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五線紙のパンセ|第2回 詩、またはテキストを用いた作品について|篠田昌伸

第2回 詩、またはテキストを用いた作品について

Text by 篠田昌伸(Masanobu Shinoda) 

前回の寄稿の際に少し予告したが、今回は自分の作品の中で詩、またはテキストを用いた作曲について書こうと思う。
ただ、これについては過去に様々な機会で書いたことがあるので、いくつかの内容が以前書いたものと重複してしまうことを、お許し頂きたい。

さて、私が言葉を伴う作曲をするにあたって、おそらく多くの作曲家と違うところは、音を追求することを第一義としない、ことである。どういうことか。
あるテキストに音をのせる、ということをするときに作曲家、特に現代音楽のジャンルの作曲家は、悩みを抱えることとなる。
まず、テキストには何らかの意味があり、それに対して標題的に音をつけること(例えば悲しいテキストに悲しい音、など)はどうしても避けたい。これは、そもそも現代音楽が、新しい音色、和音、音列、楽器法など、音そのものにフォーカスして作られるからであり、そこに標題的な意味は必要がない、もしくは邪魔にさえなるからだ。
また、テキストは、自作のもの以外は、あくまで他人が作ったものであり、詩などはすでにそこで構成も出来上がっており、そこに新たに音をつけたとしても、器楽の曲のように全てが自分のものとはならない。
さらに、言語にはそれぞれのイントネーションがあり、そこに従うことは、必ずしも自分の書きたい音型にマッチしない。そのため器楽のものよりも大分、不自由となる。
等々、他にもいくつも理由があると思うが、現代音楽作曲家にとって、テキストを扱う時は、それをいかに正面から扱わずにずらし、自分の世界に引き込むか、が問われる。
故に、テキストはそのまま使われずバラバラにされたり、意味が聞き取れないほど壊されたり、又は、全く意図のないような言葉を持ってきたり、音素のみにしたり、することによって、言葉の意味から離れ、なんとかして音にフォーカスがいくように作られる。そして元の詩は、もはや器楽曲のような声楽曲の、象徴的な意味としてのみ存在する。ただ、これって、なかなか不毛なことなのではないだろうか。

2006年に初めて公式の場(ヴォクスマーナの委嘱)で声楽の曲を発表しなくてはならなくなったとき、以上のような理由で、学生時代から数えても歌曲審査用の1曲(萩原朔太郎「思想は一つの意匠であるか」)しか書いて来なかった自分は、とうとうテキストと対峙しなければならないと、頭をかかえた。しかし、ともかくまずはテキストだ、と都内の大型書店の詩のコーナーに行くと、そこには豊穣な世界が広がっていた。
そこには、もちろん既知の、明治から昭和にかけての詩人の書誌もあったが、多くを占めているのは、今生きている詩人の新刊、選集、雑誌などであった。そこに通いつめ、1、2時間ねばって手当たり次第に手にとって読む(詩のコーナーには、ほとんど人がこないのだ)ということを繰り返すうちに、自分の知っていた日本の現代詩が、いかにほんの一部だったのかを思い知らされた。
現代音楽と同じように、詩人の世界にもベテラン、中堅、若手がいて、それぞれが生きてきた時代感覚、言葉の感覚も異なる。時には詩人グループを作って詩誌を発行していたりもするし、いくつかの詩の雑誌も出ており、そこで新人賞のようなものも毎年出される。これは、現代音楽界とかなり似通っているだろう。(そして悲しいことだが、その作り手も受け手も、人口がどんどん減っているところも、似通っている)
当時は「ゼロ年代」の詩人として、自分と同世代か前後する新人の新刊が出され始めており、非常に興味をもって読んだ。また雑誌ではとくに「現代詩手帖」の評論や対談のコーナー、公募作品のコーナーをよく読むことで、現在アクティブに動いている詩人の世界、というものが存在することを感じることができた。

自分の曲のテキストを探索するために分け入った現代詩の森は、思いのほか深く、委嘱のことなど忘れそうになるころ、はたと思ったことがあった。これらの詩を、自分の料理の素材としてだけに、使用するのは正しいのだろうか? そこで、私がとった方策は、詩をできるだけそのまま提出する、ということだった。先に音楽を想定せずに、詩をよむスピードで、その言葉をコンサート会場で聞き取れるように、ただ任意に音をつける。
その代わり、選ぶ詩は慎重に吟味をした。単に特定の感情やメッセージを伝えるようなものではダメだ。しかし現代詩はそもそも、そんな単純に言葉を選んではいない、ただ読むだけでも充分に多義的であり、驚くべき言葉同士のつながり、伏線を張り巡らされた意味のつながり合い、等々に満ちている。詩人はやはり言葉のプロなのだ。自分はそこに必要以上に手を加えずに、自分の音を透過させつつ、聞き手にこれらの詩を読ませる(聞かせる)、という役割に回ろうと思った。
この、ある種の朗読と言えるかもしれないような作品のあり方は、明確な作風のない自分に非常に合っていた。毎回、選んだ詩とコミュニケーションをとって、その言葉をコンサート会場に響かせる、ということは、自分が選曲した曲を演奏して皆に紹介することに、非常に近いような気がする。そういう意味で、これは演奏活動の一環なのかもしれないと、最近考えている。

一昨年、自分の合唱曲を集めたCDをリリースした。いくつか自分の作品や演奏が収録されているCDはあるのだが、ポートレートCDとしては初めてのもので、全て、詩人野村喜和夫氏のテキストにつけたものでまとめられている。これは野村氏の詩に付けた回数がもっとも多いからでもある。これまでに選んだ現代日本の詩人を挙げてみると、野村喜和夫4回、廿楽順治3回、手塚敦史2回、四元康祐2回、朝吹亮二、水無田気流、渡辺玄英、野木京子、平田俊子、小池昌代、最果タヒ各1回、となった。全て現在生きている詩人であり、こうして並べてみると女性もなかなか多い。今ではどうかわからないが、現代音楽でも、扱う詩が相も変わらず明治から昭和初期にかけての近代詩人のもの、というのが私が学生の頃は多かった。学校の教科書レベルの詩の知識に、あまりにも無自覚なのではないかと思う。

私の合唱曲に関しては、割と露出が多い気がするので、朗読又は歌唱とアンサンブルのための「数奇な木立からの点景(詩:手塚敦史)」の動画リンクを以下に貼ってみる。
1.(水)
https://youtu.be/HS1fnCvovGo
2.(氏名)
https://youtu.be/gnFn0eTw-WQ
3.(おやすみ)
https://youtu.be/Uf84oqu3fUU
4.(冬夜)
https://youtu.be/v95tnEQTmNY

ここにおいて、自分としての理想的な聞かれ方は、まず音と共にこの不思議な言葉を味わって頂き(多義的なゆえ、明快な解釈は不可能なはずだ)、そのイメージとともにさらに私の音を並行して同時にミックスした状態で感得して頂く、というものだ。どちらかのみにフォーカスをあてて聞くのではなく、音の意味と詩の意味両方をイメージし、さらにそれが同時にあることによって、新たなイメージが生まれる。そしてこれは聞き手ごとに異なるだろう。私のやろうとしたのはこういうことなのである。
ところでこれは完全に私の曲といえるだろうか? 器楽曲なら純度100パーセント自分が作ったものと言えるが、このようなテキストとの関わり方だと、詩に依るところがあまりにも大きい。だが、自分はテキストを扱う限り、このスタンスを保っていくつもりである。自分の創作の裏番組的愉しみとして。

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・ホームページ
https://ballad-filter.jimdofree.com

・作品、その他動画(youtubeプレイリスト)
https://youtube.com/playlist?list=PLwOQSHL_25Jhj3v1yrJdgx0eJ-MqIqqwb

・演奏動画(youtubeプレイリスト)
https://youtube.com/playlist?list=PLwOQSHL_25JhctLvDa0uVCRrLSLBxPWr-

・作品収録CD
「街の衣のいちまいしたの虹は蛇だ」篠田昌伸現代合唱作品集 (299MUSIC)
「和の歌 日本の歌によるピアノ作品集」(camerata)
「クロノイ・プロトイ×クァルテット・エクセルシオ 弦楽四重奏の可能性」 (Sound Aria Records)
「作曲家グループCue×大田智美 現代アコーディオン作品集」(ALM Records)
「これが俺たちの音楽だ 東京混声合唱団」(fontec)
「Composer Group Cue works」(ALM Records)

・コンサート予定
2023年11月11日 ソロコンサート「New Repertoire of Contemporary piano vol.1」Neuwirth,Furrer,Eggert,Lang,稲森作品、等を演奏予定。

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篠田昌伸( Masanobu Shinoda)
東京藝術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院修士課程修了。作曲を尾高惇忠、土田英介、ピアノを播本枝未子、大畠ひとみの各氏に師事。 第22、27回日本交響楽振興財団奨励賞、第74回日本音楽コンクール作曲部門第1位、第1回イタリア文化会館日本国内作曲コンクール審査員特別賞、第9回佐治敬三賞、等受賞。06年just composed in YOKOHAMA委嘱作曲家。11年武生国際音楽祭にて作品が招待される。複数の作曲家グループやプロジェクトに参加し作品を発表する他、著名な演奏家、団体等の委嘱などによっても作品が発表されている。近作では、室内楽「Different tunes」シリーズ、合唱曲「言語ジャック」等があり、ピアノ曲「炭酸」は全音楽譜出版社より出版されている。また、ピアニストとして、新作初演、声楽、器楽とのアンサンブル、ダンスとのコラボレーション、レコーディング等、幅広く活動している。

(2023/7/15)