東京都交響楽団第975回定期演奏会Aシリーズ【三善晃生誕90年/没後10年記念:反戦三部作】|齋藤俊夫
東京都交響楽団第975回定期演奏会Aシリーズ【三善晃生誕90年/没後10年記念:反戦三部作】
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.975 A Series [Akira Miyoshi 90 | Anti- War Trilogy]
2023年5月12日 東京文化会館
2023/5/12 Tokyo Bunka Kaikan
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ©堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団
<演奏> →foreign language
東京都交響楽団
指揮:山田和樹
合唱:東京混声合唱団(*)
合唱指揮:キハラ良尚
合唱:武蔵野音楽大学合唱団(*)
合唱指揮:藤井宏樹
児童合唱:東京少年少女合唱隊(**)
合唱指揮:長谷川久恵
コンサートマスター:山本友重
<曲目>
(全て三善晃作曲)
混声合唱とオーケストラのための『レクイエム』(*)
混声合唱とオーケストラのための『詩篇』(*)
童声合唱とオーケストラのための『響紋』(**)
死とは何なのか、この問いに正しく答えられる生者は存在しない。あらゆる宗教がこの問いに答えようとして、結局のところ想像と願望と教条に従う仮説――例えば、輪廻転生、天国・地獄、など――を作らざるを得なかった。死とは無であるのか? しかして無とは何なのか? 死で全て終わるのか?しかして終わりとは何なのか?
有限な世界に生きる我々には死という絶対的謎に触れることはできない。では何故我々は死なねばならないのか? 何故生の最後に死が訪れる? いや、生の途中でも突如死は訪れる。
突如訪れる死の氾濫、それが戦争だ。殺し殺されることへの躊躇や疑問を禁じられ、殺しては英雄、殺されては英霊とされる。人それぞれの人生の無限の複雑さは剥奪され、機能的に数値化される――死者数、のように――という不条理。
有限世界に生きる我々が絶対的謎たる死に一瞬だけでも触れ得る手段こそが今回の三善晃「反戦三部作」ではないだろうか。だがこの音楽の中でも、絶対的謎は謎のままに、不条理は不条理のままに、死に触れたと感じた瞬間に生者は生者の有限世界に引き戻される。
シカシ、ヤッパリ殺シテイル
歯ヲ食イシバッテ殺シテイル。
甚太郎オジサン
殺サンゴトシナサイ
殺サンゴトシナサイ
三好十郎「山東へやった手紙(3)」
おお
顔をそむけなさるな 母よ
あなたの息子が人殺しにされたことから
眼をそらしなさるな
中野重治「新聞にのった写真」
『レクイエム』第1楽章の歌詞の一部である。これらが歌唱というよりはほとんど絶叫に近い混声合唱と、三善の恐るべき管弦楽法によるこれもまた絶叫のようなオーケストラによって音楽化されるとき、そこに浮かぶイメージ、というより音楽を聴くという体験そのものが死に臨む体験のように感じられる。ここで注意せねばならないのが、引用したこの歌詞は「殺される」体験ではなく「殺す」体験を歌ったものであることだ。戦争というものは徹頭徹尾殺し殺されるものであるということ、英雄となるのも英霊となるのも拒絶する思想=音楽がここにある。
あきらめて下さい、泣かないで下さい。
お父さん、お母さん、
時ちゃん、敬ちゃん、さようなら。
信本広夫 二飛曹
泣いて下さいね。
やっぱりあんまりかなしまないで下さい。
私はよく人に可愛がられましたね。
私のどこがよかったんでしょうか。
林市造 海軍少尉
ホケット様の不気味なリズムで始まる第2楽章、アダージョのテンポで始まり、ねっとりと歌=叫びが空間を満たす。上記した特攻隊員らの遺書も「悲しい」という感情とは全く異なる、触れるだに恐ろしくおぞましい響きの中で歌われる=叫ばれる。
これを食べてください
あなたの口でたべてください
あの土に植えました
あの土に芽をだしました
黒田喜夫「黍餅」
人がしぬ
その
世界の
ひの中に
わたし一人いる
そして、
わたしもしぬ
世界には
だれもいない。
ただ
かじが
きかいのように
もうもうともえていた。
田中予始子「ゆうやけ」
たまきわる いのちしななむ ゆうばえの
ゆるるほなかに いのちしななむ
宗左近「夕映反歌」
第3楽章、茫洋として亡霊めいた冒頭「これを食べてください」から一気に転じて全員・全楽器での絶叫が吹き荒れ、世界が燃え落ちる。その夕映えの炎の中で人が死にゆく様を見つつ・聴きつつ、我々には何をすることもできない。死を眺めることはできても死に触れることはできない。ただ、死の無情さを知るばかり。理不尽な死をもたらす戦争の無情さを知るばかり。
第2作、宗左近の詩集『縄文』から作曲家が選んだ8篇をテクストとした『詩篇』、この作品を語ることは、いや、聴くことすらも難しい。クラスターでもクセナキス的轟音でもなく、三善的とでも言うしかない緻密な書法による轟音の嵐が吹き荒れるオーケストラと合唱の隙間から「縄文」「唇と唇が」「唇と瞳と瞼と頬の」「おしゃぶり」「おれたち生きた」「舟たちの座礁している港」「花いちもんめ」「きみたち 鏡の底にいるのか」「きらめきあっている」「月いちもんめ」といった歌――いや、歌ならぬ声だったのかもしれない、あるいは叫びかも――が聴こえてきた、ようだった。
きみたち死んだ おれたち生きた
死んだ「きみたち」と、生きた「おれたち」との絶対的な断絶、その断絶から何故「きみたち」と「おれたち」は生死を分かったのか?という回答不能の問いが込み上げてくる。そもそも「おれたち」は生きているのか? この轟音の中に生者はいるのか?
終わり間近、第VIII篇で一旦穏やかな歌がうたわれるが、また轟音が降りかかる。
轟音は死者たちの発する声かもしれない。死者を死なしめた戦争の災厄かもしれない。
啓ちゃん もとめて 風いちもんめ
匡ちゃん もとめて 波いちもんめ
哲ちゃん もとめて 雪いちもんめ
ゆりちゃん もとめて 雨いちもんめ
章ちゃん もとめて 月いちもんめ
幼児期を想起させる童謡「かごめかごめ」が多声部で重なり合いつつ次第に消えゆく終曲部分の悲しさよ。「風」「波」「雪」「雨」「月」のどこを「もとめて」も死者は現れることはない。虚空に浮かべた歌声は誰にも届かずに消えてゆく。死者たちの声も生者には届かない。どこまでも隔たり合う生者と死者。音楽には何の力があろうか?
第3作、童声合唱による「子守唄―鬼遊びの唄―」(「かごめかごめ」の変種)が天に向って歌われる、または天から降り注ぐ、のを中心軸として、オーケストラがその周りを燃え盛りつつ巡り吠える『響紋』。
夜明けのばんに
つるつるつっぺぇーった
なべのなべのそこぬけ
そこぬいてたもれ
だれだれいやる
いついつでやる
だれだれ来やる
だれとだれと待ちゃる
いついつ来やる
この歌声は誰から誰に向かってのものなのだろうか? そもそもこの子供たちは何者なのだろうか? 生者か? 死者か? 幽魂か? 我々の内にいる何者かか?
オーケストラは何故このように荒ぶり猛るのか? 戦争の残虐さを表象しているのか?絶対的無である死を表現しているのか?
わからない、というより、解答がない、のだと思う。ただ、この作品からは濃厚な「死」の臭いがしてくることは間違いない。童声合唱の澄みきった歌声、オーケストラの破滅的で破壊的な響き、ともに今生のものではない。だが、死の臭いは臭いにとどまり、死に直接触れることはできない。
なべのなべのそこぬけ
そこぬいてたもれ
海の海のそこぬけ
空の空のそこぬけ
海と空のそこぬけ
「そこぬけ」とは蓋し戦争の惨禍を言い表しているのであろう。何もかもが「そこぬけ」して狂っている。そしてその「そこぬけ」の中で生と死は海と空のように理不尽に区分けされ、二度ともどることはない。何故我々は、彼らは死なねばならないのか?
最後に童声合唱の皆が客席に背を向ける中、客席側を向いていた数人が上記の唄をうたってやはり背中を向ける。子供たち(だろうか)は皆昇天したのか? 皆同じところに行ったのか? これは悲しいことなのか? あるいは赦されたのか?
何も答えることなく、音楽は無音へと消え去る。
不可能世界に属する絶対的な無としての死、戦争でのあまたの理不尽な死に一瞬だけ触れ得たと感じた。あるいは筆者だけの錯覚なのかもしれない。それでも三善晃の、山田和樹=都響の音楽は筆者の安穏たる精神に死の感覚という楔を確かに打ち込んだのだ。この楔がいつまで刺さり続けるのかはわからない。ただ、この楔の痛みをいつまでも忘れないでいたい。
(2023/6/15)
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<players>
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Conductor: Kazuki YAMADA
Chorus: The Philharmonic Chorus of Tokyo (*)
Chorus Master: Yoshinao KIHARA
Chorus: Musashino Academia Musicae Chorus (*)
Chorus Master: Hiroki FUJII
Children’s Chorus: The Little Singers of Tokyo
Chorus Master: Hisae HASEGAWA
Concertmaster: Tomoshige YAMAMOTO
<pieces>
All pieces were composed by Akira MIYOSHI
Requiem for Mixed Chorus and Orchestra (*)
Psaume for Mixed Chorus and Orchestra (*)
Kyô-mon for Children’s Chorus and Orchestra (**)