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評論|過去をどうやって上演するか――メルドーと田中泯(その2)|田中 里奈

田中泯「『朗読とオドリ』試演1」
THEATRE E9 KYOTO、2023年2月2日~5日(鑑賞日:2月5日)
主催・企画製作:Madada Inc.
共催:THEATRE E9 KYOTO(一般社団法人アーツシード京都)

Min Tanaka, “Reading and Odori” An Attempt 1
THEATRE E9 KYOTO, February 2-5, 2023 (Date of visit: February 5)
Produced by Madada Inc.
In Association with THEATRE E9 KYOTO (Arts Seed Kyoto)

https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20230202

Text by 田中 里奈(Rina Tanaka)

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評論|過去をどうやって上演するか――メルドーと田中泯(その1)|田中 里奈

朗読とオドリ——田中泯による初めての試み
奇しくもメルドーのライブと同じ週に、京都市内のTHEATRE E9 KYOTOで上演されていたのが、田中泯による『朗読とオドリ』試演1である。意外にも、朗読とオドリの両方を一人で組み合わせる上演の試みは、今回が初めてである。なお、田中はTHEATRE E9のこけら落とし公演(『題名のないオドリ』、2020年1月)以来、年1~2回のペースで公演を打ち続けており、お馴染みのプログラムという感がある。

全4日間の公演はおよそ45分間で、読まれる詩人は日替わりである。初日と3日目は金子光晴、2日目と楽日は石原吉郎の詩が読まれた。金子の詩は以前にも山梨放送による特集番組に田中が出演した折、取り上げられていたが6、石原の方は初めてではないかと思う。

筆者の観た回では、田中がまず登場するなり、開演前に小水が近くなる話を始めた。緊張するとトイレが極めて近くなる筆者としては、まったくもって身近に感じざるを得ない。そうやって彼の話に耳を傾けていると、知らず知らずのうちに、田中泯という存在よりも、我々と同じ作りで飲み排泄するような肉体に、注意をぐっと向けさせられている。それから、田中は石原吉郎を手短に紹介し——シベリアに8年間抑留され、帰国した後で詩人になった——、スッと朗読に入った。

田中が、舞台上手の椅子に座り、机に向かい、詩の書かれた数枚の紙を綴じたクリップボードを手に取って、錆びのある声でおもむろに詩を数編朗読する。読み終わると、立ち上がって踊る。踊り終わると、椅子に座り、さっきまで踊っていたのにもう息を整えて、紙を一枚捲って、詩を朗読し出す。

田中の声は澱のようにじんわりと場に滞留していて、その意味をゆっくりと咀嚼している間にオドリが始まる。舞台上と後方には、皴がたくさん入った一枚の大きな和紙が置かれている(美術:藤田龍平)。田中が即興で踊っている間のアンビエントなサウンド(石原淋)と照明(石綿未愛(SECT))も即興的である。これらがただちに組み合わされ、あるいは解体されて、観客の認識の中でイメージを結ぶ。田中の動きとうすぼんやりした光の陰影によって、舞台上の紙が、まるでシベリアの雪原に見えたり(石原吉郎『墓』、1972)、青空に見えたりする(同『私の青空』、1976)。


わたしも〈場〉の一部になること
今回の公演の中で、田中は「声に出して読むことには責任が伴う」と述べていた。なるほど、石原の詩のことばは石刃のように鋭く研ぎ澄まされていて、それぞれのことばの背後にあるものは想像しても余りある。そのことばを、独りで黙して読むことと、田中泯の声と肉体を介して共に読むことは、どのように違うのか。

まず、他者の言葉を自分の声を使って発する行為が、発話者を受動から能動へと切り替えさせる。ここまでは良い。それが「朗読」となれば、「朗読する」という意のドイツ語「vorlesen」が「誰かの前で(vor)」「読む(lesen)」ことを指すように、「誰かがそれを聞いている」という〈場〉が自ずと連想される。言うなれば、そこで聞いている聴衆も〈場〉の一部になることが前提となる。とすれば、〈朗読〉という行為が生み出した〈場〉を田中泯が踊ったのだと考えることができる。

今回の公演が〈場踊り〉の一種かもしれないと、さしあたって仮定してみる。これまで田中自身がそう語り、また多くの人々がそれを認めてきたように、田中の〈場踊り〉は、その場に生起した感覚や記憶を瞬間ごとに捉え、体で表す。表されたものは、見る側の一人ひとりに何かを感じさせ、何らかを想起させる強い作用を持つ。その、言葉で割り切ることのできない多義的なものを、見る側はどうにか感じ取ろうとし、その意味を考えざるを得なくなる。知らず知らずのうちにそれを繰り返し行いながら、その場に留まって見届けるかどうかを自ら選び取っている。田中泯の驚くべき点は、この濃密なプロセスを、まるで一対一で向き合って生み出しているかのように観客一人ひとりに感じさせ、さらに、一つひとつの関係が網目のように編み組まれた〈場〉を踊ってみせることにある。

このために、彼の場踊りを漫然と見ることは無理難題に近く、観客はそうなると予期していたかにかかわらず、〈場〉の一部となる体験を半ば強いられる。でもそれは「責任を担わされる」という感覚とは似て異なるものだ。

シベリア抑留を描いた作品と言うと、どうしても私は劇団四季による『ミュージカル異国の丘』(2001)を思い出すのだが、あれほど観客を勝手に同質化して、反省と責任をぐいぐい押し付けてくる作品もそうない。同作の詳しい話は別稿に譲るが、先述したノスタルジー発生装置としてのビートルズ消費と同種のことが、『異国の丘』でも起こっている。すなわち、史実をドラマティックに鋳直すことにより、不信の宙づりが機能している間に、観客に空ろな責任感をしみじみと感じさせる磁場を作り出すのだ。そこでカタルシスと引き換えに受け取ることができるのは、「責任を負わなければならない」という感覚であり、「責任をどのように負うことができるのか」という個々の自由裁量の可能性はほとんど残されていない。


再帰的無能感を超えられるか
自分が(何かを変えることのできる)中心軸からつねに外れて存在しているという感覚。自分が関わらなくても、それを紡ぎ続け、享受することのできる限られたエリートたちの手によって、歴史は存在し続けるだろうが、その(負債はともかく)恩恵は自分のもとに決して来ないという感覚。今日には、そういう(アンチな)歴史観のヤバさがある。そんな現実を一時停止する場の提供は芸術の得意分野だったはずだが、そう信じられないほどに現実はもうとっくに随分悪くなりすぎているので、過去のように芸術活動ができるような状態ではもはやない。

〈上演に誰かが居合わせていることが、上演の成立に不可欠である〉というクリシェは、上演に関するテキストのうえでは、すでに使い古されて久しい。そうは言っても、ただの観客ぽっちが上演に影響なんか与えられようがない。上演に直接的な影響を与える手段は、チケットを買うか否かという、消費者としての行動に委ねられる。そう信じることがもっともに感じられ、実際の行動もそれを強化する他ないような「再帰的無能感(reflective impotence)」7に満ちた資本主義的リアリズムが今日の様相であると述べたマーク・フィッシャーは正しい。

以前、筆者は本誌にてKYOTO EXPERIMENT 2023のコンセプトをめぐって、アイリス・マリオン・ヤングの責任論を引用して論じた際、他者とのつながりを見失った今日において、「さまざまな関係性の網の中のどこかに引っかかっていたはずの自己と他者との見えなくなった関係をつないでいく」ために、「忘れかけていた身体の感覚に立ち戻り、他者とフィジカルに出会う時に生ずる《責任》を感覚的に思い出す」ことが、芸術においてであれば起こり得るではないかと述べた。ただし、そうすることのできる余裕が我々の生活にほとんど残されていない、とも記した。

そんなわちゃわちゃの現在においてもなお、田中のオドリは、協働の関係を一時的に作り出す。そこで束の間、過去から現在を経て未来へと抜けていく連続性のなかに自分がいるという《責任》が、感覚的に思い出される。その感覚は終演後に確かめようもなく消えてしまったが、それを錯覚だと一蹴するには、メルドーのライブで筆者が経験した知覚と似すぎていた。デジャブの蓄積と言ってもいいかもしれない。


過去とつながる、過去とつなげる
過去を徒に消費するのでもなく、自分から程遠いものとして手離すのでもなく、今と昔がつながっているのだと、誰かと一緒に確認すること。その営みがたったひとつではなく、実はあちこちで同時多発的に起こっていたのだったと、フィジカルに感じられること。メルドーのライブから田中泯のパフォーマンスへと再知覚されたその感覚が、社会的に学習され続けてきた無力感に苛まれる袋小路の次元から、自分のいる位相をずらすことのできる糸口に、ひょっとしたらなるのかもしれない。前に進めなくなって横に歩いていったとき、これまで進んでいた道の前後が多少なりとも見えてくるように。

前ではなく横へ歩けるだけの道幅は、メルドーと田中それぞれの体現した歴史観に共振して、拡張されていく。その拡がりに気づけるのが今かどうかはさほど重要ではなく——たぶん、いつのまにか広がっていた道幅に気づいたときから、自分で歴史を編み出す行為がはじまる——その体感を一度でも得たことがあるかどうかが重要なのだろう。前にも横にも道が無いと思えるから、その場でずっと足踏みをしていたら、体が沈んで周囲の視界が閉ざされる。そこから一歩を踏み出すかという問題に関わってくる。掬い出されるというよりかは、金縛りが解かれたような感覚とともに。

(2023/3/15)

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  1. 「1億人の富士山スペシャル いつになったら 詩人・金子光晴」山梨放送、2005年12月25日。
  2. Mark Fisher, Capitalist Realism: Is There No Alternative?, Zero Books, 2009.