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東京シンフォニエッタ 第46回定期演奏会|西村紗知

東京シンフォニエッタ 第46回定期演奏会 現代の感性―邦人作曲家の国際性
TOKYO Synfonietta the 46th Subscription Concert

2019年12月9日 トッパンホール
2019/12/9 TOPPAN HALL
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:東京コンサーツ

<演奏>        →foreign language
指揮:板倉康明
東京シンフォニエッタ

<曲目>
マリソル・ヒメネス(1978-)《XLIII MEMORIAM VIVERE―生きた記憶のなかの43》(2015、日本初演)第39回入野賞受賞作品
薮田翔一(1983-)《Billow》(2015、東京初演)第70回ジュネーヴ国際音楽コンクール作曲部門優勝作品
稲森安太己(1978-)《思惑》大アンサンブルのための(2019、舞台初演)
新実徳英(1947-)《室内協奏曲 I-アクア》(2009年東京シンフォニエッタ委嘱作品、全曲初演)

 

現代の感性は、あらゆる禁じ手にがんじがらめにされている。
現代の感性、すなわち同時代的な作品は、多様性が尊重される時代を経て、その同時代性の根拠をどこにも求めることができなくなっている。これはかつて言われたような、新しいことがもはや無くなってしまったという虚無感とは別物だ。むしろ、どういう根拠をもっていても、その根拠、つまり作品に含まれた素材や作曲の動機が新しかろうと古かろうと、なんとなく同時代的だと判断されてしまう。なんとなれば「アナクロニズムに陥ることもまた、むべなるかな」などと擁護されてしまって、本当に非同時代的であることの方が難しい。
同時代的であることの困難さは、そうした非同時代性への麻痺から成り立っているのかもしれない。全体から非同時代的なものを引けば、同時代的なものが残るわけではなく、加えて両者の緊張関係は失われてしまっている。ちなみに、現実の出来事へのセンサーをもっているからといって、同時代的な作品がそのまま出来上がるわけでもない。現在進行形の政治的な出来事への言及をしてみても、本当にそれがプロパガンダでなく芸術作品であるなら、そもそもそうした政治的な態度を作品に反映させる手法自体が同時代的なのかどうか、などの芸術特有の問いに付されるはずだからである。
ともあれ「それでも現代の感性は可能か」と、この演奏会は問うている。

2014年にメキシコで起きた拉致・失踪事件の被害者である大学生43人に捧げられたというヒメネスの作品は、その創作動機を支えとして作品に政治的な色彩をもつ。どの楽器も通常の発音を許されず、ひたすらかすれたノイズを発する。間断なく繊細に、吐息の音、管楽器の音割れ、音程のないピチカートが重なり合っていく。この複合体については最初、「砂塵のアンフォルメル」などという形容を思いついたものだったが、事件のことを調べるうちに、これは彼ら43人の遺灰なのだと思うようになり、しかしまたすぐにその発想も打ち消すに至った。印象として砂塵のようだ、遺灰のようだというのは問題ではない。それよりアンフォルメルに、掌握しがたいようにつくられていることの方が重要だ。この作品は聴衆に事件のことを刻みつけるような、耳を覆いたくなるほどの響きをもっているのではない。凄惨などという言葉すら発することもできないような出来事に直面し、言語化不可能な局面に辿りつこうとして、結果として音楽のかたちを失いかけてしまっているのである。こうして実に、この作品は拉致・失踪事件との接合点を獲得している。

カルテットという古典的類型に彼独自の語法で対決した結果、薮田の《Billow》は言わば仮想上の現実を描くに至る。この作品を埋め尽くす機械的なグリッサンド、電気ショックのようなパッセージは、重力を失って自由に飛び交う。これらは、旋律の受け渡し、楽器同士の対立構図の移り変わりなどの伝統的なカルテットの書法でお互いにしっかりと括りつけられているけれども、部分部分で身体的限界を感じさせない超絶技巧として浮き立ってしまっている。この超絶技巧には、どこか現実味がない。これはそれ自体で表現価をもたず、かといってカルテットの伝統の側から要請されたものでもなさそうで、語法と書法の間には微妙な宙づり状態が生じている。実のところヒメネス作品とは全く別のアプローチで、音楽が身体らしさを失っていると言えるのかもしれない。ここでは音楽のかたちはしっかりあるけれども、そもそもこれ自体が現実の出来事ではないように思えてしまう。

稲森の作品には窓がない。ある種のディスコミュニケーションそのものである彼の作品は、それゆえに一層、同時代的である。セリーの技法の応用からなるというこの作品に、いわゆるセリー作品の特徴は備わっていないように聞こえてしまうが、感性で寄り添うことのできない音楽をつくりたいという理念を通じ、この作品はセリーの技法と内密に交流し合っているらしい。異質なものに取り組んで、それとはまた別物の一層異質なものに達している。比較的広い音程からなる2,3個の音でできた断片を引き継ぎながら発展する第1楽章。ニ音の連打と増幅が行われる第2楽章。とろ火を燃やすようにして、狭い音程を軸に展開し続ける第3楽章――性格を把握するのはここまでが限界だった。私は稲森の芥川也寸志サントリー作曲賞受賞作品に続いてこの作品の聴取にも失敗した。窓がない。この作品を構成する部分たちの面を見ることすら許されていないように思う。

20世紀も後半になり、新たなかたちで人間存在が危ぶまれる事態に見舞われたとき、作曲家によっては「調性回帰」などのいささか退行的な態度をもってして、ときに神話的な世界観に依拠するようになった、こうした現代音楽上の傾向を「新ロマン主義」と呼ぶならば、これもまたいくらか時代様式めいたものとなってはいるものの、新実の作品は自らをこの範疇において律している。第1楽章冒頭、弦楽器の上にチェレスタがきらきら鳴る様子は、新実の《ピアノのためのエチュード─神々への問い─ 第4巻》を彷彿とさせるようだった。弦楽器とピアノの受け渡しをハープがやるところといい、全体として高音域の表現が印象に残る。きらめきをまとった音が見えないものの領域へと立ち上ろうとしている。それと対をなすのは銅鑼の轟音である。第2楽章では、静謐さと爆発が繰り返される。ここでも鳴り響く銅鑼。これは何か暗部の存在を知らしめるべく、作品の組織から離れて会場の空間を漂い続けていた。

最後に、冒頭の文言に補足を加えて終わりにしたい。同時代的であることの困難さは作曲家が直面するものではあっても、非同時代性に対する感覚が麻痺しているのは、我々聴衆も同様である。
あらゆる禁じ手から自由になるための戦いを、作曲家にのみ続けさせるわけにはいかない。同時代性の根拠は、見かけ上の問題ではない。常に我々の内に求められている。

(2020/1/15)


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<Artist>
Conductor: Yasuaki Itakura
Ensemble: Tokyo Sinfonietta

<Program>
Marisol Jiménez (1978-):XLIII MEMORIAM VIVERE (2015)
Shoichi Yabuta (1983-):Billow (2015)
Yasutaki Inamori (1978-):Sinister Thoughts for large ensemble (2018)
Tokuhide Niimi (1947-):Concerto for Chamber Orchestra I – Aqua (2009/2019)