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エゴン・シーレ展 ──ウィーンが生んだ若き天才──|柿木伸之

エゴン・シーレ展
──ウィーンが生んだ若き天才──
会期:2023年1月26日〜4月9日
会場:東京都美術館
Egon Schiele — from the Collection of the Leopold Museum: Young Genius in Vienna 1900
January 26–April 9, 2023 / Tokyo Metropolitan Art Museum

Text by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)

(レオポルド美術館所蔵)エゴン・シーレ《ほおずきの実のある自画像 Self-Portrait with Chinese Lantern Plant》(1912年)

エゴン・シーレが数多くの自画像を残したことは広く知られていよう。そのなかには《ほおずきの実のある自画像》(1912年)のように、彼の絵画の象徴と見られている作品もある。その一方で、彼が言葉としても自画像を描いていることは、それほど知られていないかもしれない。画家であることを自問するなかから紡ぎ出されたシーレの言葉は、彼の絵画が目指していた境地を暗示しているように見える。なかでも自画像への素描として、自伝的な叙述に続いて記された次のような言葉は、自然と一つであるような真の芸術を追究する彼の立場を、一種の信仰告白とともに表明するものと言えよう。

……最高の感性は宗教と芸術である。自然は目標だ、しかしそこには神がいます。ぼくは神を強く感じる、極めて強く、最も強く。ぼくは、いかなる「現代の」芸術もないと信じる。あるのはただ一つの芸術だ、そしてこれは永続するのだ。(大久保寛二訳)

シーレの絵画は、この「ただ一つの芸術」であろうとした。絵画としての自画像が示す強い眼差しは、このことへの自恃を表わしているのかもしれない。その一方で、《ほおずきの実のある自画像》に植物とともに描かれた画家の相貌は、どこかはかない。芸術そのものを引き受けようという意欲に燃えながら、少年期に父を亡くした──先に引いた自画像への素描には、このことも記されている──経験などから孤独を抱え、愛を渇望し続けた画家シーレ。その絵画の世界を、世紀末から二十世紀初頭の美術の文脈のなかに浮かび上がらせようとする「エゴン・シーレ展──ウィーンが生んだ若き天才」が、上野公園の東京都美術館で開催された。
大規模なシーレ展としては東京では30年ぶりとなる今回の展覧会は、主にヴィーンのレオポルド美術館が所蔵する作品によって構成されていたが、その特徴の一つに、自画像や女性像などの人物画だけにとどまらない、多様なシーレの作品が出品されていたことがある。とくに風景画が一セクションを占めるかたちで展示されたことにより、滞在した街を親しみを込めて描くなか、独特のリズムを持つ空間を探究し続ける彼の絵画の一面が浮かび上がっていた。今回のシーレ展のもう一つの特徴としては、彼に影響を与え続けたグスタフ・クリムトをはじめ、同時代の作家の作品も数多く出品されていたことが挙げられる。
なかでもシーレに先立って表現主義的とも言える独自の絵画を追究し、1908年に25歳で自殺したリヒャルト・ゲルストルの作品がいくつか出品されていたのは、シーレの絵画の特徴を浮かび上がらせるうえでも重要と思われる。《田舎の二人》(1908年)に描かれたマティルデ・シェーンベルクと見られる女性像──ゲルストルは、この作曲家の妻と一時恋愛関係にあった──が、風景に溶け込んでもはや輪郭をとどめていないのに対し、シーレの《菊》(1912年)は、花弁が枯れ落ちようとする瞬間まで独特の線で捉えようとしているように見える。そこからは、彼の「ただ一つの芸術」としての絵画への意志も感じないではいられない。

(レオポルド美術館所蔵)エゴン・シーレ《叙情詩人(自画像) The Lyricist (Self-Portrait)》(1911年)

この意志を瞳に凝縮させたシーレの自画像は、今回の展覧会においては同時に、彼を自己の探究へ駆り立てるものも強く感じさせた。フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」という言葉に込めた、世界の根拠が崩壊していく同時代の状況のなかで、また《自分を見つめる人II(死と男)》(1911年)という作品がはっきりと示すように死の影を背負いながら、シーレは一人の画家であろうとした。その際に彼が「人間」としての自身の崩壊をも見つめようとしている点が興味深い。《叙情詩人》と題された自画像(1911年)では、人体が崩れ落ちていくのを、右手に添えられた左手がかろうじて支えているのだろうか。
土色を基調に、補色も交えながら浮き彫りにされた画家の裸体は物質と化しつつある。そのことを象徴するように直角に折れた首からわずかにのぞく眼は、自己の崩壊を受け容れているかのようだ。そのことは、シーレが狂おしいまでに自分を追い求める一方で、自分が自然と一つになる境地を探り続けていたことも暗示しているのではないか。

(レオポルド美術館所蔵)エゴン・シーレ《啓示 Revelation》(1911年)

その点は、自身を詩人に擬した自画像と同じ年に描かれた《啓示》(1911年)という作品にも表われていよう。そこでは、一人の半裸の人物が、二人の象徴的な人物像のなかへ吸い込まれようとしている。ここには、既成宗教を越えてシーレが持とうとした信仰が表われているのではないだろうか。
この信仰を、先のシーレの言葉以上にはっきりと表わしていると思われるのが、「アナーキスト──太陽」という題が付された詩的な断章である。そこでは、画家の眼が万象の輝き──それが「太陽」だ──と一つになることへの願いに続いて、次のような祈りが綴られる。

見てくれ、父よ、ぼくを、そのあなたはそこにいるのだから、ぼくを抱きしめて、ぼくに与えてくれ、近接と遠隔を、去りまた来たれ、猛りつつ、世界よ。──今おまえの高貴な四肢をひろげよ。ぼくに柔軟な耳を差しのべてくれ、美しい青ざめた水の眼を。(大久保寛二訳)

(レオポルド美術館所蔵)リヒャルト・ゲルストル《半裸の自画像 Semi-Nude Self-Portrait》(1902/04年)

こうした言葉に象徴されるシーレの宗教的とも言える次元も、今回の展覧会で強く感じられた。それは、小さく十字架が描かれた《カルヴァリオへの道》(1912年)が示すとおり、キリスト教を背景とするものであると同時に、その美術の伝統からすれば瀆神とも見える仕方で、芸術の自由として表われるものと言えよう。
では、芸術を「神」としての自然へ向けて繰り広げようとするシーレの信仰を含んだ思考は、どのような背景と文脈から生じたのか。そこにはどのような独自性があるのだろう。それは今回の展示を越えて問われるべきだろうが、この問いに向き合う契機は出品作に含まれていたように思われる。例えば、ゲルストルの《半裸の自画像》(1902/04年)は自身をイエス・キリストに擬しているようにも見えるが、これを先に挙げたシーレの《啓示》と対照させることもできたはずだ。あるいはアルビン・エッガー゠リンツの《森の中(《祈りのための習作》)》(1895年)からは、ゲルストルやシーレが反撥を覚えていたかもしれない信仰も感じられる。
今回のシーレ展では、彼とその同時代の作家たちの作品が並列的に扱われていて──そのことは、ゲルストルのほか、コロマン・モーザーとオスカー・ココシュカの芸術が、それぞれ独立したセクションで主題化されていたことに表われていよう──、これらの関係を掘り下げる要素が少なかったのが惜しまれる。また、「裸体」という表題のセクションも設けられていたが、シーレが追究したエロスの同性愛にも開かれた現代性が、その展示をつうじてもう少し打ち出されてもよかったようにも思われる。こうした気にかかる点があったとはいえ、レオポルド美術館が所蔵するシーレとその絵画を象徴する作品が見られたのは実に貴重だった。

(レオポルド美術館所蔵)エゴン・シーレ《吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木) Autumn Tree in Stirred Air (Winter Tree)》(1912年)

とりわけ《吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)》(1912年)は、硬く吹きつける風になぎ倒されそうになりながら立ち続ける一本の木を描くと同時に、二年後には第一次世界大戦の破局に至る時代の暴風のなか、「ただ一つの芸術」に踏みとどまろうとする画家自身の姿も描き出しているように見えてならない。その画面は、世界の根拠が再び崩れようとしている今をどのように生きるかを静かに問うていると思われる。今回の展覧会が、このようなシーレの芸術を、同時代の精神史のなかにあらためて位置づけながら、そして現代の状況と照らし合わせながらさらに掘り下げる契機になることを願ってやまない。

シーレの言葉は、以下から引用した。大久保寛二編・訳『エーゴン・シーレ 日記と手紙』白水社、1991年。
展覧会ウェブサイト:https://www.egonschiele2023.jp/index.html

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柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
美学を中心に哲学を研究する傍ら芸術批評を手がける。著書に『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』(インパクト出版会、2022年)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)などがある。現在西南学院大学国際文化学部教授。ウェブサイト:https://nobuyukikakigi.wordpress.com

(2023/4/15)