太田真紀&山田岳×Cabinet of Curiosities:a quiet space|小島広之
太田真紀&山田岳×Cabinet of Curiosities:a quiet space
2022年6月29日 としま区民センター 小ホール
2022/6/29 Toshima Civic Center Recital Hall
Reviewed by 小島広之(Hiroyuki Kojima)
写真提供:太田真紀&山田岳
<演奏>
ソプラノ、パフォーマンス:太田真紀
ギター、パフォーマンス:山田岳
エレクトロニクス:有馬純寿
<曲目> →foreign language
キャシー・ファン・エック(b. 1979) ソングNo 3(2010)
ハヤ・チェルノヴィン(b. 1957) ホウライシダ(II)(2015)
カローラ・バウクホルト(b. 1959) 噪音(1992)
———(休憩)———
スティーヴン・カズオ・タカスギ(b. 1960) 奇妙な秋(2003-2004)
———(転換)———
シモン・ステーン=アナーセン(b. 1976) Drownwords(2003/2009)
アフタートーク(太田真紀&山田岳×Cabinet of Curiosities)
ソプラノとギターに囚われないデュオ活動を行なっている太田真紀と山田岳。この二人と客演の有馬純寿は、作品の世界を見事に開示した。この日彼らが演奏した作品を選んだのは、小出稚子、森紀明、渡辺裕紀子という三人の作曲家による「キュレーション・リサーチ・コレクティブ」、Cabinet of Curiosities である。彼女たちは、ヨーロッパで直接体験した現代音楽に関する新鮮な知識に裏付けられた企画・上演を2021年から行なっている。
この日のために選曲されたのは、身体的行為を伴う五つの「パフォーマティヴ・ミュージック」であった。それらには「ボーダーラインで遊ぶ」魅力があるとCabinet of Curiositiesの渡辺は言う。音楽と演劇、楽器と非楽器、楽音と噪音。これらの臨界領域上で音楽は不安定にたゆたう。曖昧にすること。それは、わたしたちを音楽の世界に惹きつける方法である。
チェルノヴィンの《ホウライシダ(II)》は、噪音と楽音のボーダーラインで遊ぶ。かつて噪音は、新奇さや野性味を印象付けたり(ヴァーレーズ《イオニザシオン》(1931))、異化作用をもたらしたり(ラッヘンマン《ギロ》(1970))するための手段として用いられた。噪音と楽音のボーダーラインが明瞭であったからこそ、そのような印象や効果が得られたと言えるだろう。しかし今日では、印象や効果と無関係に噪音が享受されることはまったく珍しいことではない。とりわけ《ホウライシダ(II)》の噪音は、楽音以上に美的に享受される。休符を挟みながら規則正しく配列された噪音は、博物館に展示された昆虫標本のように、ゆっくりと生々しく鑑賞される。他の作品で噪音の歌唱は、生理的な限界を超えた超絶技巧として行われることも多いが、ここでは諸音がひとつひとつ丁寧に性格づけられている。そのような音の配列は決して音楽を機械的にしない。むしろ太田は、噪音が持つ「削ぎ落とされた美しさ」を鮮やかに描きだしたのだ。
バウクホルトは対象に寄り添う作曲家だ。《燃料Treibstoff》(1995)や《渡り鳥Zugvögel》(2011-12)のような作品では、燃料、鳥という対象が音に転写された。対してこの日上演された《噪音》の対象は音に転写されるのではなく、対象そのものとして自らの姿を主張した。擦音を立てるノートとペン、空気が抜けるような音を発するシャンプーの容器、押し潰されるおふろのアヒル、そしてキコキコと趣のある音が出るカセット・テープケース。二人のパフォーマーの前にはこれらのオブジェが並べられる。そしてオブジェの物性的条件から導き出される固有の音が鳴らされる。演奏の様子はスクリーンに映し出された。ここでは非楽器と楽器のボーダーラインはもちろん、楽器と音、視覚と聴覚のボーダーラインもうやむやになる。楽器が無媒介的に音になることを通して。
《ホウライシダ(II)》と《噪音》は、対照的な二つのもののボーダーラインをめぐる遊びであった。一方、ファン・エックの《ソングNo 3》とステーン=アナーセンの《Drownwords》は、二項対立に回収されない、二つのものの関係性をめぐる作品だ。それらを体験したときわたしたちは、二つのものの差異と類似に思いを馳せずにはいられない。それらの狭間に惹き込まれ、その地点について考えを巡らせるようになる。
音楽では、会話など類似行為の場合とは異なり、身体性のような余剰が主役に躍り出る。身振りなしで音楽を生むことはできないだろう。とりわけ歌唱は、ある種の機械を媒介する器楽演奏と比べて、いっそう身体的な営みである。《ソングNo 3》のパフォーマーは、まるでロック歌手や演説家のように情熱的に身体を運動させる。歌唱行為を連想させる身振りである。しかし彼は歌声を一切出さない。スピーカー付きガスマスクで口が塞がれているからだ。それゆえパフォーマーは、身振りによってのみわたしたち聴衆に訴えかけることができる。とはいえこの作品は、シュネーベルによるソロ指揮者のための《ノスタルジー》(1962)のような、身振りのみによって構成される無音の作品ではない。パフォーマーの口元にあるスピーカーは軋むような電子音をけたたましく発する。その音は音楽プログラミング・ソフトウェアMaxによってあらかじめ調節されたものであり、パフォーマーが産み出したものではない。この音はパフォーマーが手に持つマイクに入力される。するとパラメーターが設定され、それに応じて次に吐き出される音が決定される。機械的ブラックボックス(スピーカー→オーディオ・インターフェース→マイク→スピーカー)内のフィードバック循環だけがあるように見える。パフォーマーは口元のスピーカーと手元のマイクの間の距離を決定することによってのみ、インターフェースに入力される音の振幅を調節し、歌に関与する。スピーカーに声帯を支配されたパフォーマーは身振りによってのみ〈歌う〉。
彼の身体、そしてそこから鳴り響く怪音は無機質で身体性を欠くが、身振りは人間的だ。ここにはある種の矛盾があるが、矛盾を感じさせない。スピーカーに頭部を支配されたパフォーマーの見た目が半ば無機的であり、その歌声もまた人間性と非人間性の間にあるからだ。全ての要素がボーダーライン上で中庸に調節されるために、ギャップは生じにくくなっている。身振りと歌が結びついているため、はじめは彼の見た目と声におどかされた聴衆も、時間を経るにつれて親しみをおぼえるようになる。しかし、演奏が後半に差し掛かると、印象的な二つのイベントを通して、彼が矛盾の世界に生きていたことが認識される。それは、人間の歌声がパフォーマーの意志とは無関係にスピーカーから降り注ぐところから始まる。この声は、彼の身体と何ら関係を持たず、無重力の中をさまよっている。そして先ほどまでの機械的な軋みとは異なり、人間性を帯びている。これに対してパフォーマーは大袈裟に驚いてみせる。人間の歌という他者の介入に対する驚きだ。ほんとうの歌が聞こえることで、彼の〈歌〉が人間的営為から切り離されたいびつな存在であることが意識される。次いで、パフォーマーがマイクを口元から離すほど音圧と音量が上昇し、近づけるほど下降するというイベントが起きる。言うまでもなくここでは通常の世界とは逆の事象が起きている。人間が/身体から発する/歌声。機械が/スピーカーから発する/軋んだ音。この三項がシャッフルされることによって、歌唱と身体の自然な関係性が動揺し、切り離される。普段ならば当然なものとして見逃されてしまう歌と身振りの関係性は、動揺を通してわたしたちの意識にのぼるようになる。パフォーマーを務めた山田の大きく明快な身振りは、これを一層明瞭にした。
音楽の素材である音は、生成と同時に霧散する。聴衆が音楽を十分に経験するためには、作品がそれなりの仕掛けを持つ必要がある。さもなければ音楽は観念的な戯れに堕してしまうだろう。
《Drownwords》は語と音の関係性をめぐる作品である。タイトルを日本語に訳せば「溺れる語」となる。語が溺れる——これが意味するのは、「語において[音よりも]意味が優越しているために、わたしたちの耳に届く前に語は消えてしまう」という事態である。この作品では語と音は積極的に分断された。この作品において何よりも印象的だったのは、歌手が口元につけた小型のスピーカーである。それは三種の単純なビープ音をプレイバックし、パフォーマーの発話を妨害した(同時に彩りもしたが)。さらに語は、「様々な程度に歪曲され、意味のない音や音素によって侵食される」。たとえば、「ヴォルトWort」というドイツ語の歌詞は、[v][ɔ][t]という音素へと解体される。つまり《Drownwords》では、《ソングNo 3》における音楽と身振りの関係性の場合とは異なり、語と音の関係性は、確立される前に否定されてしまっているのだ。《ソングNo 3》では、否定的なものの素地に肯定的なものがあった。一方《Drownwords》にはそれがない。結果として、「溺れる語」が「表面に浮かび上がり、意味となるための闘争」という作曲家が求めたコンセプトは空振りしている。しかしその一方、このコンセプトに刺激を与えられた音響は、この日上演された作品の中で最も興味深いものであった。気体のように茫洋とした音響が筋肉の運動を思わせるメリハリのある動きをしている。2021年12月にCabinet of Curiositiesが上演した同作曲家の《Chambered Music》(2007)を思い出させる音響を再び聴くことができた。あるいはマン・レイのレイヨグラフによる光の彫刻を思わせるようなアンビヴァレンス——形のないものの形——をステーン=アナーセンは音楽によって表現していると言ってもよいだろう。
スティーヴン・カズオ・タカスギの《奇妙な秋》は、ライブの音とスピーカーの音のボーダーラインと戯れる。とはいえ両者の関係性が切断されるのではない。むしろ両者は完全に融け合わされる。そこから現れるのはボーダーラインが焼き切れた先にある、第三の世界である。
黒いタキシードを着た二人のパフォーマーが歩幅を揃えて入場する。向かって左側に腰掛けるのはWieland Hobanによる英独バイリンガルの詩をボソボソと読む朗読者(太田)、右側に腰掛けるのは大きいアルバムとノートを〈演奏〉する打楽器奏者(山田)。二人は目を合わせることもなく、割り当てられた儀式を独立に遂行する。打楽器奏者がアルバムを勢いよくめくればグラシン紙が擦れ合うカサカサした音が聞こえる。ノートをペンで叩けばカタカタした音が聞こえる。行為から自然に連想される音がなる。だがこの音は、ほんとうにこれらの行為に由来するのだろうか。事前録音された音が、スピーカーから発せられているのではないか。ライブの音にしては少し大きめの音が、このような問いを喚起する。次第に、アクチュアルな音(アルバムをめくるというアクトが生む音)とヴァーチャルな音(実質的に聞こえている録音の音)の二つが重ね合わさっていることがわかる。だが聴衆にしてみれば、この二つの音がどのような塩梅で重ね合わされているのか、あるいはどちらか一方の音だけがなっているのか、正確に判断することはできない。常に曖昧な状態が維持される。朗読も同様に曖昧だ。まず詩文がドイツ語と英語のごちゃ混ぜであり、両言語の狭間にあるという意味で曖昧だ。さらにあるときには朗読が母音を欠くようになると録音がそれを補い、またあるときには断続的な録音をライブの朗読が補うことで、朗読の音もアクチュアルとヴァーチャルに分裂する。録音の低い男性の声と太田の声は完全に溶け合うことはないが、これもまた両性具有的な曖昧な印象を与える。ヴァーチャルな音とアクチュアルな音(ないし行為)が溶け合うというのが、《奇妙な秋》の前半で起きたことだ。
演奏の後半には、二種の音は新たな関係性を結ぶ。打楽器奏者がヴァイオリンの弓でアルバムを〈弾く〉と、轟くような音がスピーカーから発される。この音は摩擦音である点では行為から連想されるものと矛盾しないが、音量と質感において明らかにヴァーチャルな音である。同様に、ヴァイオリンの弓のスクリューの側で机を撫でる際になる音も、明らかにヴァーチャルである。しかし同時に、これらはアクチュアルな世界の延長線上にあるように感じられる。そしてこのヴァーチャルな音は行為が終わった後も蠢き続ける。これまで融合していたヴァーチャルな音と行為が、こうして遊離する。だがそれは本来、普段わたしたちが経験する通常の関係性である。しかしながら、もはや狭間の世界に慣れてしまい、二つが融和することを当然とみなす耳は、これを関係性の回復としてではなく、世界の拡張として聴く。二重化した世界で行われた儀式が拓いた世界における行為は、わたしたちの世界よりも多彩な音を伴う。たとえば朗読者が口を目一杯開くとき、通常の世界では、彼女の行為は制限され舌や唇を使う発話はできないだろう。しかし新しい世界では、口を広げるという行為を通して舌と唇の音がなる。もはやそれはヴァーチャルな音として体験されるのではない。ほんのすこしだけ修正された世界における音として体験される。この白昼夢のような体験は、衒学的な設定によって無理やり提供されたのではない。わたしたちは自然にこの世界に入り込んでいたのである。
身体的行為を伴う音楽作品——ともすればそれは、新奇な現代音楽の極北として捉えられかねない。しかし少なくともこの日の演奏は、「音楽とは何か」という根源的な問いに収斂するような普遍的な要素を秘めていた。それはバッハやベートーヴェンと無理なく接続する。そして同時に100年後の音楽とも繋がるのだろう。
(2022/7/15)
関連評:太田真紀&山田岳 Cabinet of Curiosities《a quiet space》|齋藤俊夫
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小島広之(Hiroyuki Kojima)
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程在籍。
「客観主義的な作曲(観)」をキーワードに、現代音楽の淵源について考察する。主たる研究対象 はE. クレネク、F. ブゾーニ、P. ヒンデミット。音楽史研究と並行して、今を生きる作曲家の創造力に触れるウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営している。論文に「パウル・ベッカーの客観主義的な音楽美学」『音楽学』第67巻第2号。
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<Players>
Soprano, Performance: Maki Ota
Guitar, Performance: Gaku Yamada
Electronics: Sumihisa Arima
<Program>
Cathy van Eck Song No 3(2010)
Chaya Czernowin Adiantum capillus-veneris(2015)
Carola Bauckholt Geräusche(1992)
———(Intermission)———
Steven Kazuo Takasugi Strange Autumn(2003-2004)
———(Intermission)———
Simon Steen-Andersen Drownwords(2003/2009)
Post-Performance Talk(Maki Ota, Gaku Yamada and member of Cabinet of Curiosities)