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カデンツァ|憧れるのをやめましょう|丘山万里子

憧れるのをやめましょう

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

私はサッカーは相当好きだ。
昔々の話だが、ドイツでは子供たちとしばしば観戦した。ミュンヘン郊外のアパートのご近所さんたちからは、あんな野蛮な競技場に行くなんて!私たち(ホワイトカラー)のすることじゃない、テレビで見なさい!と注意された。行ってみたら確かに怖かった。当時は女子供なんてほとんど見かけなかったし、熱狂的なファンたちが電車の中で歌い騒ぎ踊り、車両は大揺れ、子連れの私は押し潰されそうになるのを庇うので必死になった。オリンピック・スタジアムでの生試合はすこぶるスリリングで、なんとゴールキーパーが自陣ゴールからフィールドを一目散に走りぬけゴールを決めてのFCバイエルン・ミュンヘン逆転勝ちに、私たちは本当に興奮かつ呆気にとられたものだ。
息子は野球のグラブとバット、ボールを持っていたが、友達は皆、なにそれ?ダサっ、てな具合。それでも教えると一緒に遊んでくれた。当時、日本にプロサッカーができるとかで、語学学校に日本の無名若手選手やトレーナーの卵たちがいたのを覚えている。
WBCでチェコ・チームが全員アマチュアであるのが話題となったが、西欧人が生活の余暇として野球を楽しむのはごく自然な形だろう。キューバに行った時、土産物屋に野球グッズが多いのには驚きつつ、さすが、と思ったが。
ともあれ、日本に野球が伝わったのは1872年(明治5年)、アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが東京大学の前身、開成学校の生徒に教えたのが最初だそう。1934年ベーブ・ルースら米大リーグ選抜チームが全日本チームと戦い16戦全勝。この全日本チームから現在の読売ジャイアンツが誕生した。日本のプロ・リーグ戦が開始されたのは1936年だから、かれこれ87年の歴史か。
ちなみにアメリカ野球は1839年、ニューヨーク州郊外クーパーズタウンで初試合が行われたそうで、現在かの地には野球殿堂が建っているとか。そういえば以前TVで野球の偉人伝映画を見て、だだっ広い野っ原で投げたり打ったり走ったりしているのに、それこそダサっと思った。
ので、まさかまさか WBCに夢中になるなんて、やっぱり大谷翔平なんだわ。

でも私は父親に連れられ、1959年後楽園の天覧試合で長嶋茂雄がサヨナラ本塁打を放つのを見ており(覚えていないが)、あの熱狂(はぼんやり記憶にある)と今日とを比べ、あの時もこんなだったのかな、などと思うのであった。

にしても最後の試合前、大谷がチームメイトに言った言葉には、心底、感嘆した。
「憧れるのをやめましょう。ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日超えるために、トップになるために来たので。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」
勝ち負けはどうでも(最後の勝利シーンには両手を握りしめ息を呑んだが)、こういうことをこういう場で言える若者がいる、そのことに、時代は変わった、としみじみ思ったのだ。

萩原朔太郎(1886-1942)が『旅上』で歌ったフランス。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。

中原中也(1907-37)は自室にパリの地図をピンで止め、セーヌ右岸がこう、左岸がこう、と、まるで自分の街のように色々な通りの名を読んで聞かせたというが、そのように、西欧は日本の近代の憧憬であった。

戦後日本で活躍した園田高弘(1928-2004)は1952年にパリ、57年にベルリンで学び「日本のギーゼキング」と呼ばれるまでになった。昨年逝去した野島稔(1945-2022)は66年モスクワのちニューヨークで学び、日本の作曲家の作品も意欲的に演奏した。晩年の彼の教えを受けたのが、今をときめく藤田真央(1998-)。
いうまでもないが、日本のクラシック界の憧憬はまず西欧であり、第2次世界大戦でユダヤ人音楽家がこぞって亡命した米国が次のアイドルとなり、現在は再び西欧に戻ったように見えるが、すでに藤田にその手の憧憬はない。彼にあるのは純粋に音楽への憧憬であって、好きだから弾く以外の何ものでもない。ただ音楽する喜びで、それを惜しみなく振り撒き、日本ばかりでなく世界を幸福にしている。
時代は変わった、とやはり思う。

もう一人、なるほど時代に即したピアニストだ、と思うのが反田恭平(1994-)。
日本音楽コンクールで優勝、大ブレイクの彼の動向を演奏とともに見聞していたが、その周到さはまさに戦略と言えるもので、日本の音楽家が国際的なクラシック・マーケットの正統な一員になるにはどうしたら良いかをまず考えての活動と見えた。ショパン国際ピアノコンクール(2021年)第2位入賞以来、マスメディアへの露出は凄まじく、彼の肩書きには実業家の名称も加わった。
パンデミック以来、外来の穴を埋めるべく、邦人若手がどんどん登場することになったのは、各地の様々な現場が育成の努力をしてきたからでもあるが、当事者(演奏家)の意識の変化も大きい。自己プロデュース力を持つ若者たちが増え、SNSで動画配信など意欲的に発信し始めた。反田はその先頭に立ち、旗を振ったと言えよう。
すでに日本では名の知れた彼がショパン・コンクール優勝を目指したのは、音楽と楽しく遊べる音楽学校を母国に創りたいという夢の第1歩に必要だったからと言う。いわば既存の音楽教育へのアンチだ。音楽を学ぶことが苦行になっているのはスポーツも同じで、ゴリ押し開催された東京オリンピックの新競技スケボーで13歳の西矢椛がめっちゃ楽しげにスイスイ滑って跳んで優勝、各国の仲間たちにわいわい囲まれての祝福に笑顔はじける様子にアナウンサーが「いいですねえ、楽しんでますねえ」とコメントしたが、本来スポーツは楽しいからやるんで、それを「国を背負って」だのなんだのと競わせ、萎縮させて喜びを奪っているのは大人たちだろ、とイラっとした。
音楽だって同じで、下手だろうが、ミスしようが、喜びをもって演奏される音楽は聴き手にちゃんと伝わり、こっちもそれを分けてもらった喜びをステージに返し、だからその気持ちの行き来がさらにステージを、演奏を盛り上げる。それが本来のコンサートの姿だ。
パンデミックはまさにそういう原点に人々を戻したから、このところの音楽シーンは以前と比べずっと生き生き、かつ若手たちの場も増え、良い傾向だと私は思っている。が、人は喉元過ぎればだから、来日攻勢に転じれば速攻、金の取れる外来に靡くであろうよ(と、思っていたが、意外と空席が目立つらしいのは、余裕ある高齢者層の足が遠のいたせいか)。
ともあれ、そうはいかんぜよ、と身体を張っているのが反田、と言えば大袈裟だが、彼が2021年に設立したジャパン・ナショナル・オーケストラ株式会社の HPはこう宣言する。
「音楽家である反田恭平が株式会社を設立し、奈良を拠点に持続的かつ発展的な活動を行い、音楽家自らが活躍の場を創出いたします。また、志のある音楽家が安心して音楽を学び、音楽活動に専念できる環境を確保し、将来的なアカデミーの創設も目指しております。」

いいじゃないですか。しかも「奈良」なんて目のつけどころが違う。
安心して学び、活動に専念できる。これは本当に大事だ。
ちなみに反田は普通の家庭で、街のピアノの先生に手解きを受けたサッカー好きの少年とのことだが、野放しであったわけではなく2006年には桐朋の子供のための音楽教室(中村紘子も通った)に入室、音高卒業後の2013年にロシアへ渡り1年後にモスクワ音楽院へ、さらにショパン・コンを見据え2017年ポーランドのショパン国立音楽大学へ進んだ。つまりエリートコースまっしぐらで着々コンクールに臨んだわけだ。無論、審査員の顔ぶれ(に指導教官がいることも含め)から、ホールの音響から、歴代受賞者のプログラム構成に至るまで、必要なデータをすべてかき集め、ひ弱な体ではタフな日程をこなせないし音も出ないと肉体改造もし、ビジュアルもサムライ風に髪を束ね、と勝利を掴むにあたっての入念な準備をした。私がなるほど、と思ったのは、第3次予選で、ほとんど弾かれることのない遺作の『ラルゴ(神よ、ポーランドをお守りください)』を演目とし、聴衆のハートをぐいと掴む策に出たこと。そりゃ、ウケるでしょう。
これだけやって2位だった理由はさておき(日本人にありがちな、最終選考でのコミュニケーション不足という指摘は正しいと思うが)、データ野球ならぬデータ受験をした、こういう策士はこれまで出なかったと思うし、一方でいかにも日本人だ、とも思う。計算し尽くして点を取っても、もう一歩及ばない。創造的ジャンルで常に、足りないのは個性などと言われるが、実のところ個性とは至って曖昧なもので、その点、コミュ力不足ははっきりわかる。
大谷翔平のコミュ力が抜群なのは見ての通り。
情報収集と肉体改造、徹底的な自己管理、問題への即応能力など頭抜けているが、反田との違いで一番大きいのはこのコミュ力だろう。その源にあるのは、語学力ではなく全き「野球小僧」であり続ける「楽しむ能力」だろう。反田の演奏にはそれがいささか不足と思うが、彼にはその自覚がちゃんとあるようだ。だからこそ、自分の経験を次世代に繋ぎたいと教育面、環境面を新たに構築する道を当初から目指しての受験と第2位。彼がどこかで「ここから優勝者を出す、それが夢」と語るのを聞き、この若さで(だからこそ、自分ごととして受け止められる)その責任を引き受けるのを、立派だと思った。
一方で、もうコンクール云々の時代でもなかろうに、とも思う。アンチとは、既存のものへの対抗という意味で同じ土俵に居るといえ、そこをどう超えるかは、それこそ「憧れるのはやめましょう」ではないか。

©林喜代種

日本の歴史を振り返ると、日本は常に海の向こうを「憧れ」て文化を形成してきた。
14,000年前の日本最古の炉跡発見(静岡)、13,000年前の隆線文土器発見(縄文草創期・福井)、12,000年前にモンゴル系原日本人成立、と太古の世界図を思い浮かべれば、そこらあたりはまだどんぐりの背比べ、どっちが優れるだのの話ではない。
紀元1世紀後半邪馬台国成立、238年卑弥呼の魏への使者派遣と、大陸の王への貢ぎが始まるのが「憧れ」の始まり、と思わぬでもないが、今日の挨拶外交と等しかろう。
中国は文化文明で西欧よりはるかに先進であったし(西欧の成立自体が人類史では最近)、米国は西欧支配の残滓を残す新大陸の地。日本は中国の隣国で、漢文化とは切っても切れない漢語文化圏。そんな時空を思えば、文明と野蛮、先進後進の尺度でのみ人間の営為を測ることの愚が見えてこよう。
藤田がニコニコ、どこに行っても誰と会っても楽しそうに話し、音楽しているのを見ると、あるいは大谷が本塁打を打つたびに仲間に祝福の兜を被せられ笑っているのを見ると、何かを楽しむ、楽しみを共にする、という喜びは、人間の優劣感情とは全く別のところで人を繋げるんだ、と思う。「憧れ」というのは、対象への敬意を必ず含み、だから頑張ろうと自分を高めることのできる、とても美しい感情だ。

大谷は、「憧れるのをやめましょう。」と呼びかけたが、最後にこうも言った。「今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」
彼は「憧れ」の美しさも強さも知っている。だからそれを否定するのでなく、今日一日だけは、と区切った。そこが大事だ。
「憧れ」つつ、それを時には仕舞い込むこともできる力。
状況を常に正確に把握、制御できる心身を持って初めて、全てを楽しむ力が備わる。
藤田の古典的天性と反田の現代的才知は、日本の音楽界の新たな景色をこれから私たちに見せてくれるだろう。
時代は、変わるのだ。

(2023/7/15)