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プロムナード|懐かしい夕凪|齋藤俊夫

懐かしい夕凪
Nostalgia for evening calm in the future

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

一昨年前から随分と長くコロナ禍の中にある我々であるが、このコロナ禍と、それが終わった後の〈人類〉に対して〈期待〉を抱いていたのは筆者だけではあるまい。どんな期待だ、と詳しく問われると窮する、漠然として確たる根拠のない、コロナ禍によって人類がもっと賢くなる、という期待、全世界的、歴史的、人類的なこの災厄を通過することによって、人類が(あえて卑近な単語を使うが)知的にレベルアップするに違いないという期待である。
だが現実に目を向ければ、異常気象の常態化によって日本も水害だらけの国になり、中国やアメリカやヨーロッパで大旱魃、さらにヨーロッパで大山火事、パキスタンで国土の3分の1が水没、スーダンで国土の3分の2が水没、と、ガラスの地球を守れ、などというイメージとはかけ離れた、怪物的本性をさらけ出した地球に為す術もなく文明を崩壊されている〈人類〉しかいない。
いや、人類が災厄に直面して為す術もなく立ち尽くしているだけなら現実よりずっとマシだ。人類がコロナも異常気象も忘れたように今まさに突っ込みかけているのは核戦争と第3次世界大戦ではないか。これ以上の愚行があろうか。コロナ禍によって改めてさらけ出されたのは人類の果てしない愚劣さではないか。この現実に幻滅しないでいられようか。

災厄を目の前にしてさらなる愚行に走るという人類のこの喜劇的なまでの悲劇性と愚劣さは、カート・ヴォネガット・ジュニアのナンセンスSF『猫のゆりかご』で描かれた人類滅亡のバカバカしさもかくやと思わされる。結局、人類というものは今も昔も未来も変わらず愚かなままなのか、という、それこそヴォネガット・ジュニア的な自嘲的諦観に至ってしまいそうだが、ここで筆者はとあるマンガ作品を紹介したい。

それは1994年6月から2006年4月まで講談社のマンガ雑誌『アフタヌーン』で連載された、芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』である。
この作品の主人公「アルファ」は、容貌・所作・言葉遣いなどは完全に人間の20歳前後の女性だが「ロボット」である。タンパク質の類を食べると悪酔いする、台所用洗剤で歯磨きをする、雷に撃たれても治療をすれば皮膚が再生する、など、「彼女」がロボットであることは物語の中の細かなエピソードで判明するが、では、彼女が「何故ロボットでなければならないか」という点に本作品最大のテーマが内在している。

引用画像その1、第1巻「ヨコハマ買い出し紀行」より

「ヨコハマ」から原動機付自転車でしばらく走った所にある喫茶店の店長・アルファの、特に何も起こらない日常を淡々と、連載期間にして12年間描き続けた本作の作品内での時間の幅は、第2話「入江のミサゴ」で10歳程度の少年として初登場した「タカヒロ」(念の為だが、彼はロボットではなく人間である)に、最終話の2つ前の第138話「目覚める人」の時点では10歳くらいの娘がいることから、少なくとも20年程度の歳月が流れたことがわかる。また第0話(連載前の読み切り)「ヨコハマ買い出し紀行」と最終話(140話)「ヨコハマ買い出し紀行」での「ヨコハマ」の街を描いた引用画像1と2を比較すれば一目瞭然な通り、それなりの賑わいを見せていた第0話のヨコハマが、第140話では建物も少なく閑散としている。

引用画像その2、第14巻最終話「ヨコハマ買い出し紀行」より

第0話のアルファのモノローグで「数年前までの『大都市ヨコハマ』が夢みたい」とあることから、第0話の数年前に何か大きな出来事があって人類とその文明が衰退の道を歩み始めたということが推測される。まとめると、本作品の開始時点の数年前に大事件(災厄?)があって人類と文明が急速に衰退し始め、本作の20年の間に衰退が進み、最終話(もしかすると最終話はその前の話よりも後年である可能性もある)では、登場する人物(?)中に人間は1人だけで他は全てアルファと同じロボットになっている。

人類と文明の衰退の様子は、気象などを観測する目的で作られたと思しき、永久的に動力が稼働する航空機から地上を見続けているロボット「アルファー室長」の台詞でこう語られている。(乗組員から「どう?下は」と尋ねられて)「悪くなってくみたいです。ここから見る限り」「いきなりなくなる町ですとか……ちらほらと……でも」「前みたいなやな感じがしないっていうか……」(第44話「星の目 人の目」)。

引用画像その3、第14巻第134話「ラジオ」より

このアルファー室長は最終話近く、人間の乗組員たちが皆死亡したらしき航空機の中、独りで地上を見ながら「地上はますます静かになっている」「またいくつかの街の灯が消えてしまった」「人の灯が消えたあとしばらくすると」「町や道をなぞるように青い灯が現れることがある」「夜の地上はもうまっ青に光っている」「下ではみんなどんな目にあっているのだろうか」と考えている(第134話「ラジオ」)。
つまり、マンガにおける「日常系」の嚆矢とも言える本作品は、アルファたちのノホホンとした他愛もない日常を描いているようでいて、実は人類の衰亡を描いた作品なのである。
このことを踏まえると、主人公アルファたちが何故人間ではなくロボットでなければならないかがわかる。歳を取らないアルファたちロボットは、滅びゆく人類を〈記憶して〉〈看取る〉ための存在なのである。ロボットという虚構の存在に託されたこの〈優しさ〉が本作をして名作たらしめている。
本作の末尾のアルファのモノローグを引用しよう。「私の場所はカフェ アルファ」「私の見てきたこと みんなのこと」「ずっと忘れないよ」「お祭りのようだった世の中が ゆっくりとおちついてきた あのころのこと」「のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間 つかの間のひととき ご案内しましょう 夜が来る前に」「まだあったかいコンクリートにすわって」「人の夜が やすらかな時代でありますように」
人類の死をうべなうことによって人類の存在と歴史全てをうべなうアルファたちのような優しきロボットはこの酷薄な現実には存在しない。だが虚構とは知りつつ、本作品に描かれた「夕凪の時代」そしてやがて訪れる「人の夜」に懐かしい未来を見てしまうのは筆者だけではないだろう。

引用画像その4、第14巻最終頁、この2人は人間ではなくロボットである。

(2022/11/15)