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太田真紀&山田岳 Cabinet of Curiosities《a quiet space》|齋藤俊夫

a quiet space|齋藤俊夫

2022年6月29日 としま区民センター小ホール
2022/6/29 Toshima Civic Center small hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:太田真紀&山田岳

<出演>        →foreign language
ソプラノ、パフォーマンス:太田真紀
ギター、パフォーマンス:山田岳
(客演)エレクトロニクス:有馬純寿

機材製作:磯部英彬

<企画・構成>
Cabinet of Curiosities(森紀明、渡辺裕紀子、小出稚子)
太田真紀&山田岳

<曲目>
キャシー・ファン・エック:『ソング No 3』(2010)ジェスチャーを介した歌唱のための
ハヤ・チェルノヴィン:『ホウライシダ(II)』(2015)声と呼吸のための
カローラ・バウクホルト:『噪音』(1992)2人の奏者のための
スティーヴン・カズオ・タカスギ:『奇妙な秋』(2003/04)発話者、打楽器奏者、増幅と録音されたテープのための
シモン・ステーン=アナーセン:『Drownwords』(2004/rev.2019)極端な増幅を伴うソプラノとギターのための

アフタートーク出演:太田真紀&山田岳、Cabinet of Curiosities

 

現代音楽が最も〈現代的〉になるのは、その音楽が〈音楽の既成概念〉を打ち壊すとき、〈音楽の定義〉〈音楽の境界線〉を拡張、撹乱するとき、と筆者は考えている。筆者が「あれは本当に音楽の演奏会なのか?」と畏友に尋ねられたのは川島素晴 works vol.3 by 双子座三重奏団であるが、〈現代音楽〉の凄みはこのような逸脱、擾乱をも包摂してしまうところ、逸脱、擾乱を既にして内包しているところにある。逆に言えば、どんなラディカルな作品も〈現代音楽だから〉の一言で思考停止して受け取られてしまう、あるいは受け取ることすらなくスルーされてしまう危険性もはらんでいるわけではあるが……。いずれにせよ、〈境界線の拡張、撹乱〉すなわち〈境界線上での遊び〉への強迫めいた欲望を満たさずにはいられない因業な輩がこの世界にはおり、筆者もその一人なわけである。

そんな現代音楽愛好家たる筆者の欲望を満足させた今回の演奏会とは……ファン・エック『ソング No3』、登場した山田岳は顔面に画用紙大の紙を貼り、その口の部分の紙が丸く切り取られていてスピーカーが付けられている。山田は片手にマイクを持っていて、このマイクがスピーカーから拾った音をまたスピーカーに返しており、マイクとスピーカーお互いの距離や角度の変化によってスピーカーの音もまた変化していく(ように筆者には見えた)。スピーカーからのノイジーな音とその変化も面白いが、注目すべき、筆者の心と目を捕えた注目すべきものはそれに加わった山田の動作である。マイクを持った手を振り回しながら、あるときは話しかけるように、あるときは踊るように、あるときは歌うように〈動作〉する――いや、〈演じる〉と言うべきか?――ことによってスピーカーからの音と山田が何をしようとしているのかについての印象が、あるときはこちらを煽るように、あるときは何か歓喜に耐えないように、あるときはこちらなど無視して自分の世界に入っているかのように、と、変わっていく。人間は対面相手の行動や心理をどのようにして推測・把握しているのかという実験として筆者は本作品を捉えた。
チェルノヴィン『ホウライシダ(II)』、「声と呼吸のための」とあるように、「ホッ」「ハッ」といった呼吸、それも息を吐くだけでなく、息を吸うときの「ヒッ」というような音や「チッ」といった舌打ちのような音までマイクで拾って音素材として使用する。口腔や唇や舌の巧みな使用により、それら微細な音を豊かなヴァリエーションとして組織化・音楽化していた。音の〈脆さ〉の限界での作曲と歌唱、とまとめられるであろう。
バウクホルト『噪音』、机の上に譜面と、ゴムのアヒル、ガラスのゴブレット、コーヒー挽き、ペン、吊るされたカセットテープケース、ノートなどが置いてあり、太田と山田2人は机越しに向かい合い、将棋でも指しているかのように時間間隔を空けて机の上のものを叩いたり触ったりして〈噪音〉を静かに鳴らし続ける。〈楽音〉によって構築されるのが〈音楽〉と定義するならば本作品は〈音楽〉たり得ていないが、〈噪音〉もまた〈音楽〉の素材たり得るとするならば本作品も〈音楽〉となり得る――ただしものすごく点描的な〈音楽〉だが――。どこまでが〈音楽〉なのか、その定義と境界への挑戦と聴いた。
それまでとガラッと変わって太田・山田2人とも黒スーツに黒ネクタイで登場してのタカスギ『奇妙な秋』。山田は紙類を机で擦ったり弓で擦ったりページをめくったりといった行為をして、その擦音をマイクで拾って増幅してスピーカーで出力。太田は英語とドイツ語が混ざった奇妙な詩を朗読。2人のパフォーマンスに混じってエレクトロニクスでの金属的な音や液体の音などがスピーカーから流される。太田の朗読は小さくなった時は息の音並みになり、山田の擦音が大きくなった時は大雨の降りしきる屋根のように鳴る。全体を厳粛な雰囲気と静寂が支配しており、2人のしていることが、なにかの儀式ででもあるかのように感じられてくる。山田がペンで机を擦り、太田が息を吐いての長い長いディミヌエンドの後、無音となり、粛然として、謎めいたままに終曲。通常なら意味を持っている言語と発音という行為から意味を剥ぎ取り、通常意味を持たない擦音などの噪音が意味を持って聴こえてくるという、〈意味〉の転倒を体験した、と捉えた。
Tシャツに着替えてのステーン=アナーセン『Drownwords』、タイトルは「溺れる」と「単語」を組み合わせた造語とのこと。山田のギターの曲弾きと、口腔の形によって電子音の発音が変わる謎の音響機器も使っての太田の謎発声(歯を噛み合わせる音まで使う)が、電子的に断片化、変容されて、その文字通り意味がわからない、意味を拒絶した音の群れを聴いていると、タイトル通りまさに〈溺れている〉ような気分になってくる。人間は感覚したものになんらかの意味を持たせないと安心できず、その意味を拒絶されると〈溺れてしまう〉ということを知った。だがその〈溺れる〉体験もまた現代音楽ファンにとっては愉悦となる。ギターの名人芸、太田の息を吐く音、ギターをチョロリと弾いて、の終曲で演奏会の曲目全てが終わった時の満足感!

音楽の境界線上で遊ぶ、それは決して知的遊戯という言葉が帯びるような空虚な営みではない。不可思議な魔法めいたパフォーマンスによって我々人間に自由をもたらす行為である。現代音楽ファンで良かったと思える幸せな一時であった。

最後になるが、ファン・エック作品での顔面スピーカー、ステーン=アナーセン作品での謎の音響機器の製作に当たった磯部英彬を今回の功労者として特筆しておきたい。テクノロジーと音楽を結ぶ彼の仕事はもっと注目されるべきであろう。

演奏後のアフタートーク

(2022/7/15)

関連評:太田真紀&山田岳×Cabinet of Curiosities:a quiet space|小島広之
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<出演>
<Performer>
Maki Ota(Soprano, Performance)
Gaku Yamada (Guitar, Performance)
(Guest performer)Sumihisa Arima (Electronics)

Equipment production: Hideaki Isobe

<Project, Organization>
Cabinet of Curiosities(Noriaki Mori, Yukiko Watanabe, Noriko Koide)
Maki Ota& Gaku Yamada

<曲目>
Cathy van Eck: Song No3(2010)
Chaya Czernowin: Adiantum Capillus- Veneris(II)(2015)
Carola Bauckholt: Geräusche(1992)
Steven Kazuo Takasugi: Strange Autum(2003/04)
Simon Steen-andersen: Drownwords

After talk: Maki Ota& Gaku Yamada, Cabinet of Curiosities