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ダ・ヴィンチ音楽祭 ラクリメ~涙の系譜|藤原聡

ダ・ヴィンチ音楽祭 ラクリメ~涙の系譜
Leonardo da Vinci Festival in Kawaguchi 『LACHRIMAE』

2019年8月16日 川口総合文化センター・リリア 催し広場
2019/8/16  KAWAGUCHI Lilia Mini Hall
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)
Photos by 平井洋

<曲目&演奏>        →foreign language
ジョン・ケージ:ソネクス²
トーマス・モーリー:
 やさしい乙女よ、いざ恋人のもとへ
 僕は先にゆくよ、いとしい人
松平頼暁:Why not?
ギョーム・ド・マショー:
 甘やかなる麗しの君
 私は死ぬ、貴女に逢えぬくらいなら
 ご婦人よ、二度と戻らぬ貴女に(『運命の癒薬』より)
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ:パレスチナの歌
マウリシオ・カーゲル:『バベルの塔』よりイタリア語、英語、ドイツ語、日本語■
ギョーム・ド・マショー:
 優しき友よ
 いやな噂をする人たちが
 歓びよ、快く甘き心の糧よ(『運命の癒薬』より)▲●
シルヴァーノ・ブソッティ:ラクリメ■
ギョーム・ド・マショー:私は幸せに生きてゆける

工藤あかね(ソプラノ) ■
濱田芳道(リコーダー他)▲
濱元智行(パーカッション)●
(無印は3人全員参加)

 

完全に暗転した場内、まるで演劇の公演が始まるかのような独特の空気を孕んだ静寂。手回し懐中電灯を手にした工藤あかねがゆったりと場内を歩き回りながらケージ『ソネクス2』を歌いつつ『ラクリメ~涙の系譜』は開始された。まず『ラクリメ』からの連想で人はダウランドを、そこから『涙のパヴァーヌ』そして『暗闇に住まわせておくれ』などの歌曲を連想することだろう。そう、暗闇。そこに浮かぶ光を目の当たりにしてジョルジュ・ド・ラ・トゥールの一連の絵画を思い起こしもする。ここから聴き手のイメージはさらに中世~ルネサンスの「メメント・モリ(死を想え)」やメランコリーへ接続される。何ともイマジネイティヴな幕開けではないか。しかしこれを背景に工藤が歌うのは先に記したようにジョン・ケージの偽装的な歌であり、おまけに舞台袖からはサティの『ジュ・トゥ・ヴ』(あるいは充電のために不定期に回される手回し懐中電灯のモーター音の異質感、と言うか場の雰囲気から逸脱した引っかかり/異物感もまた計算されたものだろう)。開始から短い時間で聴衆は旧約聖書(『ソネクス2』)からケージに至るおよそ2,000年の歴史の波間を漂うこととなるのだ。筆者はここでふとカルペンティエルの幻惑的な小説『バロック協奏曲』を思い出した。あの時空の往還、突拍子のなさ。

一段落。次のトーマス・モーリーではコケットリーに満ちた仕草でこれら「小唄」を情感豊かに歌い上げかと思えば、次の松平頼暁『Why not?』では3人がステージに登場して各自がおもむろにトランプを切り始め、そしてそれぞれが順番に1枚づつ引いて行きつつそのカードに出たマークと数字に従って突拍子もないアクションを生起させる。工藤はスーパーマーケットのチラシの文句と何かベタな芝居の恥ずかしいセリフの朗唱及びスライド・ホイッスルを披露、挙句の果てにはライオンの被り物までして客席を練り歩く。濱元は各種金属打楽器をせわしなく演奏し、そして濱田は拍子を取りつつコルネットとリコーダー、クルムホルンを取っ替え引っ替えしながら『朝日のようにさわやかに』『カーニバルの朝』『セント・トーマス』『ストレイト・ノー・チェイサー』『枯葉』などの断片を吹く。場合によってはフリーキートーンをも交え、そこで『朝日~』からの連想で聴き手の脳裏をジョン・コルトレーンがかすめる(狙ってやったことなのかは知らないが、差し当たってそれはどうでもよい)。この手のチャンス・オペレーションというかハプニング的パフォーマンスを目の当たりにするとどうしてもある種の時代性を感じざるを得ないが、この日のコンサートのように多様な時代の様々な音楽と並列的に演奏されると、それぞれの独自性を経過したのちに相対化して捉える視線が醸成されはしまいか。

そしてマショーである(この断裂に目が眩みそう)。3曲披露されたそれぞれの「恋歌」において、その歌唱もさることながら、ある時はときめきながら手紙を読み、またある時は哀しみと衝撃の表情を身にまとった工藤の身体表現力の卓越ぶりには感嘆しきり。

休憩後には中世のミンネゼンガーとして有名なヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの『パレスチナの歌』。ここで工藤はほとんど歌わずにドイツ語の朗読を披露するが、曲名から想像されるように多分にアジ演説のような曲である(十字軍のパレスチナ奪還の話である)。教科書的な知識では、いわゆるミンネゼンガーは恋愛の歌やら抒情詩を作曲したり歌ったりする人々という理解だろう(言うまでもなかろうが『タイホイザー』もミンネゼンガー)。ここで思いを馳せれば、先のマショーの音楽は時代は下るがトゥルバドゥール(いささか雑だがフランス版ミンネゼンガーとでも形容しておこう)の音楽と密接な関係がある訳で、そう考えればこの日のマショーとヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの対比は、図らずも独仏の対比を浮き彫りにしているような気がしたのだが、さて。

この後にカーゲルが来るのがまた凄いが、これもまた冒頭のケージと同じく旧約聖書(創世記)における有名なバベルの塔の挿話をイタリア語、英語、ドイツ語、日本語で歌い、舞う(なぜ異なる言語で歌われるのかは説明を要しまい)。工藤のパフォーマンスはそれぞれの国に対する紋切り型のイメージをそのまま表象するが(イタリアは陽気、ドイツはしかつめらしく、日本はスマホに手鏡=表面的なペルソナへのこだわり? 歌はどことなく初音ミク)、聴き手はそれを単に笑って済ますことができるのかどうか。

本コンサートの題名にもなっている『ラクリメ』、この日はダウランドではなくてシルヴァーノ・ブソッティ作。ガラガラ(?)、竹の筒に入って妙な音の鳴る道具(何と呼ぶのか分からない)、そして花束。ステージに横たわって胸に花束を抱く姿はまるでジョン・エヴァレット・ミレーの描く『オフィーリア』だが、事実ここで工藤はオフィーリアさながらの混乱と狂気を歌い演じる。ステージと客席の境なく歩き回り、踊り、奇天烈な声を上げ、最後には短剣で胸を突きながら「ラクリメ」と呟く。この『ラクリメ』はほとんど20世紀的に拡張された感情表現に貫かれたそれという気がしたが(または誇張=演技の強調=表層)、ここでも聴き手、というか観客は一般的なイメージとしての『ラクリメ』、そして眼前で展開されているそれとの断絶あるいはイメージギャップに戸惑い考える羽目に陥る。

最後は濱田の「チャルメラ」がいかにも陽気なマショーの『私は幸せに生きてゆける』でコンパクトに幕。

全く違った時代の違った音楽を並べ、そこに聴き手をくすぐるかのようなフックをコンセプチュアルに散りばめる。たった3人での小さなホールでの一見ささやかな「催し」に見えて、その実このコンサートの射程は長く、そして深く、カーニヴァル的に滅茶苦茶で、そして楽しい。それにしてもここでのお三方、何と芸達者なこと…。

(2019/9/15)

関連評:ダ・ヴィンチ音楽祭 ラクリメ LACHRIMAE~涙の系譜~|齋藤俊夫

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<players>
Soprano:Akane Kudo
Recorder, Cornett, Crumhorn:Yoshimichi Hamada
Percussion:Tomoyuki Hamamoto

<pieces>
John Cage:SONNEKUS²
Thomas Morley:Sweet Nymphe come to thy lover
        I goe before my darling
Yoriaki Matsudaira:Why not?
Guillaume de Machaut:Douce dame jolie
           Mors sui, se je ne vous voy
           Dame, a vous sans retollir
Walther von der Vogelweide:Palästinalied
Mauricio Kagel:Der Turm zu Babel(soprano solo)
Guillaume de Machaut:Doulz amis
           Se mesdisans
           Joie, plaisance et douce nourriture (instrumental)
Sylvano Busotti:LACHRIMAE (soprano solo)
Guillaume de Machaut:Je vivroie liement