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山下克彦の印刷物|言水ヘリオ

山下克彦の印刷物

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

8月は展示をひとつも見なかった。

郵便受けを確認する、近所に食料を買いに行く、それ以外ほとんど外出しないので、猛暑と言われていることにもピンとこない。テレビもほとんど見ない。ラジオもほとんど聞かない。ネットでニュースやSNSをチラ見して、世の中の限られたほんの断片を知る。iTunesで音楽を聞く。テオ・アンゲロプロス監督の映画を何本かDVDで見る。しおれた切り花をとりかえる。本を読もうと試みる。などなど。えっ、8月にやったこと、これしか、思い出せない。日記を読み返しても、食べたもののメニューとか、洗濯をしたとか、その日測った体重とか、そんなことくらいしか書いていないのである。

でもまあ、普段から同じような毎日を淡々と過ごしているだけなのだし、8月が特別だったという感想もない。テレビとラジオを絶ったことで、羽を擦り合わせて音を出す虫の音に、夜中に耳をすますことができたのは、なによりであった。それに、長い間なかなかできなくなっていた、本を読むということに時間を割くことが家にいるあいだにすこしずつできてきて、さらには、それにともなって、視力が非常に低下していたことに気づき、眼鏡をつくるという、どうでもいい話かもしれないが、そういうことになったのは、ささやかな人生の転機のおとずれとも言える。

家での出来事としては、蜘蛛。暗い部屋でパソコンを前に座っていたら、天井から糸をつたってツーと小さな蜘蛛が垂直に降りてきた。机の上に着地して、しばらくのあいだ動かない。ずっと見ていると、ふと、瞬間移動のように数センチ位置を変え、その目にも留まらぬすばやい移動をまた時間をかけて幾度か繰り返し、やがて片隅に積んである紙の束の隙間に消えた。特殊な装置を用いたダンス公演を見ているみたいで、目の前の机上で起こっていることとはにわかに信じがたかった。蜘蛛はただ動作を行っただけに違いない。

その数日前だっただろうか、郵便が一通届いた。封筒の中には手紙と、ふんわりと三つ折りにされたA4の印刷物が2枚。印刷物は両面がカラーで、片面には一枚の写真が断ち切りで、もう片面には同様の別の写真の上に大きめの白い文字で文が乗っている。「海士淨(文)」「山下克彦(写真)」とある。山下克彦は美術の仕事と鍼灸の仕事をしている「作品にすること、作家であることにこだわらない」という人物。海士淨の文は、山下の作品と人へ向けて書かれていながら、写真と重なり合い、ともに、これを手にするものに働きかける。文のある方が表、とか、裏、とかではなく、表裏がない。巷にみられる印刷物であり、また、そうではない。淡々とした日々に、そのような印刷物が届く。届いたのは印刷物だけではない。こうして8月の日常にA4サイズの穴があいた。

ところで、郵便の送り主が発行した手作りの冊子が手元に2冊ある。そこには、2016年8月28日から9月11日まで行われた「美術を超えて日常へ『よろずの光─面白い』堀尾貞治・山下克彦 あたりまえ過ぎた二人展」での座談会の様子が記されている。穴があいたことをきっかけに、1冊、また1冊と、その座談会で発せられたことばを追っていく。なごやかであり、おそらくはピンと張った、ユーモアあるやりとりが行われたのではなかろうか。5年前。自分の日記を辿ると、一度距離を置いた美術へ、また近づきはじめている形跡があるものの、展示はほとんど見ていない頃。この二人展も、当時の心境としては滋賀まで出かける気にはなれなかった。一方、2021年8月。展示をひとつも見なかったこの月に、この冊子を読んでいる。この冊子、1冊目は2019年、2冊目は2021年の発行。時間を経て、体験したことが湧き立ち、それを残しておく、ということがあるだろう。

さきの郵便が届く数か月前、山下克彦の展示の案内をもらっていた。行きたかったのだが実行しなかった。2021年5月1日から5月30日の開催、後に6月20日まで会期が伸び、さらに7月4日まで、さらにさらに7月19日まで延長となった「『景色を診る 存在と時間の素描』山下克彦展」は、滋賀県彦根市日夏町の、よろず淡日のギャラリーにて開催された。8月になって、郵便が届いて、日常の流れにふと変化の素が投じられ、この展示を見たかった思いにあらためて直面した。展示の案内と冊子と印刷物を何度も手に取り、こころを鎮めている。

下の写真は、山下克彦展で「紙で」と呼ばれたもの。入口柱の影の映る紙、プラスチックの砂時計、大正時代の土人形、堀尾貞治がよく使っていた扇風機のオブジェ、が写っている。延長する会期中に2回展示替えがあり、終いの展示では、古道具や室内の造作の影の出ているところに、白い紙を置く行為が加わったのだという。ここには写真を1枚しかあげないが、会場のブログを遡るといくつか見ることができるのでどうぞ。

 

 

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わりながら、『etc.』の発行再開にむけて準備中。