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武満徹 弧[アーク]|小島広之

武満徹 弧[アーク]
Toru Takemitsu ”Arc”

2022年3月2日 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル
2022/3/2 Tokyo Opera City Concert Hall:Takemitsu Memorial
Reviewed by 小島広之(Hiroyuki Kojima)
Photos by 大窪道治/写真提供:東京オペラシティ文化財団  

<演奏>        →Foreign Languages
指揮:カーチュン・ウォン
ピアノ:高橋アキ(*)
東京フィルハーモニー交響楽団

<曲目>
武満徹 地平線のドーリア(1966)
武満徹 ア・ウェイ・ア・ローンⅡ(1981)
武満徹 弦楽のためのレクイエム(1957)
-休憩-
武満徹 弧(アーク)(1963-66/76)(*)
  1. パイル
  2. ソリチュード
  3. ユア・ラヴ・アンド・ザ・クロッシング
  4. テクスチュアズ
  5. リフレクション
  6. コーダ:シャル・ビギン・フロム・ジ・エンド

 

この日が武満徹の大作《弧》の「世界初演」日であったとさえ言いたくなる。というのも《弧》第3曲目「ユア・ラヴ・アンド・ザ・クロッシング」が、この日はじめて、武満が当初意図した形で演奏されたのである。武満はこの作品のピアノ独奏のために楽譜「ザ・クロッシング」(別名「ピアニストのためのクロッシング」、註参照)を用意したが、この楽譜はどこかのタイミングで行方不明になった。それゆえこれまでこの作品を演奏したピアニストたちは、武満の指示のもとで別の楽譜「ピアニストのためのコロナ」を代わりに用いてきた。しかし近年、高橋アキ邸と出版元サラベール社の倉庫から相次いで未確認楽譜が発見され、それらが「ザ・クロッシング」であると同定されたため、この度、武満ゆかりの東京オペラシティコンサートホールにて初お披露目される運びとなったのである。
興味深いのは、「ザ・クロッシング」と「ピアニストのためのコロナ」が共に伝統的な五線譜ではなく、図形楽譜(図形や簡単なオブジェによって構成される楽譜)であることだ。仮に新たに発見されたのが五線譜であったとすれば、この日、我々の前に未聴の音世界が展開したと言って差し支えないだろう。しかし図形楽譜の場合、楽譜が変われば音響も変わるといった単純な対応関係はないため、事態は複雑だ。図形楽譜の狙いは、むしろこの対応関係を破壊することにある。そうすることで図形楽譜は、「演奏家は作曲家の指示書たる楽譜を余すところなく読み解くべき」という伝統的な主従関係に異議を申し立てる(もっともこれは比較的新しい伝統である。楽譜の忠実な読みを要求した作曲家として、武満より50歳ほど年長のストラヴィンスキーやシェーンベルクをあげることができる)。それゆえ筆者は以下のような問いを抱いてコンサート会場へ向かった——この日《弧》の「真の姿」が初披露されると言ってもいいのか、あるいは、演奏家たちはどのようにしてこの問いに音楽的にこたえるのか。
前半3曲+後半3曲からなるピアノ独奏と楽器群のための作品《弧(アーク)》。武満は京都にある西芳寺の庭から着想を得て、その編成を考案したと後年語っている。複数の楽器群は庭の「草」「樹」「岩」「砂」に、独奏ピアノは庭を散策する人に見立てられる。問題の図形楽譜「ザ・クロッシング」は、この構想を音楽化する役割を担っており、そのために独特な構造を持つ。多くの場合、図形楽譜の演奏者は、ジョン・ケージによる図形楽譜を巧みに演奏したデイヴィッド・チュードアがそうであったように、図形楽譜に付されたインストラクションを読解し、図形にメジャーをあてがったりして、楽譜が伝える意図の忠実な再現を目指す実用楽譜を用意してから演奏にのぞむ。しかしながら「ザ・クロッシング」はそのような厳密な読みを拒む構造を持つのである。この楽譜は、演奏者が楽譜を「折り紙」することによってはじめて演奏可能な状態になるのだi。結果的に作曲家の支配力が通常の図形楽譜の場合以上に希薄になり、ソリストによる庭園散策は一層自由になる。《弧》を書いた1960年代の武満は、演奏者の創造性を救い出すことを理念としていた——このことを最もよく知る演奏者の一人が、武満と親交を持ち、彼のピアノ作品を網羅した熟練のピアニスト高橋アキに他ならない。
この日に配布されたプログラムノートは、この演奏会が新たな楽譜発見の成果であることを周知した。さらに演奏会そのものが《弧》の名を冠している。皆が《弧》の「初演」を期待したのだ。この状況が高橋の演奏を逆照射するようにひきたてた。この日の高橋はあえて初演者としての地位をひけらかすことなく、武満の庭を逍遥したのである。手に持つ楽譜とは無関係に等しく自由な意志を持ち歩む「個」としてのソリスト、それをゆるやかに囲むオーケストラの庭——彼女は、説得力のあるピアノによって、武満が設定した関係性に輪郭を与えた。そうすることで彼女は武満作品の忠実な提示者たらんとした。
おや?と思われるかもしれない。このような態度が、ともすれば武満の反「作品」理念と矛盾するように見えるからである。だがこの日ピアニストが提示したのは、反「作品」という理念を包摂するものとしての「武満作品」であったのだ。逆方向に発散しかねない力を融和・濃縮するところに、彼女のピアニズムの強さと柔軟さがあらわれた。楽器を通して、音だけでなく理念にも寄り添う。これが至難の業であることは、過去の《弧》の演奏が示している。高橋自身がインタビューで語っているように、「インプロヴィゼーションみたいに」「ガンガンやりすぎ」る従来の演奏の恣意性を彼女は嫌ったのだが、なるほどインプロヴィゼーション風の演奏は、ある意味で武満の反「作品」理念に寄り添うかもしれないが、武満の音の庭を壊しかねない。他方、武満の死後1998年にイギリスで行われた演奏のように武満生前の録音を忠実に再現した場合、演奏者の創造性が壊死してしまう。一方高橋は理念と音響の複合体としての《弧》を現出させたのだ。
たとえば《弧》の第1曲「パイル」——この楽曲には、ソリストがキューを出しオーケストラの活動を規定する箇所がある。そこでの高橋は、庭に無理に手を加えることをせず、草の自然なさざめきを尊重した。あるいは《弧》に散見される鋭利なトーンクラスターは、庭に打ち込まれた杭のごとき残酷さを持たず、池に煌めく光の反射のように映った。そして何より「ザ・クロッシング」が使用されるとき、ここで高橋の自由は頂点に至るが、彼女はまるで武満の庭を案内するように、オーケストラに応えるようなピアノを奏でた。

前半部で披露されたカーチュン・ウォンの指揮ぶりは、緻密でありながら狭隘な印象を与えない、巧みなものだった。一曲目《地平線のドーリア》——雅楽的な息の長い前半部が終了すると、距離をとって配置された二群の弦楽オーケストラが協働しはじめ、空間的にも音響的にも奥行きが生まれる。カーチュン・ウォンの本領は、ここで生成する複層的音楽の支配で発揮された。支配と言っても、彼は弦楽オーケストラを意のままに操ろうとしたわけではない。まるで良き学級づくりを行う教員のように、一人一人の奏者に目配せしながら音を織り合わせていく。これが彼の支配のスタイルである。統御と放任のバランスは、二曲目の《ア・ウェイ・ア・ローンⅡ》でも際立っていた。ともすれば指揮者の手を離れて自ずと進んでしまいそうな推進力を持つこの作品に、ウォンは決して引きずられない。とはいえ音楽の自律した進行を妨げ、枯死させるわけでもない。要所で音を力強く引き締めると、次の小節では一転して音の流れに身を任せる——これを飄々とやってのけるため、音楽造形に嫌味がない。
この夜、二人の音楽家は、どの作品にでもそぐうような浮薄なナラティヴ、あるいは「美」や「感動」によって作品をコーティングすることなく、音の現象に真摯に向き合った。筆者がコンサート会場に足を運ぶときに求めるのは、薄められた/濃縮された日常世界ではなく、また単なる聴覚的(感性的)な慰撫でもなく、その作品固有の世界である。なぜならそこで供されるのは、固有の世界を持つ構造物、芸術音楽作品なのだから。カーチュン・ウォンと高橋アキ、そして東京フィルハーモニー交響楽団は、武満の音楽作品が持つ力を十分に引き出し、その日その場所にのみありえた世界に筆者を誘ったのだった。

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◆編集部より:
今回、本公演について2名のゲスト寄稿をいただいた。新たに発見されたピアノ部分スコアにつき事実確認が必要と判断(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』 p.146掲載の図形がそれかどうか)、演奏者の高橋アキ氏に問い合わせたところ、以下の返信と使用したスコアの一部を添付いただいた。氏の許可を得て、ここに掲載いたします(スコア詳細については本文末註を参照ください)。

編集長・丘山万里子

——-(高橋氏からの返信)——-
146ページに記載されたものは14通りの図形をずらして重ね合わせていますね。
どなたの案かわかりませんが、このままではとても演奏出来ません! 我が家で見つかった楽譜のうちのひとつを添付します。全く何の説明もついていません。コロナのinstructionを参考にしました。
ARCでCrossingを演奏するのは、4分間です。Corona for Strings の説明ではひとつの図形を1分で演奏という指示だったので、Crossingも4枚の図形をピアノ内部に並べて演奏しました。

高橋アキ氏添付のスコア

武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』掲載図形(丘山撮影)

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(註)
i. 「ザ・クロッシング」について我々がこれまで知ることができた主な情報源は、二つ、この楽譜が展示された「四人の作曲」展(1962年)に関する秋山邦晴の批評(同年6月の『美術手帖』に掲載)、そして武満の著作『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社、1971年)に掲載された”Crossing for Pianist”と題された一枚の楽譜であった。
これらを踏まえて提示された川崎弘二『武満徹の電子音楽』(アルテスパブリッシング、2018年)による以下の二つの仮説(p. 530)は、従来の最も信用できる考えの一つである。
①秋山は「ザ・クロッシング」を「ムナーリとの共同作品」として紹介しているが、川崎によれば楽譜にデザイナー杉浦康平の痕跡が観察されるため、秋山が「ザ・クロッシング」として紹介した楽譜は、実際には武満、ムナーリ、杉浦の三名による作品として「四人の作曲」展出品リストで紹介された「munari」であろう。
②『音、沈黙と測りあえるほどに』に掲載された”Crossing for Pianist”は、秋山評で「ザ・クロッシング」として紹介された楽譜と共通点を持っており、それゆえ秋山が紹介した楽譜は、武満と杉浦によって制作された「ザ・クロッシング」であろう。
高橋アキ氏のメールに添付された楽譜写真は、秋山が「ザ・クロッシング」として紹介した楽譜と全く同一ではないが、相当程度類似している。小野光子のプログラムノートによればこの楽譜は少なくとも十四枚あるというので、おそらくそのうち何枚かが秋山評に掲載されたのだろう。今回高橋氏より届いたのはそれ以外の一枚だと思われる。
つまり川崎の仮説②が概ね正しいことがわかったのだが、その制作者が武満と杉浦のみであるのか、また杉浦がどの程度制作に関与したのか、筆者も断定できない。
また、高橋氏が指摘するように、『音、沈黙と測りあえるほどに』に掲載された”Crossing for Pianist”は演奏用の楽譜ではない。筆者には、これは「ザ・クロッシング」を特徴づける二重円の図を12個用いて自由に制作した観賞用の楽譜に見える。高橋氏が示した楽譜は、秋山によれば「折りたたみ自在な紙彫刻に記号が書き込まれており、演奏家はその時偶然ひらかれた形態を演奏する」ための楽譜である。高橋氏から送付された写真画像にも折り目のような跡が見られるが、これが演奏の痕跡なのか、あるいは60年の年月を経て自然についたものなのかを判別することはできない。
なお、小野によれば、秋山評の「ザ・クロッシング」とサラベール社で発見された「ピアニストのためのクロッシング」と題された楽譜は「形状が一致」する。それゆえ筆者はこの二つの名称に有意の差はないと考えている。今日では、秋山評を重視した論者は「ザ・クロッシング」という名称、『音、沈黙と測りあえるほどに』を重視した論者は「ピアニストのためのクロッシング」という名称を用いているのだろう。またこの日、高橋アキがこの楽譜を「折り紙」して用いたのか否かを筆者の目で確認することはできなかった。しかし武満の意志が及ぶ「四人の作曲」展においてこの楽譜は折られた状態で展示されたことや、この時期の武満の創作美学を踏まえれば、やはり彼にとって、演奏者が積極的に参加する「折り紙」作業は重要であったと考えられる。筆者には、この日の実際の演奏形態と無関係に、本文で述べるように高橋の演奏は武満の理念に沿うように聴こえたのである。

(2020/4/15)

関連評:武満徹 弧[アーク]|柿木伸之

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小島広之(Hiroyuki Kojima)
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程在籍。
「客観主義的な作曲(観)」をキーワードに、現代音楽の淵源について考察する。主たる研究対象 はE. クレネク、F. ブゾーニ、P. ヒンデミット。音楽史研究と並行して、今を生きる作曲家の創造力に触れるウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営している。論文に「パウル・ベッカーの客観主義的な音楽美学」『音楽学』第67巻第2号。

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<Players>
Conductor: Kahchun Wong
Piano: Aki Takahashi (*)
Tokyo Philharmonic Orchestra
<Program>
T. Takemitsu :The Dorian Horizon for 17 strings (1966)
T. Takemitsu :A Way a Lone II for string orchestra (1981)
T. Takemitsu :Requiem for Strings for strings orchestra (1957)
T. Takemitsu :Arc for piano and orchestra (1963-66/76)(*)

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