イギリス探訪記|(8)故郷への想い:ユーロフスキとマケラによる2つのLPO公演から|能登原由美
イギリス探訪記|(8)故郷への想い:ユーロフスキとマケラによる2つのLPO公演から
Another Side of Britain (8) Longing for Home: Two Concerts of the LPO Conducted by Jurowski and Mäkelä
Text by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by The London Philharmonic Orchestra
2022年2月末に勃発したロシアによるウクライナへの軍事侵攻。1年半近くを経た今もなお戦闘は続き、一向に終わる気配を見せない。攻撃を逃れて国を脱し、異郷で終結を待ち望む人々の思いはどのようなものだろう。ホールの座席に身をおき、ゆったりと音楽を味わうことのできる私には、その辛さを理解することなど到底できない。何よりも、私には帰ることのできる家や街があるのだから。ただ少なくとも、目の前の音楽を通じてその苦痛に心を傾けることはできる。
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(以後、LPOと略称)は毎年、特定のテーマに基づく一連のコンサートを開催している。創設90周年の節目となる2022-23年シーズンに設定されたのが、まさにこうした他者の痛みへの共感を促すものであった。“A place to call home” (「家と呼ぶ場所」)と銘打ったこのシリーズでは、故郷への心情が込められた作品が数多く取り上げられるが、その背景には楽団のアーティスティック・ディレクターで音楽学者でもあるエレナ・ドュビネッツ氏の特別な想いがあったようだ。つまり、それまでアメリカのオーケストラで仕事をしていた彼女が2021年9月にLPOに着任したちょうどその頃、アフガニスタンでは再びタリバンが実権を握り始めていた。暴力による支配から逃れるべく国外へ脱出しようともがく市民の様子は繰り返し報道され、世界に大きな衝撃を与えたことは記憶に新しい。戦争や経済危機による難民問題はそれ以前から悪化していたが、郷土を捨てざるを得ない人々をまたもや大量に生み出してしまったこの問題の深刻さが、監督就任時の脳裏にあったのだという。
そればかりか、半年後には、彼女の母国ロシアが軍事行動を開始。その結果、住人が国外へ避難を余儀なくされたウクライナは、夫の祖国でもあった。モスクワで育ったユダヤ人ですでにアメリカで20年以上暮らしていることを表明している彼女だが、この時を境に「家と呼ぶ場所」の意味が自身にとっても一層アクチュアリティを帯びることになったに違いない。それを表すかのように、民族や国の主権をかけて他国の侵略に抗う人々への連帯を音楽によって示そうと、侵攻から僅か2日後の2月26日のLPO公演では、世界のオケでいち早くウクライナ国歌を鳴り響かせた。より良い社会の構築に音楽家も積極的に参与すべきとの考えは楽団の方針であるとともに、彼女自身の強い意思が反映されたものなのだろう(1)。
こうして、本シーズン全33主催公演のうち18回が上記のテーマに関連。さらにそれ以外にも、社会的メッセージ性のあるコンサートが盛り込まれた。ここでは4月後半に行われた関連ある2つの公演について紹介しよう。
(1)以上、Elena Dubinets氏による手記を参照。The Arts Desk. 29 September 2022; “Listening to Ukraine” Symphony, 2022 Spring Issue
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まずは企画シリーズの一つで、「戦争と平和」と題された公演(4月19日@ロイヤル・フェスティバル・ホール)について。演目は、ウストヴォーリスカヤの《シンフォニック・ポエム第1番》、ヒンデミットの《ヴァイオリン協奏曲》、プロコフィエフの《交響曲第6番》。いずれも個人的、あるいは社会的に何らかの主張が明確にあるものではなく、むしろ抽象度の高い作品群ではあるが、恐怖政治に支配された母国への憂いがそこかしこに滲んでいる。すなわち、共産党一党支配体制時代のソ連で活動した2人の作曲家、ウストヴォーリスカヤとプロコフィエフ、他方、ヒトラー率いるナチスの暴虐から逃れるべく故国を後にしたドイツの作曲家、ヒンデミットによるこれらの音楽は、独裁国家のもと抑圧された個人のエネルギーが爆発的な情動の波を形成する点で、いびつな時代空間ならではの表現と見ることができよう。
そのように感じられたのも、ウラディーミル・ユロフスキのタクトがあったからこそ。何といっても、同団の首席指揮者を14年の長きにわたって務め、現在は名誉指揮者でもある彼が指揮台に上がると、このオーケストラのまとまりも格段に向上する。さらに近年は技術的巧さに加え深い精神性と構築性が備わり、例えば昨年末にLPOとともに演奏したマーラーの第9交響曲など、もはや巨匠の域と言えるほど含蓄ある音を引き出していた。この日の演奏でも、ウストヴォーリスカヤの楽曲においては形式の中にそれを越え出る感情のうねりを織り込ませ、プロコフィエフでは秩序とカオス、平静と狂気の入り混じるテクストを卓越したバトン・テクニックで巧妙にまとめていた。
一方、ヒンデミットのコンチェルトでは、ソリストのギル・シャハムのスピード感と安定した完璧なテクニックが圧巻。次々と押し寄せる多様なモチーフに果敢に挑むことで立ち現れる緊張感が見ものであった。
いずれの作品においても、全体と個の葛藤を現出させることで、全体主義国家において抑圧された個人のエネルギーの内なる叛乱が見事に描き出されていた。
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“A place to call home”シリーズに相当するものではないが、上記の公演10日後に行われたLPOのコンサートも、やはりそのテーマに強く共鳴する内容であったため記録しておきたい(4月29日@ロイヤル・フェスティバル・ホール)。ここでは“Music from the Shadow” (「陰からの音楽」)とのタイトルがあてがわれ、ショスタコーヴィチ《ヴァイオリン協奏曲第1番》に始まり、現代オーストリアを代表する作曲家の1人、トーマス・ラルヘルによる《交響曲第2番「慰霊碑」》を経て、マーラーの《交響曲第10番》(第1楽章のみ)で締めくくるもの。とりわけ、メインとなるラルヘルの交響曲は、中東やアフリカから欧州を目指す難民・移民の数が急増した2015年から16年にかけて作曲され、サブタイトル「慰霊碑」にもあるように、地中海を越える途上で命を落とした難民たちへの哀悼を示す内容となっている。故郷を追われる人々に向けられた眼差しは、まさにLPOが掲げた先のテーマにそのまま当てはまる。
タクトを務めたのは、フィンランドの気鋭、クラウス・マケラ。27歳の若さながらすでにオスロ・フィルハーモニー管弦楽団、パリ管弦楽団の首席指揮者を務め、さらに2027年よりアムステルダム・コンセルトヘボウの首席指揮者に就任予定など、世界中の楽団から今もっとも注目されるアーティストだ。古典派やロマン派は当然ながら、リュリなどバロック期の古い音楽や、かたや現代では新作初演も頻繁に行なうなど、そのレパートリーは実に幅広い。だが、何よりも彼の魅力は、自然な息遣いから繰り出す音楽の波に奏者をゆったりと引き込み、自由自在に歌わせる技に長けていることだろう。実際、本公演についてはリハーサルを見る機会を得たが、マケラによる指示は言葉によるというよりむしろ、指揮者と奏者の間、音と音の間に生まれる呼吸、空気感などの非言語的「コミュニケーション」をもとに曲を作り上げているように思われた。
前半のショスタコーヴィチ《ヴァイオリン協奏曲第1番》は、先の公演でのプロコフィエフの第6交響曲と同時期の創作で、やはり鬱屈した響きの中にこの作曲家特有の節回しや諧謔が見え隠れし、社会と個人のせめぎ合いを模しているよう。ソリストのジュリアン・ラクリンは、情熱的な歌心を惜しみなく表出させる奏者だけに、第1楽章ノクターンの悲壮な旋律線や、全曲を通じて見え隠れするユダヤ的モチーフがくっきりと浮かび上がってくる。彼自身も幼少の頃、当時はソ連邦の一部であったリトアニアからウィーンへ移住した経歴をもつらしいが、その出自を強調する必要はないにせよ、やはり圧政の陰に埋もれた声なき声を代弁しているかの如く胸につき刺さってきた。
後半の2つの交響曲は、このラクリンの奏でたショスタコーヴィチと存分に響きあうものとなった。すでに触れたように、ラルヘルの「慰霊碑」は海を渡る途上で命を落とした難民が主題だが、作曲家のプログラム・ノートによれば、遭難の様子など具体的な事象を描写しているわけではないという。イ短調を主軸とし、アレグロ、アダージョ、スケルツォ、イントロドゥチオーネの4楽章構成という古典的な形を踏襲しつつも、現代の「交響曲」の可能性を探る作曲家だけあって、多種多様な打楽器群、プリペイド・ピアノやアコーディオンなど様々な音素材を重ねて生成される音響空間の変化が斬新。しかもそれらが、表現対象と音楽の双方における不調和、不測性を表すように思われた。あるいは、テクスチュアの濃淡、旋律の上下動などによる緊張と弛緩は、海に沈む運命の不条理を象徴的に示すものではないか。とりわけ、緩徐楽章では次に奏されるマーラーの第10交響曲を暗示させる部分もあり、やがて訪れる死の気配を予兆させると同時に、この日のプログラムの必然性を示すものともなった。
若きマエストロ、マケラは、ここでもキレのあるタクトでアンサンブルを統率。リハでは音の揃わなかった複雑な譜面も本番で見事に決めるあたりは、指揮者、奏者ともども賛嘆するしかない。ただし、最後の演目となるマーラーのシンフォニーについては、アンサンブルの美しさに流れすぎるきらいがあり、その背後に見え隠れする生と死をめぐる葛藤は、直前の「慰霊碑」ほどには顕にならなかったように思う。とはいえ、技術的にも表現的にも難解で高い精神性が求められるこれら3つの作品を圧倒的な求心力でまとめる手腕は、今後のさらなる活躍を期待させるのに十分すぎるほどであった。
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クラシック音楽は現代社会と無縁ではなく、現実世界と常に関わるものだと先のドュビネッツ氏は語る。まさにこれらの公演は、我々の生きる時代のあるがままの姿を容赦なく突きつけてくるものであった。もちろん、音楽によって失われた家や故郷がすぐに取り戻せるわけではない。けれども、他者に思いを巡らせること、その痛みに心を寄せることは可能だ。少なくとも、このような機会を生み出す企画者、作曲家、演奏家、そして聴衆がいる限り、相互に気持ちを寄せ合い、理解し合うことは不可能ではない。それがせめてもの救いなのではないだろうか。
(2023/6/15)