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5月の3つ目の日記|言水ヘリオ

5月の3つ目の日記

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

 

2021年5月1日(土)
昼過ぎに目覚めて銀座へ向かう。途中、駅構内の立ち食いでカレーライスを食べる。空腹を感じて展示を見る集中力を欠いてしまうのを避けるため。
夜、帰るころには、非常に激しい風と雨、地下鉄の駅まで傘をさしてもびしょ濡れになる。家に着いて服を脱ぎかわかす。かばんの中もけっこう濡れていて、もらってきた案内状などもふにゃふにゃに。
今日見た展示「小林聡子 コクーン」についてのメモ。

かたちの変化 つくっているうちに自分に近くなる
繭の格子
格子
やすり
油絵具の質感
なんどもやする
ボール紙
紙の地色
紙のつなぎ目を埋める
自然と人工のあいだ?
壁の白を影が照らす
格子 網目
決めた方法 手による作業 定規で線を引くのではなく自分のかたちになる
正面
眼のピント
絵が浮いている

作者から聞いたことと、自分のことばとが混ざっている。

 

5月7日(金)
新宿駅から特急で石和温泉駅へ。座席はがらがら。1時間半ほどで到着して、駅前のファーストフードの店で食事する。ギャラリーまでのんびりと歩く途中、何軒か温泉旅館が。日帰り入浴休止中、の貼り紙。短い橋を渡り、その先の水路に沿ってしばらく進む。無人の建物の部屋から屋外へと電話線が延びている。埃だらけの電話機がテーブルの上に置かれ、隅には打ち捨てられた衣類と紙の束が野ざらしになっている。会場に着くまで、誰ともすれ違わない。
ギャラリーに入ってすぐ左手の壁にある白黒の写真を見る。その場その場で見かけるような、とりたてて珍しいわけではない、そんな様子が切り取られている。カメラはいつも持っていて、目の前のものを撮っている。そう福田は語る。特別な瞬間ではない、普段の風景。
「中庸」ということばをこれまで使ったことがなく、意味を考えたこともない。自分にとってはいまのところ馴染みのないこの語を握ったまま、しばらくその写真の前でものおもいに耽る。そのほか、ぼやけた景色の手前の網戸、壁に映った影など、これらはかつて自分も見たことのある風景なのではなかろうかと錯覚する。
台には、小さな彫刻が並んでいる。吉田の作品を結局一度しか見たことがないはずなのに、ここにあるものを目にしたことはないはずなのに、既視感があり、閉じていた扉が再び開いたような気持ちになる。トタンを素材としたものが多く、ほかには針金、石膏、ゴムなど。ホームセンターとか金物屋とかで見かけるようなものでつくられている。素材に潜在していたものが作者の術でこうなっている。その様子を近づいてくまなく視線でなぞっていく。細部まで慎重に造形されていたことを確信する。
目の前にあるものが視界に入ってゆらいでいるとき。生きている時間が流れている。その時間にもう飽きてしまっても、視界の中にある支点を見つけて、いつまでもただ見つめてやり過ごすしかない。やがて夜が来て、そこに窓ガラスがあったことに気づくだろう。眠っても、何度も目を覚ましてしまう。あたりがまた明るくなるのをおそれている。
帰りは高速バスでバスタ新宿着。帰宅して食事しながらブラウザの検索窓に「中庸」と入力し、今日のことを思い返す。

 

 

 

『中庸』吉田哲也×福田昌湜展
iGallery DC
2021年4月29日〜5月16日
http://igallery.sakura.ne.jp/dc97/dc97.html

●吉田哲也「untitled」 トタン 9×7×2cm(上の写真)
●福田昌湜「untitled」 アーカイバルピグメントプリント 250×375mm(下の写真)

 

5月8日(土)
「小林聡子 コクーン」再訪。ボール紙を格子状に組み合わせて、塗った油絵具が乾いたらやすりで削りまた絵具、を繰り返してつくられた作品が6点、紙に水彩で細かな格子を描きその中を塗るという作業の積み重ねでできている作品が2点。色彩はどちらも水色、と言っていいのだろうか。水彩作品の方がややあざやか。
ボール紙の作品の色味には微妙な個体差があるように思われる。柔らかな素材に何度も作業を繰り返すため、整然としてはいるのだが、わずかに、ゆるやかにゆがんでもいる。その過程を作者は「自分に近くなっていく」という。作品の背面がすこし濃く見えるのは、画廊の白い壁に格子の影が映ってそうなっている。格子の中に収まりたいような触感的な感覚が起こり、繭を連想するが、そもそもこの展示のタイトルに「コクーン」とあるのであった。表面や断面にやすりでけずってならされたような形跡がある。壁、作品、自分の位置が直列になるよう正面で目を開いていると、やがて遠近感を失い、影などもすべて平面上に描かれたように見えてきた。まばたきをして焦点をあわせようとしても、一度そう見えてしまうともう戻らない。離れて、斜めに移動してみたりする。
水彩の作品では、紙に描かれた格子状の小さな四角の内側が、一つ一つ、より薄い色で塗りわけられている。水と絵具の配合の差異で、個々にわずかな色の濃淡があらわれ、画面全体が構成される。精緻な手描きではあるのだが、定規で描いたような線とはまったく異なっている。壁からすこし浮いた状態で展示されている。
規則的に整列している状態が手作業で実現される。その際、微細なずれやゆがみなどの変形や不揃いが生じ始めて、ある時点で保たれる。ある時点とは、あらかじめ設定された目標の達成ということではなく、「自分に近い」という感覚の実感だろう。作業を進める上での偶然性やなりゆきにゆだねる部分があっても、どういうやりかたで何をするか、どこで終わりとするかなどを決め、作業をしていくのは自分である。そして、「近い」とはわずかでも離れているということであり、だからこそまたつくる、ということになるのかもしれない。

 

 

小林聡子 コクーン
藍画廊
2021年4月26日〜5月8日
http://igallery.sakura.ne.jp/aiga838/aiga838.html

●小林聡子「untitled」 ボール紙、油彩 175×245×30mm

 

5月19日(水)
立ち食いそば屋で食事するときには、とにかく腹を満たしておこうという気持ちとともに、昔から馴染みのあるこの立ち食いという形式が今も続いていることを確認したいという気持ちがすこしある。
銀座のギャラリーで舟越直木の展示が行われることをインターネットで知り、楽しみにしていたのだが、3つの会期別に展示を変えて開催されるその1回目をうっかり見逃してしまった。けっこうがっかりした。今日、2回目の会期の展示に来て、入口から順に一点ずつ、それから、作品を縫うようにあちらへ行ったりこちらへ行ったり、舞うように時間を過ごしたのである。絵にはなんらかの立体らしきものが描かれている。片側が閉じていて片側が開放されているドームのような形態、あるいはハートのかたちなど。光があたってできる影はなく、物体が、その存在する気配を纏っている、そんな描かれ方をしているように思える。描いたのか描いていないのかわかならい、余白かと思えるところまで、紙の隅から隅まで辿っていく。作者の手の感触をなぞる。台座に乗っている彫刻が2点。その周りを巡ったり、彫刻越しに絵を眺めたりを繰り返す。ただ、そうしているだけでよかった。

 

 

作品集『舟越直木』求龍堂 刊行記念 舟越直木Ⅱ 1986–2003
ギャラリーせいほう
2021年5月10日〜5月20日
https://ameblo.jp/seiho-g/entry-12673083964.html

●左:「Drawing」1986年 91×78cm パステル・鉛筆・色鉛筆・紙 なびす画廊グループ展1987年 個人所有
●中央:「Al-Erg(アル・エルグ)」2001年 40×17×17cm ブロンズ なびす画廊2001年個展 個人所有
●右:「Untitled」1988年 163.5×78.5cm パステル・鉛筆・色鉛筆・紙 なびす画廊グループ展1988年 個人所有

 

5月25日(火)
3回目の会期の舟越直木の展示。年代を追ってきて、これで最後となる。前回展示されていた作品に見られる形態は、ドーム型であったり、ハート型であったりしたのだが、今回のものははっきりと人の胸像あるいは頭部のかたちをしている。そしていくつかの作品タイトルには「マリア」の文字が見える。絵の表面に日付まで記されている作品が約半数。顔が描かれているものもあり、目を合わせるが、絵の中の目は沈黙している。女性やマリアの絵にはほとんどの場合頭髪が描かれている。そう見えるしそうなのだろう。ところが、近くに展示されている、頭部を思わせる変形した長球状の彫刻をずっと眺めているうち、髪の毛と見えているのは、頭から流れ出るなにかであるように思えてきた。自分が作者の個人的な領域に踏み入ってしまったのではないかという気持ちが湧いてきて落ち着かない。超越した存在のようでもあり、祈りを捧げる対象と感じられるこれらの像に囲まれて、作者のいないこの地で、聞こえないざわめきの中で、それでもたたずんでいる。

前略 このあいだは偶然お会いでき嬉しく思いました。作品を持たせていただき、ありがとうございました。手に乗せてくださった重さをまだ覚えています。小さめの作品とはいえ、ブロンズはけっこうずっしり重かったです。いつもバッグに入れてるのでしょうか? ところで先日、古書店でお見かけしました。座って画集をご覧になっていて、とても集中していらっしゃるご様子だったので声をおかけしませんでした。またお会いすることができると思います。草々

 

 

作品集『舟越直木』求龍堂 刊行記念 舟越直木Ⅲ 2004–2016
ギャラリーせいほう
2021年5月24日〜6月3日
https://ameblo.jp/seiho-g/entry-12675638731.html

●「女性二人像」2012年 114×170cm 木炭・紙 ギャラリーせいほう2012年個展 個人所有

(2021/6/15)

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わっている。