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B→C バッハからコンテンポラリーへ 234 東条 慧(ヴィオラ)|西村紗知

B→C バッハからコンテンポラリーへ 234 東条 慧(ヴィオラ)
B→C -from Bach to Contemporary music- 234 Kei Tojo, Viola

2021年9月21日 東京オペラシティ リサイタルホール
2021/9/21 TOKYO OPERA CITY RECITAL HALL

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 大窪道治/写真提供:東京オペラシティ文化財団

<演奏>        →foreign language
東条 慧(ヴィオラ)
[共演]
牧野葵美(ヴィオラ)*
草 冬香(ピアノ)**

<プログラム>
J.S.バッハ:《無伴奏チェロ組曲第5番》ハ短調 BWV1011から「プレリュード」
リゲティ:《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》(1991〜94)から「ホラ・ルンガ」
J.S.バッハ:《無伴奏チェロ組曲第5番》ハ短調 BWV1011から「アルマンド」
リゲティ:《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》(1991〜94)から「ループ」「ファチャール」
J.S.バッハ:《無伴奏チェロ組曲第5番》ハ短調 BWV1011から「クラント」
リゲティ:《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》(1991〜94)から「プレスティッシモ・コン・ソルディーノ」
J.S.バッハ:《無伴奏チェロ組曲第5番》ハ短調 BWV1011から「サラバンド」
リゲティ:《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》(1991〜94)から「ラメント」「シャコンヌ・クロマティク」
J.S.バッハ:《無伴奏チェロ組曲第5番》ハ短調 BWV1011から「ガヴォット」「ジグ」
藤倉 大:Dolphins(2010)*
プロコフィエフ(ボリソフスキー編):《ロメオとジュリエット》から「前奏曲」「少女ジュリエット」「騎士たちの踊り」「マキューシオ」「バルコニー・シーン」「ジュリエットの死」**
ベンジャミン:ヴィオラ・ヴィオラ(1997)*

 

東京オペラシティのリサイタルシリーズである「B→C」を聴きに行くごとに、筆者はこのB→Cの理念についてそのたびに思いを巡らせる。「B→C」は若手の演奏家の登竜門として機能するのみに留まらず、聴衆に対してもまた、示唆に富んだ内容を提供しているように思う。
それは「バッハから現代音楽まで」という標語に、多くの理念が含まれているからだ。これは「演奏家たるもの、幅広い年代の多様なレパートリーをこなすべきだ」という演奏家にとっての技術的な水準に対する規範を示すだけではないだろう。「バッハから現代音楽まで」の作品を包括的に取り揃えたとき、そこにどういう連関が生まれるかを聴衆は聞き取らねばなるまいし、そのプログラム構成でなにが示せるか、演奏者は試さねばなるまい。それぞれの作品をどうみせるかという切り口の問題もある。
つまり、自分自身を、その楽器を、音楽史のなかに位置付ける感覚が演奏者と聴衆に要求されているといってもよいのではないか。
この日の東条の演奏からは、ヴィオラがソロ楽器としての適性を苦心しながらも獲得していく、そうしたいわばヴィオラから見た音楽史が広がっていった。

前半はJ.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第5番》とリゲティの《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》それぞれの構成曲を交互に演奏する。「無伴奏チェロ」のプレリュードを聴きながら筆者の中で、これはヴィオラにはあまり向いていない仕事ではないか、という感想が湧いてくるのを禁じることができなかった。
それはヴィオラの音色の特徴ゆえのことだ。第Ⅰ線から発される音にまとわった金属音を知覚したとき、これが温かみのある音色だという印象をもてない。他方第Ⅳ線の音には確かに深みがある。けれども第Ⅰ線から第Ⅳ線にかけての音色の幅広さのせいで、「無伴奏チェロ」では低音と高音とを素早く行き来する箇所があるのだから、なんとなく作品全体がまとまりを欠いたもののように聞こえてしまう。
一方リゲティの方はというと、さすが、ヴィオラの特性をうまく活かしているように思える。伴奏とメロディといったような役割の異なる複数のパートをまとめあげる、というよりは、一本の音の線のニュアンスの推移や、スタティッシュな音型の反復、速いパッセージによる運動の軌跡のようなものなどの、一つのパートから発される音の断片が、作品をかたちづくっている。そのため一つの楽器による表現として、不自然なところがなかった。かつ、退屈なところもない。
そして、両作品を互い違いに演奏することの効果というと、これもまた興味深いものだった。両作品は相互に参照しあうことがない。影響関係というのも、聞こえてきそうにない。両作品それぞれの語法が、互いの存在感により相対化されている、というのだろうか。
そうして、舞台上に二人のダンサーを幻視するようだった。バッハの方は宮廷舞踊でリゲティの方はさしずめコンテンポラリーダンスといったところだろうか。一人は靴を履いて折り目正しく、もう一人は裸足で肉体の躍動のまま踊っている。一人のダンサーが、ではない。両者の世界観があまりに遠く隔たっているからである。

休憩挟んで後半は藤倉大の「Dolphins」から。
ヴィオラも二本となると、一気に鳴りがよくなる。近い音域で二本のヴィオラが音を交わすと、それぞれの音色につやが出る。松葉形のクレッシェンド・デクレッシェンドが、そのときどきに現れ出る音の断片に、浮遊し旋回するような運動の感を授けている。対立せず、同化もせず、二本のヴィオラは終始楽しく会話していた。

ピアノ伴奏での、プロコフィエフ(ボリソフスキー編)《ロメオとジュリエット》。ピアノという楽器は偉大だ。これで一気に作品に迫力が伴う。絢爛豪華で華やか。この日のどの作品にも圧倒的に勝る量感に、愕然とするほどだった。正直なところ、「ロメオとジュリエット」の世界に、ヴィオラがどこまで介入できているのかあまり確証がもてなかった。

最後は再びヴィオラ・デュオ作品、G.ベンジャミンの「ヴィオラ・ヴィオラ」。藤倉作品と同じように、2本のヴィオラが互いに似たような断片を交わし合う。だがこの作品では、不規則なアクセントを伴って予期せぬかたちで2本のヴィオラはずれていき、そこから緊張感が生まれている。低音域の2音の「ブンブン」となる断片が印象的に用いられている。展開もはっきりとしている。火を吹くような手数の多い応酬から、フラジオレットで凍てつく静寂へ。最後にはピチカートの合奏も。ヴィオラにできることが目一杯盛り込まれている。

ヴィオラの特性を時に紛らわせ、時に利用し、最終的に乗り越えようとしたりする。そういう作曲家、演奏家、そして編曲家の試みが、実直なまでに伝わってくるようだった。
もし音楽に普遍性があるなら、それは、作曲家の筆の先と演奏家の指先に結実する、音楽にまつわる素材との格闘のことを言うのではないだろうか、と。そんなことを改めて思う。

 

(2021/10/15)

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<Artists>
Kei Tojo(Viola)
[co-starring]
Kimi Makino(Viola)*
Fuyuka Kusa(Piano)**

<Program>
J.S.Bach:”Prélude” from Suite for solo violoncello No.5 in C minor, BWV 1011
G. Ligeti:”Hora lungă” from Sonata for solo viola (1991~94)
J.S.Bach:”Allemande” from Suite for solo violoncello No.5 in C minor, BWV 1011
G. Ligeti:”Loop” and “Facsar” from Sonata for solo viola (1991~94)
J.S.Bach:”Courante” from Suite for solo violoncello No.5 in C minor, BWV 1011
G. Ligeti:”Prestissimo con sordino” from Sonata for solo viola (1991~94)J.S.Bach:”Sarabande” from Suite for solo violoncello No.5 in C minor, BWV 1011
G. Ligeti:”Lamento” and “Chaconne chromatique” from Sonata for solo viola (1991~94)J.S.Bach:”Gavotte” amd “Gigue” from Suite for solo violoncello No.5 in C minor, BWV 1011
D. Fujikura:Dolphins(2010)*
S. Prokofiev / arr. by V. Borisovsky:”Introduction”, “Juliet the Young Girl”, “Dance of the Knights”, “Mercutio”, “Balcony Scene” and “Death of Juliet”, from Romeo and Juliett**
G. Benjamin:Viola, Viola(1997)*