに行くことの同時性。まったくもって不可解。どう考えても不可解。それに外の水道は、全然衛生的には見えなくて、日本の公園の水道そのもの。そこに長蛇の列。

マリアと私は一緒に買い物に行って、2人でごはんを作った。ケーテンでさんざん話したポーランド料理がひろがる。ジュレックというスープは、ポーランドでないと作れないと言っていた。だからもちろん、ワルシャワではジュレック。部屋の隅に壺があって、スープの素が発酵している。つんとした匂いは、白菜の漬物の樽を開けた時みたいだった。肉は必ず2種類入れるとマリアは言う。これはちょっとびっくりした。だって牛肉料理なのか豚肉料理なのか、鶏肉料理なのかは分類の基本であって、牛肉と豚肉が一緒に入った料理というのは、想像しがたい。そう私が返事すると、どんなスープでも肉は少なくとも2種類、もっと種類が多くてもよい、肉が一種類なんてだめとのこと。ふうん。

ホースラディッシュ(西洋わさび)も、マリアに教えてもらった。何にでも入れる。ショウガの形をした大根のようなもので、ショウガのようにおろして食べる。このおいしさといったら! ジュレックに入れても良し、ソーセージに付けても良し。最近になって、日本のチューブわさびの原料がホースラディッシュだと知った時、なんだか勝ち誇ったような気分がした。さすがホースラディッシュ。

夜はほんとうに明け方まで、布団の中でマリアとしゃべり続けた。マリアの彼氏のこと、大学のこと、将来の仕事のこと。小学校の時からの写真を見せてもらって、豊かな学校生活を知る。マリアは優秀で、高校の時には選ばれてウィーンにも留学した。ウィーンの写真もいっぱいあった。今一番興味があるのは、日焼けサロン。こんがり小麦色になったら綺麗だと思うんだ、カツラもそう思うでしょ? そうしたら、ネイルはどんな色にしたらいいかな?

マリアの祖父母が私を家に招きたいという話は、手紙をやりとりしている時からあった。祖父母の家は、マリアの家と同じような公団住宅風の団地だった。外で飲料水を汲むのも一緒。違ったのは、室内の台所の設備が電気でもガスでもなく、炭だったこと。普通のシステムキッチンのコンロの部分が、七輪のような分厚い土で囲われていて、赤い火が煌々と燃え続けていた。もちろん蛇口をひねればお湯が出る。言うまでもなく、マンションの一室。つまり、どの家も同じ。ハイテク&ローテクの雑居具合はますます不可解。

その炭火の前で、マリアのおばあさんが、「おじいさんが、どうしてもカツラに会いたいと言っている」と、私の顔を見つめた。そんなこと、了承を取る必要なんてない。もちろん会いたい。「本当にいいの? 耳が遠いのだけど、大丈夫かしら?」って。耳が遠いことが何か問題なのだろうか、お年寄りの耳が遠いことなんて、ごく普通じゃないの?と、思っている内に、皆に抱きかかえられるようにして、おじいさんが台所にやってきた。足が悪くて座っているけれど、普通のおじいさんだ。「はじめまして、日本から来たカツラです」というセリフを最後まで言ったかどうか、おじいさんは私の手を両手で強く握りしめると、はらはらと涙をこぼした。マリアも、おばあさんも泣いている。マリアがドイツ語で言った。おじいさんは、アウシュビッツで拷問を受けて、耳が聞こえなくなった。足も悪くて歩けない。戦後ずっと、身体の調子も悪い。でも今日、日本から来たカツラに会えて、うれしくて、感動して、泣いている。カツラが来てくれるのを、ずっと待っていた。日本人に本当に会うことができて、本当にうれしい。私たちも、おじいさんにカツラを会わせてあげることができて、とてもうれしい、カツラ、本当にありがとう。

黙るしかできなかった。にこりとも笑えなかった。ただ、まごまごしていた。なのに、カツラはなんてきれいな顔をしているんだ、と言われた。なんて優しいんだ、と言われた。何に感謝されているのか、状況がさっぱりわからなかった。おじいさんは私に、祈らせてほしいと言った。そして、祈ってくれた。おじいさんの冷たい手は、ものすごくしっかりしていた。

フラキ
ポーランドのレシピサイトより

皆で食卓を囲んだ。日本では見たことのない、ドイツでも見たことのない、しめじくらいの大きさの具がぎっしり入ったスープをいただいた。ねじったパスタのようなものから、ありとあらゆる野菜やきのこ、ソーセージやお肉など、様々な具でお皿が満たされている。フラキという、臓物のスープなのだそうだ。日本で、モツもレバーも苦手な私が、この世で一番おいしいと感激した。おじいさんも一緒で、色々話をしたことの映像は、くっきり覚えている。でも、話の内容はひとつも思い出せない。たぶん、その時ですら、話の内容は頭に入ってなかったと思う。鮮明に残るのは、音声の切れた世界に満ちる、食事の匂いとたのしい空気だけ。

衝撃を上塗りしたのが、翌日に訪ねたモニカの家だった。そこは、ちょっと大きめのマンションだった。モニカのご両親との食卓で、おじいさんの話は言えなかったけれど、フラキをごちそうになった話をした。突然、お父さんの顔が険しく曇った。あれは貧乏人の食事だ、そんなものを日本からのお客さんにふるまうなんて、なんて失礼なんだ。お父さんはそれから、終始不機嫌だった。食事のあと、モニカと私がしゃべっていたら、お父さんがドイツ語で言った。「モニカ、ドイツ語ばかりしゃべっていたら、ドイツ人みたいな鷲鼻になるぞ。」何故、わざわざドイツ語で言ったのかわからない。肩をすくめたモニカは、うぐいす色の素敵なウールのコートに、ボタンを縫い付け始めた。クリーニングに出す時に、ボタンを付けたままだとコートが傷むから、ボタンを外してクリーニングに出すのだそうだ。着る時はまた縫い付ける。丁寧な暮らしが、そこにあった。

(2023/12/15)