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五線紙のパンセ|“言は肉となった”に向けて・・・履歴書は必要か?|近江典彦

“言は肉となった”に向けて・・・履歴書は必要か?

Text by近江典彦(Norihiko Oumi)

12月22日に拙作 “言が肉となった”が女声合唱団「暁」によって初演される。
今回本連載コラムでは3回の機会を頂いているので、この12月号ではまずはその22日の演奏会に向けて色々自分自身のことを書いてみたいと思う。

まず初めに考えたのは本誌メルキュール・テザールの丘山氏より本企画の意図の一つとして、作曲家からの発信と評をセットにすることは後世の研究にも必ず役立つとの言葉を伺って、まったくその通りだと感じて自分自身のこと、プロフィールといったものではなく、作曲者自らが振り返る自分自身の「人となり」みたいなものを書こうと思う。
というのも、この情報過多な世の中にあっても普段作曲者自身の作品解説を読む機会はあっても、それぞれの作曲者が一体どういう人間なのか、どういう風に育って何を経験して、どんな趣味嗜好があって何を思って普段生活しているのかなどの情報はなかなかない。
筆者も時折楽曲分析をしたりするが、例えば、この作曲家は小さい頃に~があったのでこの部分はこういう音選びが多くなったのだ、とかは理論的な側面を除けば推測でしか言えないが、こうした作曲者本人から自分がどういう人間で・・・と聞く機会があれば、より深くその音楽を理解する一助にもなるだろうし、また現在はデータの蓄積が世界的にもトレンドになっているが、こうした各々の作曲家の微妙な生活感の違いなどをビッグデータ化出来れば、例えばブルックナーに子供がいたら交響曲第○番の~の部分はこの様に違ったものが作曲されていた可能性が高い、というマニアックなパラレル・コンポジションのような研究も出来るかもしれない。

さて前置きが長くなったが私自身の話しに移ろう。
今すぐ思い付きで自分自身のことを一文で言え!と言われたら「とにかくひねくれ者で、好きなものはラーメン、スーツ、靴、鉄道模型、トレード(株等の)、オムライス」・・・まあこんなところだろうか。
皆さんも自分に問いかけてみると面白いかもしれない。
筆者の場合、ひねくれ者というのは自曲にも活かされている(?!)かもしれない。例えば22日に初演される“言が肉となった”では一見調性音楽のように聞こえる和音推移が、わざとカデンツに反する半音や微分音を使って、しかもそれを「これ知識のないやつらみんな調性あるって思うだろうな」とほくそ笑んでいたりするのだ。
*なお同曲では協和音に聞こえてわざと倍音(協和音の原理みたいなもの)に逆らうような音を組み込んだり、また他のひねくれた事をやっていたりするがそれは実際に曲を聴いて皆さんで考えてみてもらいたい(他の曲でも何らかそういったひねくれた仕掛けがある)。
・・・ちなみに個人的には本当は曲目解説等を作曲家が行うのは嫌いだ。何故ならまさに逆説的に丘山氏の考えを後押しすることになるのかもしれないが、作曲家が全て説明してしまうと後世の研究者や聴き手の楽しみが無くなってしまうからだ。小さい頃にドラえもんの冒険長編の中でのび太たちが「地球上は冒険され尽くされてもう僕たちには楽しみがない!」と言っていた言葉を今でも思い出す。
そしてこの「冒険する余地がない」という思いは自らの演奏家に対する態度にも現れていて、例えば、ここの部分はこの演奏の仕方で良いか?正しいか?と聞かれても、時折はぐらかしながら答えることはあるが、余程一般的な感覚からして変でない限りは答えないようにしている。
つまり私にとっては夫々の人、作曲家、作品にシステマチックに型にはめることが出来ないくらい繊細な事から大きな枠組みまで「個性」があるのと同じように、演奏家にも個性があるべきだと思うからだ。作曲家が書いた楽譜からどのように音を読み取ったのか、それも演奏家の個性で奥深さに繋がるのだと思う。初演だからちゃんとしたいという気持ちは分かるが、だいたい初演なんて諸々の事情でちゃんとなんかしてないので気にすることはない。それが何回も演奏されていくことでその曲が「熟成」され、あたかも私たちが新しい友人と知り合い次第に相手のことを理解していくのと同じように、仮に同じ曲の同じ演奏家の演奏であっても聴く毎に変化があってこそ、まさしくそれが「音楽」の、「演奏」の、「生」の芸術的「愉しみ」になると思うからだ。

そんな理由で、私より上の世代はどちらかというと作曲家自ら楽曲の説明をすることに重きを置いていて、とある作曲コンクールでは楽曲解説が必須というものもあるが、個人的には音楽の愉しみを狭めてしまう悪しき習慣になりかけていると思う。多様に音楽のあり方が存在する現代、説明されないと作曲家の意図が成功しているか分からないという意見もあるだろうが、分かる分からないに関わらず解説されないと評価が下せないというなら審査員をやめたほうが良い。解説されれば素人だって評価を下せるだろう。
一方でラーメン、スーツ、鉄道模型が好きという面からも自分の音楽に重要な側面を見いだすことができると思う。自分の音楽は上記のようにひねくれた側面があるのと同時に、楽曲形式や編成、詳細な音選びについては意図せず比較的分かりやすく型にはまったもの・・・形式で言えば、気付けば三部形式になっていたり、編成も自分の中でしっくり来るものを選んで行ったらわりとクラシカルなタイプの編成になったり・・・それらはもしかしたらそれらの一つの絶対的方向性(鉄道ならレールの上を走るといった様に)の中で自分のオリジナリティを発揮したいという無意識の欲求の結果なのかもしれない。

ま、とにかく個々の作曲家の音楽的側面以外から各々を知るのはその作曲家の個性を紐解く参考になるはずなので、下記に箇条書きで自分を書き出してみたい。
幼年期の経験の方がより人格形成に大きい役割を果たしていると思われるので、物心ついた時期に重点を置いて挙げてみる。・・・なんだかただの自己紹介になっただけの気もするが、これを思い付いたということは何か意味があるのかもしれないので、参考になれば幸いである。
ちなみに次の2回目の題材は「いったい誰が日本の音楽界を弱っちくしているのか」にしようと考えている。

・母親が神社参りが好きだったので旅行がてらよく付いていってた。ウサギを飼うのが好き。猫も好き。
・母が働きに出ていたので平日はデパート等で食事を買って来るので夕食は楽しみだったし、当時バブルだったので土日は外食に出ていたので、舌は肥えている。
・小さい頃よく見ていたテレビはドラえもん、キテレツ、水戸黄門、あぶない刑事、はぐれ刑事。初めて見に行った映画はジュラシックパークで恐竜の怖さにかなり衝撃を受けた。
・中学生以降印象に残っている映像作品はシャーロックホームズ、モンテ・クリスト伯、レ・ミゼラブル、スピルバーグ作品。
・昔も今もオーケストラ曲が好きなので中学頃は指揮者になりたいと思っていたが、後世に残る作品を創りたいと思い中3から作曲に絞った。
・好きな音楽は主にドイツ、ロシアの作曲家。他地域ではラヴェル、ジョン・ウィリアムズといったところか。現代の現代音楽、ロックやポップスも全般的に好き。
・嫌いな音楽はドビュッシー、近代の現代音楽、ジャズ。(理由は恐らく、感覚的な曲やシンプルな筋がないものが嫌)
・クラシック好きは両親から。ただ両親は小さい頃よく喧嘩をしていたので、押し入れに一人で引きこもっていたりした。その影響なのか一人が好き。
・自転車、車、鉄道など運転するものが好き。人と一緒にいるのは嫌いではないが話すのは嫌い。信頼している人ならずっと真横にいられても平気。
・詰めが甘い。面倒臭がり。冷静沈着(笑)。論理的なことが好き。ひねくれているので、川下と川上なら流れに逆らって川上に行く。

★公演情報

女声合唱団「暁」第12回演奏会
2019年12月22日(日)18時開演
JTアートホールアフィニス
指揮:西川竜太
全席自由2,000円
近江典彦:聖歌“言が肉となった”ヨハネによる福音書第1章から(委嘱新作初演)
篠田昌伸:この世の果ての代数学
南 聡:春のマドリガル集
権代敦彦:無垢の歌・経験の歌

 

(2019/12/15)

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近江典彦(Norihiko Oumi)
作曲家 東京音楽大学非常勤講師
Tokyo Ensemnable Factory代表
norihikooumi.com