東京シンフォニエッタ 第47回定期演奏会|西村紗知
東京シンフォニエッタ 第47回定期演奏会 作曲家の横顔 エリック・モンタルベッティ
Tokyo Sinfonietta the 47th Subscription Concert
Portrait of Composer Eric Montalbetti
2020年7月9日 東京文化会館小ホール
2020/7/9 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:東京コンサーツ
<演奏> →foreign language
指揮:板倉康明
演奏:東京シンフォニエッタ
<プログラム>
エリック・モンタルベッティ:
《愉快に生きるための地上の広大なる空間》アンサンブルのための(2005)
《5つのフォルマント》クラリネットのための(1995)※日本初演
クラリネット:佐藤和歌子、西澤春代、川越あさみ
《都市へと開ける同時的な窓》ソニア&ロベール・ドローネーを称えるための4景もしくは5景からなるシンフォニエッタ(2019年共同委嘱作品)
※部分初演(1,3,5楽章のみ演奏)
ここ数ヶ月の状況で外出やコンサートの開催がままならず、やむを得ず自宅の乏しい音響設備でやり過ごすと、どうも、音楽作品の内容そのものも媒体に左右されうるという、普段なら当たり前でどうでもよいことが、感覚的にわからなくなってしまう。音楽だってコンサートという舞台芸術のかたちをとるものならいくぶん視覚的で、オーディオルームにいたらそのことがわからなくなる、という指摘は特になんの面白みもない。重大なのは、知覚のうつろいや誤りやすさに向き合う機会が無くなってきているということで、これはそろそろ自覚するに如くはないだろう。
こういうのは音楽だけの問題ではなく、もっと、生活全体の知覚の問題だ。自宅から出られないと、色彩を知覚する能力が液晶モニターに依存する。それだから、やっと自宅から出られたとき、本屋に並んだ新刊雑誌のカラーページにびっくりしてしまう。その色自体はもちろんずっと前から知っている。だけど、色がそのように表現され、こうして知覚できるのだ、ということに驚くのである。各々の質感をもつ紙の上で、網点をなすインクの群れが、調和したり、もしくは、あやうく創り手や被写体の意図を取り違えそうになったりもする。
私の知覚がうろたえる。音楽の知覚も、視覚がグラビア印刷に驚くのと同じように、いよいよ衰え、過敏になってすらいる。そうしたら、やはり人はコンサート会場に行くべきだろう。もちろん作品を聴きに行くためではあるけれど、自らの知覚のために。その瞬間ごとに、なにがしかの一進一退があらわれている。それらはすべて、私の知らないところで起きた、知らない出来事。毎日同じ媒体に頼っていたら、そんな未知の瞬間を取りこぼしてしまいそう。
今回、東京シンフォニエッタの定期演奏会で紹介されたエリック・モンタルベッティは、作曲家としてのキャリアを歩み始めてそれほど日が経っていないということもあり、世界的にもあまりその存在が認知されていないとのこと。そのスタティックかつ色彩豊かで彫塑的な音響体は、ブーレーズ近辺のフランス現代音楽の後継といった印象を与えるもの。そしてまた、純粋抽象絵画のような趣もあり、この日の作品はどれも、動きや息遣いなどの時間的なうつろいを閉じ込めて、立体空間に拡散していったのである。
中性的で透過/等価な音の群れ。《愉快に生きるための地上の広大なる空間》は、木管の高音部分のぶつかり、弦やハープも色彩を加え、クラリネットも点描を行う、そんな場面から始まる。始まりは少し雑然としている。だが進むにつれ、ヴァイオリンやコントラバスをはじめ、各々の音価が長くなり、つまり点は面となったので、精緻な音のパズルが動き出す。弦のトレモロの上にクラリネットやピッコロが遊ぶといった、音色による対比はあるものの、展開が厳しく切り替わるようでもない。むしろ、その一瞬ごとの、パズルのピースがはまったりずれたりする様相を、知覚するようでなくてはならない。一つ一つの音のかたちは抽象的で中立的でも、組み合わせ次第で、波にも渦にもなれる。後半に向かい、上行形、下行形といった順に、同じような動きをそれぞれの楽器が受け渡すことが増える。しかしこれは、切迫感の欠いたメトリークゆえ、流れ去るようでない。ただ、切迫感の無さはそのままネガティブな印象に帰結しない。色香のない、人間ではないなにかもっと超越的な存在感を醸し出す。
クラリネットのための《5つのフォルマント》もまた、作品全体としてはソリッドな風体。これは、3人のクラリネット奏者が、舞台を降りたすぐのところで、それぞれ上手・下手・センターに分かれて演奏された。まず下手から。跳躍が多くときどき休符を挟むフレーズが、音域を変えて推移する硬質な断章。次に上手は、対照的に動きがゆるやかで、高音を張り上げる。この後同じように再び下手と上手が応答し、その後真ん中が演奏を開始する。これは最も音価が細かく速い。同音が続くと思えばたちまち重音のロングトーンも。しかしすぐに転じて即興的な断片。こうしたころころ変わる性格そのままに、最後は息の音を鳴らして終わる。順に性格の異なる断章を演奏するかたちで、ソロを順番に回す形式。それは3体の無生物。3人に求められているのは、個人個人の表情ではなく、あくまで断章の運用だったように思う。奏者それぞれに対する見立てや、音による比喩のようなものは極力排除されている。純粋な運動の軌跡としてのフレージングが現前する。音の跳躍が多くアクロバティックなところでは、それでも熱いものがあったものの、肉体らしさはなく凍えた固体のまま保たれている。異形のものへのロマンティシズムに浸らない静謐さが魅力的。
《都市へと開ける同時的な窓》では低音金管楽器、鍵盤打楽器が加わったことで、よりスケールの大きな曲想に。副題にふさわしく、確かに絵画のよう。なんとなしに、パウル・クレーによる音楽への言及を伴った絵画作品を思い出すようでもあった。絵画から音楽への接近を、モンタルベッティは反対に音楽の側からやろうとしたのかもしれない。つまり、具象から抽象へのアプローチを、今度は抽象の側から、そのまま具象を目指すのではなく、その具象から抽象へのアプローチを模倣することで、イメージとしての抽象と実際の音の抽象とを、重ね合わせていくようなスリル。結果的に抽象に留まるのだけれど、音色の選択や音型の組み合わせ方に、こういうプロセスが連想される。
書法や形式感は最初の《愉快に生きるための地上の広大なる空間》と似通っている。ただ、ピアノ、ハープ、マリンバ等の減衰音の存在感がそれよりも強い。カーブを描くような連続体はかなり控えてある。それと、時折聞こえてくる、神秘和音ではないが構成音相互の音程間隔の広い和音も印象的。これも音楽の連続性をもたらすのでなく、その都度の瞬間に力を与える。躍動感は抑えられ、音の重ね方はポリフォニーをできるだけ回避し、飽くまで平面的な仕上がりを目指しているようだった。
一番最後はゴングで閉じられる。今回は都合により2,4楽章が演奏されなかった。全楽章通して演奏されたときに、そこにどういったアンサンブルの対比が生まれるのか、聞けなかったのは惜しい。
演奏会の最後に、板倉康明音楽監督から聴衆に向けて御礼の挨拶があった。その中で、今この舞台上を各々のスマートフォンで写真に収めてもよいという提案があったので、聴衆はめいめいシャッターボタンを押したのだった。
演奏会という媒体は弱い。だがそこでの経験は、人々にとって何にも劣らない強さをもつだろう。手元に残った写真を見ながら、この日の夜に流れ去って二度と戻ってこない音楽のことを思う。
(2020/8/15)
関連評:東京シンフォニエッタ第47回定期演奏会|齋藤俊夫
—————————————
<Artists>
Conductor : Yasuaki Itakura
Ensemble : Tokyo Sinfonietta
<Program>
Eric Montalbetti:
Vaste champ temporal à vivre joyeusement pour ensemble (2005)
5 Formants pour clarinette (1995 Japanese Premier)
Clarinet : Wakako Sato / Haruyo Nishizawa / Asami Kawagoe
Fenêtres simultanées sur la ville : Sinfonietta en 4 ou 5 tableaux en hommage à Sonia & Robert Delaunay (2019 Premiere, Excerpts)