三つ目の日記(2022年7月)|言水ヘリオ
三つ目の日記(2022年7月)
Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
今月は展覧会を一つも見なかった。そんな一か月が、去年もあった。外出しても、至近のコンビニかスーパーへ買物しに行っただけ。電車に乗らない。家の中でのほとんどの時間を、パソコンの前かふとんの中で過ごした。汗をかき始めるとすぐエアコンをオンにしてしまうため、暑さもたいして身にしみていない。日中は眠っているし、起きているときでもたいていヘッドホンをして音楽かラジオを聞いている。蟬が鳴いたりしたかもしれないが聞こえない。ラジオが猛暑だという。いくつかの機器が日付を表示して、いまが夏なのだということを示唆する。自ら音声を発することもほとんどない。仕事のための数回の電話。買い物の際の袋や割り箸がいらないと伝えることば。そのほかは、数人との、幾度かのメールのやりとり。そういったことが、会話の代わりといえるだろうか。
届いた展覧会の案内状を、今週開催のものと、来週以降開催のものとで仕分けする。SNSなどで得た展覧会情報は、カレンダーアプリに記録する。週末には、会期を終えた展覧会の案内状を処分する。その作業が滞ることはなかった。だがどの展覧会にも行くことができなかった。
そのような状況下、月がかわって、7月のこの日記のファイルを開くと、二日間の日記が残っていた。どちらも、美術にかんするものではないのかもしれない。
2022年7月16日(土)
タル・ベーラ監督の『倫敦から来た男』をDVDで見る。途中で、発話の口元と声が合っていないような気がしていったんDVDを止める。b、p、mなどの音を持つフランス語が聞こえるのに、発話者の上下の唇がつぐまれていないのである。吹き替えの設定が原語ではなくフランス語になっているのでは、と考え確かめるが、吹き替え設定はなく、ただ日本語字幕のON/OFFがあるだけだった。再生を再開し、口元に注目する。やはり口と音とが合っていない。そのような見方を続けたせいか、映画の、多くはない会話の声は、映像の中で発せられたのではなく、どこかから聞こえている外からの声、そんな感覚が生じる。台詞として用意されたことばの文字列を、ことばとしてゆっくり、それが台詞であるように読み上げていく役割の人と、動作を演技として行う役割の人とが、映画で合成されている。カメラが移動し話者のうしろ姿を映すことにより口元は見えなくなり、あるいはカメラが移動して沈黙している別のもう一人だけをアップで映し出し、声の発生口は画面から消える。カットが変わるのではなく、ワンカットで移動しながらの長い場面であるからこそ、そのようなことが気になってくる。最後、フランス語の声(英語のも)は誰々、という表記をエンドロールに見つける。やはり声は別に録音されているようであった。
7月18日(月)
市民センターでハングルを習っている、読み書きができない年配の女性。宿題で詩を書くことになる。短い詩を書く。宿題の手伝いをしている間借りの女性がそれを読もうとするが、正しい書き取りではないのであろう、判読できない。しかし、読めないながらその詩になにかを感じ取っている様子。「何と書いたのですか?」と問う。年配の女性は、勉強中のハングルで書いたばかりの読めない詩を朗読する。判読できない文字と、声になって読まれたことば。そこにこめられたごく短い詩が、間借りの女性のこころを不意に撫ぜる。数分のそのシーンのために、キム・チョヒ監督の『チャンシルさんには福が多いね』をもう一度見る。
(2022/8/15)
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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わりながら、『etc.』の発行再開にむけて準備中。