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コンテンポラリーオペラ 「Plat Home」|田中里奈

コンテンポラリーオペラ 「Plat Home」
Contemporary opera “PLAT HOME”

2021年7月28日 杉並公会堂小ホール 14:00 / 19:00(鑑賞回:19:00)
2021/7/28 Suginami Kokaido Recital Hall
Reviewed by 田中里奈 (Rina Tanaka)
Photos by  進藤綾音

作曲:高橋 宏治
脚本:Stefan Aleksić, Yannick Verweij
演出・照明:植村 真
美術・映像:岡 ともみ
英語ディクション指導:Alistair Shelton-Smith
舞台監督:小田原 築 ㈱アートクリエイション
字幕翻訳:田口 仁
字幕操作:中瀬 絢音
映像操作協力:田川 めぐみ

音響:増田 義基
録音:元木 一成
記録:屋上(郷田 彩巴、小林 舞衣、野口 羊)
ヘアメイク:髙橋 優子
当日制作:丹野 理佐、兼清 颯、饗庭 康太朗
照明協力:小駒 豪、白仁 華子 ㈱ライティングカンパニーあかり組
美術協力:遠藤 純一郎
プロデュース:進藤 綾音
主催:nezumi
助成:公益財団法人朝日新聞文化財団

ソプラノ:薬師寺 典子
指揮:浦部 雪
フルート:山本 英
クラリネット:笹岡 航太
ヴァイオリン:松岡 麻衣子
ヴィオラ:甲斐 史子
チェロ:山澤 慧
打楽器:牧野 美沙

 

2020年にベルギーのゲントで初演され、その一か月後にブリュッセルでも上演されたモノオペラ『Amidst dust and fractured voices』の、日本初演版である。全5場、約1時間にわたる上演では、時間軸を行ったり来たりしながら、架空の地下鉄爆破テロ事件の様相を4名の登場人物それぞれの視点から描いていく。

「モノオペラ」と銘打たれていることからもわかるように、下手にいる6名編成のアンサンブルとは別に、身体を伴った歌手≒演者として舞台上に登場するのは薬師寺典子(ソプラノ)のみであった。ミニマリスティックな舞台には、駅のプラットフォーム然とした椅子、演説台、椅子が並び、さらにその奥に3面の大きなスクリーンがある。歌手≒演者は、場面と場面の間にもあえて退場せず、観客から見える位置の舞台上手で着替え等を行っていた。映像と日本語字幕、照明、衣装や小道具は、場面転換の無い上演をサポートしていた。ただし場面によっては、6名編成のアンサンブルの面々が声で出演することもあった。

『Plat Home』は、いったいなぜ「モノオペラ」として上演されたのだろうか。ある作品の上演について考える時、次の2つのアプローチを私は思い出す。上演時間内に与えられた情報を解釈していくか、制作における実質的な条件から読み進めるか。

後者の情報は、公演プログラムを読めばある程度明らかだ。同作は、Ictusアカデミーの修了公演のためにソプラノの薬師寺典子が、台本のステファン・アレクシッチェと演出のヤニック・ヴェルウェイと共に制作をスタートした1。作曲の高橋宏治が「室内モノオペラという制限」と述べていることからも、モノオペラという形式が制作上の条件のひとつだったことは、はっきりしている2。さらに、この作品が「一人の歌い手が統御不可能な無数の声受け止め発する[ママ]、その緊張感が魅力であり強い批評性として機能してい」るという田口仁の解説3は、予め計画されたスコアと演出の両面を解題した際、上記の問いに対する理想的な回答のひとつだろう。

しかし、ごく個人的な感想ではあるが、ひとりの演者が複数の役を演じるという演出の意図、および、音楽における歌う声と語る声のうち、演劇的発声に接近した後者の機能を、上演時間内に、また終演後からしばらく経ってからも、私は十分に消化することができなかった。本稿では、この2点についての考えを書き留めてみたい。

演出
まず、ひとりの演者が複数の役を演じるという意匠については、登場人物間の分断がそれぞれの所属に依るものではなく社会的な産物であることを暗示しているのではないかと、上演中に私は考えていた。

演劇作品において、演者が舞台袖に退場しない演出は近年よく見受けられる。俳優が出番外でも舞台上に留まったユルゲン・ゴッシュ演出の『ワーニャ伯父さん』(ベルリン・ドイツ座、2008)や、ゲーテの『ファウスト 第一部』をたった3人の俳優で演じたニコラス・シュテーマン演出版(タリア劇場、2011)が代表例だ。これらの意匠はドイツ演劇学でたびたび検討され、行為遂行的展開の一部として理解されてきた。すなわち、それまでの演劇で自明視されてきた、「俳優というひとりの人間が、演劇という枠組みの中で、いまこの役を演じている」という事実を舞台上であえて前景化することにより、観客も俳優と同様、ひとりの人間として、演劇という枠組みの中で観客という役割を一時的に引き受けていることを明示しているのだ4

とはいえ、『Plat Home』の上演に登場する、パーカーのフードを目深に被ったテロリストや、自分の化粧に気を取られてばかりのニュースキャスターのステレオタイプな表象、場面間の演出の欠落を見ていると、前述した解釈は誤りであるように思われた。それどころか、放送局の場面で発話される内容(「世界の裏側から来た狂暴な野蛮人」「これは戦争です」)の意図的な極端さを、化粧に余念のない女性キャスターの独断という形で提示することにより、個人の不安が排除へと転じかねないという、誰にでも起こり得る自己過激化のプロセス5が、むしろ非難されるべき(=共感しえない)個人の問題——今年の春に炎上した「報道ステーション」のCMの中で、若い女性がニュースと化粧水の話題を同列に切り出していたことを思い出させる6——にすり替わっていたとも付記しておく。

にもかかわらず、第5場でテロ事件の死者の衣装や小道具が舞台上に置かれた点からは、それまでの場面における演技の記号性が明らかに活用されてもいた。そう考えると、第5場までの演出も一貫した理念に基づいて設計されていなければおかしいことになる。演劇的な演出として解釈したがる筆者はここで混乱した。

歌う声、語る声
ところで、声に関して気になったのが、救済を示すような〈歌われる〉ダイアローグと〈語られる〉モノローグに彩られた「デッドエンド」(第5場)の見せ方だ。なんだか『ウエスト・サイド・ストーリー』の最後にあるマリアの独白を思い出すと同時に、その機能不全版を見せられているようでぞっとしなかったのだが、『Plat Home』がシュプレッヒシュティンメを用いて、明らかにメッセージ性のある内容を目の前の観客に向けて語り掛ける行為として採用したことの政治性は、改めて問われるべきであろう。

ここで確認したいのは、『Plat Home』が「実在の爆破テロ事件をモデルにした」7と紹介され、また、SNS上の宣伝で2016年のブリュッセルにおける連続テロ事件を題材にしていると、日本公演の前に発表されたことである8

同作がオペラという手法を取った理由のひとつを、『オルフェオとエウリディーチェ』以来、死がオペラの「声」に内在しているとするMichal Grover-Friedlanderの指摘に即して理解しようとすることが妥当かどうかわからない9。だが、少なくとも次の点に注意を払った方がいいだろう。神話の登場人物ではなく、生前は自分の身近にいたかもしれない隣人の死者が、歌手の声というメディアを通じて舞台上に呼び覚まされる時、観客の耳に直接届く声には、死と不可分の神秘性だけでなく、当事者的な緊張も備わっていることに。そして、〈歌う〉のではなく〈語る〉ことが——『Plat Home』では、英語で、しかも台詞の発話に近い形で〈語られた〉ことにより——、その当事者性が、本来ならば高められたかもしれないことに。

ただし『Plat Home』は、当事者の問題に関わるドキュメンタリー・シアター10的な作品ではなかった。だからこそ、この作品の〈フィクション仕立ての当事者性〉とでもいうべき特徴は、いっそう用心して扱われるべきである。なぜなら、ある芸術作品のために実際に起こった出来事を抽象化する際、そこで意図的に取り除かれたり、新たに付け加えられたりした文脈は、受け手の側から改めて検証する必要があるからだ。文脈の移し替えによって生じた作用と問題を抜きにして、この作品を鑑賞することはできない。

死者を悼むという行為
この関連で思い出されたのが、細川俊夫によるオペラ作品『海、静かな海(Stilles Meer)』(ハンブルク州立歌劇場、2016)に対する、「フクシマに関する地震災害の残響(Nachklang)」11という評だ。まだ災禍の残響が谺する状況で、記憶をどのようにして上演するべきなのか。上演される場所は、そこでいかなる役割を担いうるのか。

『海、静かな海』からの連想をもう少し続ければ、同作が初演された翌年には、岡田利規の演劇『NŌ THEATER』(ミュンヒナー・カンマーシュピーレ、2017)——奇しくも『Plat Home』と同様、地下鉄に生と死の狭間が現前した作品だ——が世界初演されて話題を呼んだ。さらにその翌年、細川作曲のオペラ『地震。夢(Erdbeben. Träume)』(シュトゥットガルト州立歌劇場、2018)が能楽からの影響を明言した12。批判的な見方をすれば、それは複式夢幻能の折衷主義的なつまみ食いのようにも思えるし、オリエンタリスティックな儀礼への回帰衝動と明らかに不可分ではない。しかし、少なくとも能楽というキーワードが、最近ここまで頻繁にドイツの劇場に登場する理由のひとつには、舞台上で集団的なトラウマとどのように向き合い、そして、そのような記憶を他者と共に悼む方法を切実に必要としてきた社会的な背景が連想される。

社会的背景という点で言えば、『Plat Home』の上演に使用された映像(例えばニュース映像)や演者の振舞いの端々から示される、日本の都市部にありがちな情景は、日本で上演されることをはっきりと意識している。翻ってそれは、ブリュッセルの連続テロ事件とは異なった文脈を私に否応なく惹起させもした。1995年の地下鉄サリン事件である。もし『Plat Home』で〈地下鉄テロ事件〉が普遍化されたことで、むしろ逆に、この作品の観劇体験が、上演に居合わせた人物(例えば私)の経験を通して特殊化することを免れないのだとしたら、それはこの作品の意図していたことだったのだろうか。

そもそも、テロ事件を普遍的に描くことは可能なのだろうか。国際社会で合意の取れた「テロリズム」の定義は今日もなお存在しない。くわえて、自分がテロリストの加害者/被害者になり得るかという当事者性に関する問いの背後には、つねに不可視化され、黙殺され続けてきた、社会それぞれの構造に特有の問題が横たわっている。その文脈を取り除かれ、もはや誰でもなくなった加害者と被害者に当事者性を感じることはできない。『Plat Home』の意図しているテロ事件の寓意化の方法には、いくつかの先例に鑑みても13、疑問が残る。それを超えて響く音楽性がもしあったとしても、煉獄における罪無き少女とテロリストの対話という終わり方がもたらすカタルシスは、問題解決の暫定的な宙吊りという印象は拭えなかっただろう。

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1 薬師寺典子「《PLAT HOME》:ベルギー初演から日本公演まで」より(『Plat Home』の公演プログラムに掲載)。公演プログラム(全18ページ)は無料で配布され、作曲、歌手、指揮、演出・照明、美術・映像のコメント、田口仁による解説、さらに全5場の台本ほかが掲載された。
2 高橋宏治「作曲家ノート」(公演プログラム掲載)。
3 田口仁「無数の声たちとその記憶の場所――《Amidst dust and fractured voices》から《Plat Home》へ」(公演プログラム掲載)。
4 エリカ・フィッシャー=リヒテの『演劇学へのいざない(Theaterwissenschaft: Eine Einführung in die Grundlagen des Faches)』(2010)の訳書(2013、pp. 43-6)を参照した。
5 この問題に関しては、大治朋子の『歪んだ正義――「普通の人」がなぜ過激化するのか』(毎日新聞出版、2020年)に詳しい。
6 テレビ朝日の報道番組「報道ステーション」のウェブCM。2021年3月22日にYouTubeとTwitterで公開されたが、批判を受けて24日に削除された(東京新聞「「女性蔑視」指摘受けた報道ステーションのウェブCM、テレビ朝日が取り下げ」、2021年3月24日)。
7 NEZUMI「7/28(水) 全2回公演 オペラ《PLAT HOME》公演情報」
8 例えば、岡ともみ(@tomomioka_znk)の2021年7月24日のツイートにおける発表にみられた。
9 Grover-Friedlander, Michal, Vocal Apparitions: The Attractions of Cinema to Opera, Princeton University Press, 2005.
10 ここでの「ドキュメンタリー・シアター」の意味は、ドイツ演劇における記録演劇/ドキュメンタリー演劇、すなわち、「実際に起きた/起きている事件や出来事を題材にし、その記録をテキストとして活用したり、ひいてはその事件や出来事の当事者本人を舞台に上げたりする」特徴を有し、「観客は傍観者ではまったくなく、実際の近過去あるいは現在進行中の事件に立ち会う当事者としての性格を帯び」た演劇作品を指すものとする(萩原健『演出家ピスカートアの仕事―ドキュメンタリー演劇の源流』森話社、2017年、pp. 314-5)。
11 BR-Klassik, “‘Stilles Meer’ in Hamburg uraufgeführt“, 25. Januar 2016.
12 3sat, „Erdbeben.Träume“, 3. Juli 2018.
13 ギリシア神話の文脈を借りて地下鉄サリン事件を描いたNODAMAPの『ザ・キャラクター』(2010)や、ISISによる自爆テロをギリシア悲劇になぞらえた Stefan Hertmans の『モーレンベークのアンティゴネ(Antigone in Molenbeek)』(2017)で採用された古代ギリシア由来の枠の強度は、議論の余地は大いにあるにしても、非常に興味深い。

関連評:コンテンポラリーオペラ 「Plat Home」|西村紗知

(2021/8/15)