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カデンツァ|音楽の未来って (12)藤田真央のモーツァルト|丘山万里子

音楽の未来って (12)藤田真央のモーツァルト
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”
(12) Mao Fujita “Mozart Complete Sonatas Vol.3”

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 横田敦史/写真提供:王子ホール

「君の音はアムリタ」(本誌twitterにて)。
アムリタ(अमृत、amṛta)は古代インド神話の中で語られる甘露、不死を授ける神秘の飲物のこと。この人が微笑とともに振りまく音の光の粒と滴りを、そんなふうに言ってみる。
本来、来月のレビューで執筆のはずだが、このところの世界の暗黒の中で、彼とモーツァルトが互いに目配せしたり、笑いあったり、しんみりしたり、とおしゃべりしているその時間が、あんまり光に満ち、私を優しく照らしてくれたので、今、書いておこうと思う。

この人、とは藤田真央。
私は『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)の風間塵を彼が弾いたのは知っていたが映画は見ておらず、今回、なるほどぴったりの音だ、と思った。神に愛されしもの、という言葉は、そうそう使えるものではないが、モーツァルトばかりでなく藤田もまた、その冠がふさわしい。
彼を最初に聴いたのは、2019年、パガニーニを軸としたコンサートで、ブラームスの他、ルトスワフスキ『パガニーニの主題による変奏曲』を金子三勇士と2台で弾き、この組み合わせは酷だ、と思った。藤田がガンガン引っ叩くキャラではないくらい、ブラームスの最初の1音でわかる。
そうして昨冬、パンデミックで来日できなかったデュオの相手キリル・ゲルシュタインに代わり、藤田と辻彩奈vn、佐藤晴真vcでピアノ・トリオ(トッパンホール)を披露、そのピアニズムに、直前に聴いたA・カントロフに並ぶ特別なピアニストだ、と興奮した。

ふらっと出てきてすぐにとりかかった『ソナタ第2番ヘ長調』。
この人はいつも脱力態で、風に揺れる若柳みたいに見える。
だからその指先からも、およそ人の力とか意志とか制御というものを感じさせない無類の輝きを持つ音がまろび出る。
いつも微笑を含んでいて、決して荒ぶることなく、ほんのりとした色合いで音楽をころがすので、モーツァルトが「そうそう、そうなんだよ」と相槌を打つのが聴こえる。
例えば、何気ない音階を上下行するときのニュアンスの変化、歌う音階とはこれ、と、たびごとに聞き惚れる。あるいは単純な左手の音型をどう弾くかで音楽が決まることをこれほどわかっているピアニストはそうはいまい。装飾音の扱い、それも千変万化。
「ここって、こんな感じ?」「そう、そのとおり!」と小さく手を叩くモーツアルトが見える。倚音や掛留音の扱い方(和声進行)とか、ぼんと響く低音の鳴らし方とか、そういう一つ一つがモーツァルトと語らうように、しかもその2人の語らいが、さらさらさらさらと清流のように自然に流れにのって聴こえるのだ。
明澄に、あるいは少し陰ったり、のうつろいと浮沈、それにひたすら耳を傾ける幸福。
『デュルニツ』の変奏部に、ふとシューベルトを想い、彼はベートーヴェン崇拝ではあったが、実はモーツァルトの神性(あるいは魔性)に惹きつけられていたのではないか、という気がした。歌う、際限なく歌ってしまうこと。モーツァルトは終わり方を知っていたけれど、シューベルトは終わりたくない人だった。
『第11番』の第3変奏でのユニゾン。音を重ねるというのは響きを柔らかくすることだから、ぼうっとそこは光を滲ませ、ラインもうっとりさせるんだ。そういう目配せに、なんとこの人は敏感に応えることか。第4変奏の左右の交差の美しさに、やっぱりシューベルトの即興曲を、そして《トルコ行進曲》でも、その『軍隊行進曲』を思い出してしまう。この時代、オスマントルコは脅威で、軍楽隊の音に人々は震え上がった。藤田はその恐ろしさをまざまざと左の勇猛なアルペッジオで太鼓のように鳴り響かせるのだ。まるでその場に居たみたいに。
最後の『第12番』は『魔笛』を見るようだった。パパゲーノの軽快アリア、夜の女王の凄みアリアとかが聴こえる。これは全きオペラだな、と合点してしまう。それくらいドラマトゥルギーが際立つ。ディナミークとかでなく、語調でそうするのだ。本の読み聞かせのように。
私は思い出す。晩年の三善晃との対話の中で、幼い頃虚弱だった氏の枕辺で母が読み聞かせをしてくれた、その時の抑揚や息継ぎが自分の中にはある気がすると。そこでふっと世界の色が変わり、場面が変わる、それと同じ語りをこの人は持っている。
それは丹念に楽譜を読む、とか、歌うように喋るとか、それと一緒に体がゆらゆら揺れるとか、手首がしなうとか(彼は大袈裟な動きはしない)、そういう全体の何もかもの自然なひとくるみの包摂のなかに現れでる何か、音楽する、という行為。
終楽章の超高速疾走の果て、最後の終止形をなんとエレガントに、そっと置いたことか。

アンコールをねだる聴衆に、愛らしいロンド、それからまた何か弾きかけて「あれ?」と途中でやめ、その様子に客席がみんな笑い、うーんと指をパラパラ膝の上で動かしたあと弾いたガボット(バッハ)。それでもまだ続く拍手に立ち尽くし、困ったような笑顔で、あと1つだけね、と指で示してのチャイコフスキー。ペダルをたっぷり使い、それまでの世界とはまるきり違う夢幻の甘美なロマンへと誘ってくれた。
なんていう音楽家なのだ。

この幸福は、なんなのだろう。
私はふと、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』を思い出す。
両眼は青いサファイア、腰の剣を飾るのは真っ赤なルビー、身体は金箔に彩られた美しい王子像が、足元で眠ろうと飛んできた渡り鳥の燕に、貧しい街の人たちに自分の宝石を分けるよう頼む話。王子は身につけた財宝をどんどん削がれみすぼらしくなってゆき、頼みに応え南へ渡るのをやめた燕は寒さと疲れでやがて死んでしまい、その死とともに王子の鉛の心臓は割れてしまう。彼は心ない人々に引き倒され、燕と一緒に捨てられるのだが、もちろん、神様がちゃんと救ってくれる。
なにも、彼がその王子、というわけではない。
ただ、この若いピアニストが私たちに分けてくれる幸福感、その微笑や音がさざなみのように私たちを潤してくれる、そのまるごとのありようを思うと、ただ口を開けてそれを飲んでいるのでなく、注がれたその幸福を、今度は私たちが誰かに分けなければいけないのではないか、という気持ちになる。
彼、その人に拍手でお返しするだけでなく。

それはたぶん、あまりにも長いパンデミックに加え、突如起こった戦争暴力と残虐に、人、というものへの激しい懐疑が私を満たしていたからだろう。
それにこのところの灰色の時間からほんのひととき逃げ出した高原で、夜降った雪の眩しいゲレンデに、2人の小さな男の子を叱責訓練する若い両親の暴力的な様子を3時間近く見続けてしまった、その映像を引きずっていたからだろう。
久々に見る銀嶺の八ヶ岳の神々しい連なりを背後に、それは見まいとしても見てしまう光景だった。私はカフェから出て行って止めたかったけれど、できなかった。
やっと与えられた遅いランチ休憩で、遠いテーブルに座る屈託なき2人の子らに、親がいない隙を見て、そっと、頑張ったね、偉いね、とでも声をかけたかったけれど、できなかった。

あるいは、昔々、ミュンヘンにいた頃、チェリビダッケとミケランジェリの共演(たぶん最後の)があり、新聞社に記事を頼まれ、聴きに出かけた時のこと。
世紀のコンサートに集まった聴衆の熱狂はものすごかったし、演奏も何か神がかったものであったが、終わって歓呼に立ち上がった前列の女性の襟首を、その後ろの男が引っ掴み退けようとし、隣の夫らしき男が彼に殴りかかるのに茫然とした。
今、極上の音楽を聴いていた人々が......。
音楽、というものを深く考えるとき、この光景が時折、私によみがえる。

藤田が注いでくれた幸福の甘露は、走馬灯のように浮かぶそれらを、そっと傍に押しやってくれた。
私は、モーツァルトもシューベルトも魔界の人だと思うし、音楽家とはどこか狂気をはらむ人々で、だからこの若いピアニストもどこかに狂気があるのではないか、と思う。
けれど、再度言うが、風に揺れる柳のように自然なそのたたずまい、音楽の美しさに、そういうものとはまた別の、浄土というか彼岸への渡し船のようなありようが、あるのかもしれない、といった気がしてくる。
この人がひとり漕ぐ櫓は、たくさんの人々をのせる船ではない。
そうではなく、誰かひとり、ひとりだけをのせて漕ぐ小舟の渡守なのだ。
誰もが、自分ひとりをのせて、彼岸へと漕いでくれている、そう思える「行為」を示す人。
アフガンで射殺された中村哲医師の言葉。
「人は愛するに足り、心は信ずるに足る。」
だから今、階段ですれ違いざま肩がぶつかった人に、失礼、と小さな微笑を送ろう。
夜の銀座の地下鉄駅で、私は振り向く。

柳は川沿いに植えられることが多い。
アフガンで中村医師が植え続けたのも柳。
乾いた土地に緑が美しく、見た目は細いけれど広くしっかり根を張り、土手を護るからだそうだ。

(2022/4/15)

藤田真央 モーツァルト ピアノ・ソナタ全曲演奏会 第3回 〜華麗なる輝きを放ち〜
モーツァルト
 :ピアノ・ソナタ 第2番 ヘ長調 K280
 :ピアノ・ソナタ 第6番 ニ長調 K284 「デュルニツ」
 :ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K331 「トルコ行進曲付き」
 :ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K332

(アンコール)
モーツァルト:ロンド ニ長調K485
J.S.バッハ/ラフマニノフ:パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006より ガヴォット
チャイコフスキー:18の小品 ニ長調 Op.72より 瞑想曲
弾きかけてやめた曲はモーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番より 第3楽章、とのこと。
アンコール曲の選択に、ロシア作曲家への想いを感じたのは筆者だけだろうか。

Mao Fujita “Mozart : Complete Piano Sonatas Concert Vol.3″
Mozart
: Piano Sonata No. 2 in F major, K280
: Piano Sonata No. 6 in D major, K284 “Durnitz”
: Piano Sonata No. 11 in A major, K331
: Piano Sonata No. 12 in F major, K332

(Encole)
Mozart: Rondo in D major K485
J.S. Bach / Rachmaninoff: Partita No. 3 in E major, Gavotte BWV1006
Tchaikovsky: 18 pieces  Op.72 in D major “Meditation “