Menu

「集団即興における視聴覚の分断と再統合」について(その他諸々)|西村紗知

「集団即興における視聴覚の分断と再統合」について(その他諸々)
Talking about ‘Fragmentation and Reintegration of the Audiovisual in Collective Improvisation’, and more

People, Places and Things 在宅コンサート6 「集団即興における視聴覚の分断と再統合」
2020年5月30日(土)19:30開演
2020/5/30 (Sat.) concert starts at 19:30
* https://www.youtube.com/watch?v=OQS611LeyZA&feature=youtu.beにアーカイブあり。

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)

<演奏>
田上碧 (voice)
坂本光太 (tuba)
本藤美咲 (baritone sax)
宮坂遼太郎 (percussion)

企画: 細田成嗣
フライヤーデザイン: 内田涼

<プログラム>
1. 視覚の接続/聴覚の切断
2. 聴覚の接続/視覚の切断
3. 視聴覚の再統合

芸術は今日、潜在的なスケープゴートである。大衆が日頃密かに抱いている、何かわけのわからないタイプの芸術に対する敵対心は、公的な助成金の受給資格をその芸術が獲得した途端、白日の下に晒されるだろう。ジャンル、商業性の有無、質の良し悪しは問われない。細かな差異について語られる機会は、当分ありそうもない。
既存の芸術ジャンルを越境し、あるいは現実と審美領域を横断することで、多くの場合反体制的な表現に行き着く、そうした孤高の存在たらんとする芸術も、もちろん例外ではない。平等の精神を理念にもつ市民社会において、助成金の対象は言わば警察化した眼差しに常に晒されることとなるだろう。「どうして反体制的な表現を行っているのに体制側から助成金を得られるのか」という問いは、ナイーブであるがために一層厄介だ。「反体制的な芸術もまた社会にとって有益だからだ」といった論旨で説き伏せることができるくらいなら、最初からそのようなナイーブな問いは発せられないだろう。この問いには真っ向から答えてはならず、問いを解きほぐす方向に考えねばならない。例えば「どうして芸術表現と金銭とを切り離して語ることができないのか」と問いを返してみる。
実際、芸術と何かを切り離して語るということ自体、多くの困難を伴う。金銭はさておき、価値や権威や、観照者の欲求や、イデオロギーやあらゆる現世的な事柄などと。しかし残念なことに、それらの峻別に四苦八苦することは、ナイーブな敵対心の関心事ではない。おそらくすぐに次のような返答がくるだろう。「芸術の専門的な話など皆が皆わかるわけない」「助成金の使途について点検するのは市民の義務だ」。正しい。ただ、芸術の話ではないというだけのこと。
公的なものであれ私的なものであれ、芸術がこのコロナ禍においてなんらかの助成金を得られるかどうかは、なるほど確かに死活問題だ。だがそれ以上に重要なのは、ナイーブな敵対心との対峙を潜り抜けることではあるまいか。ナイーブな敵対心はまたの名を、小市民道徳と言うかもしれない。本来なら、自分たちに関心をもたない人間をも感化させられるというのは芸術の誉れだが、今の状況では、それこそ民度の高いとされる人々に対しては、相当厳しいように思う。活動再開に際し「特定の人々だけ補償を受けるのは不平等だ」「破産した人もいるのに」といった反応がないのを願うばかりである。こういう反応は、昔〈春の祭典〉の初演の際に引き起こされたというあのスキャンダルとは、もはや全くもって無関係だ。「芸術とはなにか」という芸術による自己批判、あるいは芸術が社会に対してもつ批判的機能は、芸術に対して社会がもつ一定の尊敬の念を前提としているのだから。
コロナ禍においてはあらゆる思念や言説が敵対心として包摂され、敵対心の先鋭化は留まることを知らない。学校や会社に行けず、SNSの仮想社会で時間を過ごす者は、そこで多くの人種差別批判や現政権の在り方をめぐる攻防を目にすることとなる。自分たちの社会のことを自分たちで考えることは、とりもなおさず、市民社会の理念に照らせば正しい行いだ。おそらく、無関心でなければないほど正しい。どこか一か所に寄り集まることを禁じられた人々にとって、コミュニケーションはますます一面的なものに切り詰められていることもあり、市民社会に無関心でいることは非常に難しい。今となっては自分たちの正義を確認しあうことが、まるでコミュニケーションのすべてであるかのようだ。
そうして、芸術は今日なお一層のこと、潜在的なスケープゴートである。とりわけ、権威とかかわりをもたないマイナーな芸術ジャンルは、市民社会の敵対心の対象となったら、ひとたまりもないだろう。まさに今日、市民社会に対して果たしうる役割が高まっているのにも関わらず、である。

たまたまツイッターのタイムラインで見かけた、「集団即興における視聴覚の分断と再統合」と題された即興音楽のリモート・コンサートを聞いた。新型コロナウイルスのパンデミック下で実施されているリモート・コンサートのプロジェクト「People, Places and Things」による演奏会企画だ。
即興音楽というジャンルの来歴を、私は知らない。普段上演される会場に足を運んだこともなければ、どういうアンサンブルが理想的なのかもわからない。それでも、作品概念を足枷として退け、その結果剥き出しとなった音の関係性をラディカルに提示する演奏行為は、市民社会により措定された正義に寄り添いながら型通りのコミュニケーションを取り続ける者に対しては、一定の批判的機能をもちうるだろう、などと思う。
このリモート・コンサートは、それぞれ15分程度の3つのセッションからなる。この3つのセッションでは、リモートという条件を生かした、異なる制約が設けられているようだった。1つ目は、オーディオを互いに切断した状態で、映像に映る演奏風景をたよりに展開されるアンサンブル。2つ目はその逆、3つ目はオーディオも映像もつながった状態。それぞれの制約のもとでどういったアンサンブルが生じるか検証する、実験的な企画だ。
先にこの実験に対する所感を述べてしまうと、「1. 視覚の接続/聴覚の切断」は、やはりどこか遠慮がちなアンサンブルとなったという印象。演奏者同士の役割の入れ替わりなど、流動的で魅力的な関係性が生じたのはやはりどうしても「3. 視聴覚の再統合」で、パーカッション奏者の視覚的な遊びが印象的だったのが「2. 聴覚の接続/視覚の切断」だった。制約によりアンサンブルがドラスティックに変貌したかと言うと、そうとは言えなかった。
それより、どの瞬間にどういう音が鳴らせるかというのは、結局のところ楽器の特性に左右されるようでもあった。音の乱交のような音響のなかにも、ところどころ楽器の特性という伝統的な範疇が垣間見えるようで、そういう瞬間が最もスリリングだった。例えば、3つ目のセッションでインパクトドライバーに持ち替えたチューバが、それでもどこかベース音の役割を感じさせるところがあったこと。また、パーカッションの徹底した異物としての振る舞いが、そもそも伝統的にパーカッションには非楽音としてアンサンブルの他の成員と張り合うようなところがあったのでは、と過去のパーカッションの有り体を思い起こさせるような瞬間。

1. 視覚の接続/聴覚の切断
喉から絞り出す、いびつなボイスの持続音から、おもむろにチューバの側に置かれた2台のメトロノームが、時を刻み始める。聴覚が切断された状態で、このメトロノームは時間を視覚化している。チューバとメトロノームがベースになって、他の3人は装飾音を添えるような役割を演じている。チューバの吹く音はCEFGH のうちから選択されている。沖縄音階とも言えようか、この音の選択によりチューバの特性から西洋音楽らしさが脱色されている。このことで、パーカッションのでんでん太鼓とも、ボイスの喉をしめつけるような小さなシャウト、バリトンサックスのかすれたスケールとも調和する。
あまりこのセッションには展開がない。その代わり、チューバが単独で変奏を行う。CEFGHの音階を、最初は短く区切って、次第に長音にしてみたり、それから更に音価を短縮したり、またカンタービレで吹いてみたりして。それでもパーカッションの手数が増えると、それぞれの偶然的な音の発生が、急に音楽らしくまとまる。ボイスのスキャットとシャウト、バリトンサックスの細かく震えるような持続音を、コンガ(?)のリズムが突き動かす。そうこうするうちに15分経過で終了。チューバとメトロノームが全体の骨格をつくり、ニュアンシーで不確定なことは他の3人がやる、という構造だった。

2. 聴覚の接続/視覚の切断(19:55~)
演奏者は座る向きを変えたり、目隠しをすることで、互いの姿を目に入れないようにする。
今度は、全体的に音の持続が増える。特に、バリトンサックスとチューバのそれぞれの仕方で繰り出される持続音は掛け合いのように関係し合い、油断したら、聞き分けられなくなりそうなほどだ。バリトンサックスの高音は、ボイスともよく混ざる。ふいに鳴り出す、カリンバ。この瞬間4つの発音体は収斂した。だがこの均衡は、パーカッションが自らの楽器の上にマトリョーシカのような人形を広げだすことで、破られる。そこに更に、周波数の合わないラジオも加わり、パーカッションが主役に躍り出る。パーカッション奏者はガムテープをちぎり、猫のぬいぐるみを採寸し、傘を開く。他の3人が似たような質の音で応答し合っている間に、である。結果的にこのセッションは、視覚的要素を積極的に音楽に引き入れようとしたパーカッションの独り勝ちだった。

3. 視聴覚の再統合
ボイスの高らかなソロからはじまり、パーカッションの、なにか缶のようなものをスティックでたたく音がその伴奏となる。すぐにバリトンサックスと、チューバ奏者の鳴らすインパクトドライバーの音が加わる。華やかな音響でどことなく終楽章めいている。インパクトドライバーの機械音はC付近に留まり、バリトンサックスの音程に寄り添い続ける。パーカッションはライトを着けたり消したりする。アンサンブルをリードし続けるのはボイスだ、と思いきや、パーカッション奏者がドライヤーのスイッチを入れると、またアンサンブルのバランスが変容する。バリトンサックスが今度は息の圧を強め、ドライヤーの音色に接近するのだ。チューバとボイスもすかさず加わる。またもや4つの音響体の収斂。だが、3人のアンサンブルを背景に、パーカッション奏者は国民年金保険手帳の朗読をはじめる。チューバはおもむろに最初のセッションで用いたCEFGHの音に戻る。どうもアンサンブルの局面を変更させることができるのは、チューバとパーカッションのようである。この後は、それぞれやり残したことを消化しつつ徐々に収束に向かう。パーカッションの鳴らす細かいリズムにチューバもまた細かい音価で応答する。また、ボイスとバリトンサックスもそれらを模倣する。パーカッション奏者が手元にあるラジオのノイズを鳴らし、この電源を切ることでセッションは終了する。

今の状況がおさまったら、即興音楽の現場に足を運んでみたいと思った。それまでにどうか、この音楽が鳴りやむことがありませんように。
周囲に左右されずに自分たちの取り組むべきことを実行し続ける。それだけで、芸術には社会に対する批判的機能がある。コロナ禍においてはほとんど誰もが、自律的ではいられないのだから。

(2020/6/15)

<Artists>
Aoi Tagami (voice)
Kota Sakamoto (tuba)
Misaki Motofuji (baritone sax)
Ryotaro Miyasaka (percussion)

Organized by Narushi Hosoda
Graphic Design by Ryo Uchida

<Program>
1. connection of visual/disconnection of audio
2. connection of audio/disconnection of visual
3. reintegration of audiovisual