小人閑居為不善日記|映画の分断、映画の断片――怪物、マリオ、アフターサン|noirse
映画の分断、映画の断片――怪物、マリオ、アフターサン
Cinema Fragments
Text by noirse
※《怪物》、《ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー》、《aftersun/アフターサン》の内容に触れています
1
ハリウッド映画についての対談書《ロスト・イン・アメリカ》(2000)で、映画批評家の安井豊作が、ジェームズ・キャメロンの《タイタニック》(1997)について、「構造の映画」だと批判している。スピルバーグのような監督が「映画史を参照することで、なんとか普通のアメリカ映画を維持して」いたが、キャメロンが登場して、「『構造』だけが残った」と。読んだ当初はピンとこなかったが、是枝裕和監督の新作映画《怪物》(2023)を見て、その発言を思い出した。
《怪物》は小学校での体罰事件を巡る話だが、何度か視点人物が変わっていって、その度にそれまで語られていた「物語」がひっくり返されていく構成で、どうやら《スリー・ビルボード》(2017)の影響を受けているらしい。《スリー・ビルボード》は、視点操作を巧みに駆使することで「分断の時代」を鋭くえぐり出し、アカデミー作品賞を受賞するなど高く評価された。
構成に新奇性を与えるアプローチは《パルプ・フィクション》(1994)や《メメント》(2000)など類例も多いが、今は《スリー・ビルボード》のような形式がモードなのだろう。《怪物》もそれに則った作品だが、一方でジレンマも感じてしまった。
途中まではサスペンスフルで息詰まる展開なのだが、後半は一転野山を舞台にした、ノスタルジックで穏やかな子供の世界が描かれていく。だが構成上、テストの答え合わせの様な位置付けになっているため、冗長かつ退屈に思えてならなかった。
是枝は、カンヌで高く評価された《誰も知らない》(2004)から《奇跡》(2011)、《万引き家族》(2018)と、子供の世界を描くことにこだわってきた監督で、彼らの無垢で純粋な領域が社会によって歪められてしまう点が評価されてきた。今回も子供の世界を丁寧に演出しているのは伝わってくるし、そこに是枝の映画表現の美点が詰まっているのだが、いかんせん構成を優先させると、それらもパズルのワンピースに収まってしまう。
表現を進歩させるのは悪いことではないが、それによって肝心要の表現を後手に回してしまうのは如何なものか。安井の危惧も、おそらくこの辺りにあったのだろう。そうした「分断されていく映画」という状況を、強く印象付けた作品がある。
2
世界的人気を誇るゲーム、「スーパーマリオ」の映画化作品《ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー》(2023)は、大きな興行成績を収めた一方、激しい議論に晒されている。低評価を付けた評論家たちに対し、政治的要素が希薄だから《ザ・スーパーマリオ》は評価されないのではという声が、作品を支持する観客から巻き起こったのだ。
しかし実際に見てみると、言われているよりもずっとPCを意識した作品だった。マリオと弟のルイージはブルックリンに住むイタリア系移民の配管工だが、仕事はうまくいかず、父親からもバカにされている。ところがキノコ王国のある異世界へワープ、大魔王クッパを倒すため努力を積み重ねたマリオは王国のみならず現実世界をも救い、父親からも認められる。
父親からの評価に左右されてメンタルを病むマリオはインセルめいた気配があり、強調される兄弟愛によりブラザーフッド映画にもなっている。一方ゲームでは勝利者への景品扱いに過ぎなかったピーチ姫も、率先して戦地に赴く自立した女性として描かれる。マリオが勝利を収めても即カップル成立とはならないし、むしろルイージとの関係がホモセクシュアルな雰囲気を醸し出すため、固定化したジェンダー観からも若干踏み出した内容となっている。
これだけうまくできているのに評価が得られにくいのは、物語や設定よりも、表現に起因する部分が大きいのだろう。たしかにゲーム画面を模したアクションシーンは、一見すると映画らしいとは言いにくいかもしれない。しかしこれも映画研究者トム・ガニングや、国内では渡邉大輔が論じてきた、デジタルシネマ以降のアトラクション化やライド性に忠実にできている。
アトラクション化やライド性とは、CGの著しい発達により可能になったアクションが、かえって初期映画に近似していくという議論だ。マリオのアクションも、チャップリンやキートンの身体を張ったスタントに近いが、キートン作品を物語性が薄いと批判する評論家はいないだろう。キートンを見ているとアクションこそ映画の本質だと感じるが、であれば《スーパーマリオ》は、映画の正当な後継者と見做してもいいはずだ。
そう考えると、マリオと父親の和解劇には皮肉を覚えてしまう。ニューヨークの移民の父子の物語というのは映画史の重要な系譜を成していて、《ゴッドファーザー》(1972)から最近だとジェイムス・グレイの諸作品まで、多くの名作や傑作を生んできた。
これらを踏まえれば、《スーパーマリオ》での父子の和解とは、ゲームの世界から映画というレトロメディアに帰還したマリオが、父親=映画と和解するというように読み取ることができる。しかし実際にはそうは受け止められず、評論家と観客とのあいだに壁を築いてしまった。
今回の対立軸は、観客はゲームへの、評論家側は映画へのノスタルジーに立脚しているのだろう。前者はマリオで遊んだ甘美な記憶が映画への評価に繋がっているし、後者もまた、若かりし頃に熱中して見た映画への強い思いが、《マリオ》の評価を左右しているに違いない。
ノスタルジーとナショナリズムが結びつきやすいことはよく知られている。現在世界のあちこちで巻き起こっている事件や諸問題も、ノスタルジーが絡むものが散見される。そう考えると今回のマリオを巡る騒動は、現代社会の政治的対立の縮図でもある。《スーパーマリオ》を指して政治色が希薄というのは間違いで、危険なほど「政治的な映画」なのだ。
3
最後に《aftersun/アフターサン》(2022)という映画を紹介したい。主人公はスコットランドに住む11歳の少女ソフィ。両親は離婚していて、別居した父親のカラムと過ごしたトルコでの夏休みを、成長したソフィが回想していく。カラムは仕事がうまくいっておらず、またどうやら同性愛者のようなのだがそれを隠していて、それゆえか鬱を病んでいるようだ。
ソフィは年齢よりも大人びた、空気を読むのに長けた少女だが、父親の苦悩にはほとんど気付いていない。父娘は観光にもほとんど出かけず、昼はプールサイドで、夜はホテルのショウを眺めながら夕食を取る、淡々とした休暇を過ごしていく。
感触としては1970年代以降の映画、《断絶》(1971)や《都会のアリス》(1974)、《オルエットの方へ》(1971)や《憂鬱な楽園》(1996)などの、旅やバカンスを描いた映画に近い。しかし決定的に異なるのは、メディアへの距離感だ。
父子のバカンスは90年代のことで、どうやら父親はその後日を待たず死んでしまったらしい。多分自殺なのだろう。トルコでソフィはMiniDVカメラを使って父親を撮影しており、大人になったソフィはそれを見返しながら、あのとき父親が何に苦しんでいて、何を娘に告げたかったのか、自問自答する。それを再構成したのが、《アフターサン》という映画なのだ。
上に挙げたロードムービーやバカンス映画は、概ね長回しとロングショットで構成されている。登場人物はそれまでのジャンル映画の主人公たちのような確固たる主体性を持ち合わせておらず、目的のない旅に出たり、バカンス先での無為な時間の中で微睡んでいる。畢竟彼らの身体も旅先の風景の中に溶け込んでいき、その光景こそが彼らの心情を代弁していた。
《アフターサン》はどうか。ソフィの扱うカメラは手ブレが多く、ピントも甘く、対象への距離感を掴めていない。それを元に思い出されていく父親との記憶も断片化されていて、ロングショットはほとんど用いられない。
ロングショットとは、個人と社会との関係性を導き出すものだ。ソフィにとって重要なのはあくまでも父親だけで、風景は――ひいては社会も――余分なのだろう。逆に散見されるのはカラムの手のクローズアップで、父親と触れ合った瞬間が彼女にとって最も大事であることを物語る。
このように彼女は、微かに残った父親の感触の断片から、カラムというひとりの人間を立ち上げようとするが、それらからカラムという男を理解するのは不可能だろう。しかしソフィは、永遠に辿り着けない答えと知りながら、今夜もひとりビデオを再生する。
きみの笑い声が聞こえた気がした
きみの歌声が聞こえた気がした
でもそうじゃなかった、きみがそうしたと思っただけだった
それはただの夢に過ぎなかった
ただの夢だった
1990年代のアメリカを代表するバンド、R.E.M.の代表曲〈Losing My Religion〉(1991)。《アフターサン》で効果的に使われるこの曲は、ソフィの苦悩を凝縮している。
だがメディアとは本来こういうものだろう。マリオを支持する観客のように、あるいは古典的な映画をよしとする映画評論家のように、対象に同化するような楽しみかたも悪いとは思わない。だが結局そこに映っているのは幻で、ただの夢に過ぎない。
社会から身を遠ざけ、父親の幻影を求めて同じ映像を繰り返し再生するソフィに、わたしは少しばかりの共感を覚える。わたしはもう何かに夢中になるほどの強い感情を持ち合わせてはいないが、それでもこうして映画を見続けているのは、やはり何らかのイメージに憑りつかれているということなのだろう。そしてソフィと同じように、思い出すことのできない何かを思い出そうと、無為な行いを繰り返しているのだ。
(2023/6/15)
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noirse
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