東京フィルハーモニー交響楽団 第123回東京オペラシティ定期シリーズ|藤原聡
東京フィルハーモニー交響楽団 第123回東京オペラシティ定期シリーズ
2019年2月20日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影:2/15@サントリーホール
<演奏>
指揮:チョン・ミョンフン
コンサートマスター:三浦章宏
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
<曲目>
マーラー:交響曲第9番 ニ長調
聴く度に特別な感情が喚起される曲というものがある。何度も耳にしているはずの曲なのに、その都度その都度が一回的な体験性を帯びる曲。実演はもちろんのこと、それが録音物ですら毎回不思議な緊張感と期待感に満たされる曲。それがマーラーの交響曲第9番だろう。誰が演奏しようと曲の偉大さは揺るがないが、しかし特別な「祭司」の手にかかるとそれはこの世ならぬ超越性を帯びる。言うまでもなくチョン・ミョンフンは祭司である。この指揮者の元でひときわ献身的に尽くす東京フィルとのコンビネーションは最近の実演を聴く限りますます深まりをみせているが、チョンとしても在京オケでは2006年に同じく東京フィルと、そして2008年にはN響と当曲を演奏しており、円熟の度を増した今、再度東京フィルと日本の聴衆の前でこの「得意曲」を披露するのだから聴かぬ理由もない。マーラーの第9で3回もたれたコンサートのうち、最後のオペラシティ公演を聴く。
1階席から見た限り弦は18型(16?)、コントラバスは10本。管楽器の増強はない(ように見えた)。さほど広くはないオペラシティコンサートホールのステージ上はまさにびっしりと埋め尽くされている印象。チョンはいつものようにややゆっくり目の歩調で登場、その演奏は思わせぶりではなくさりげなく開始された。音は極めてまろやかで円く、鋭角さを際立たせない。第1主題ではアウフタクトを特段粘らせることもなく比較的淡々と美しいレガートで旋律を歌わせる。この冒頭を少し聴いただけで、チョンはこの曲を詠嘆や悲嘆、感傷あるいは慟哭の相の元に捉えてはいないことが明らかになる。繰り返すが、その音楽は淡々と、しかし細やかなニュアンスの変化とテンポの微細な揺れを伴ってあくまで「音楽」として進行する。
恐らく、昔のチョンであればもっと起伏に富んだ演奏をしたことだろうが、しかしここではそれに代わって地味で暖かい音楽が流れている。あるいは、チョンはこの楽章の多声的・複層的な音楽構造をメリハリを付けて際立たせるよりは、全体を大きな流れに収斂させるような音を作っている。誤解を恐れずに言えばまるでブラームスのようなマーラー。正直に言って、筆者はこの演奏の独自の美しさに魅了されながらも、他方でより刺激的な音楽が聴きたいとも思っていた。先の記述と矛盾するが、良くも悪くも「不思議な緊張感」のない、日常的なマーラーの第9。チョンの指揮する姿を見ても、音量的なクライマックスにおいてさえ動きは抑制され、それはあの「mit höchster Gewald」の箇所でも同様。東京フィルはいつにも増して絶好調で、音に厚みと艶、密度がある。特に管楽器の充実した響きは全く頼もしい。それだけに、自分の「マラ9」像との齟齬がより明確になるが、これは色眼鏡に満ちた自らの貧しい聴体験の代物なのだろうと言い聞かせる。
第2楽章は実に快活に開始され、その演奏は伸びやで流れが良い。ともすると感じられるアイロニカルな表情もことさら強調されないが、ヴィオラ・ソロの箇所はこの曲でかつて聴いたことのないようなグロテスクな表情と音色で一瞬驚く。
第3楽章は指揮者によって採用するテンポがかなり異なるが、チョンは例えばバーンスタインと同様相当に快速である。その中でも入り乱れる各声部が常に明晰さを保っているのはさすがにチョンで、チェロとコントラバス(特に後者)の強力な響きを土台に内声のアーティキュレーションを意識的に明確に発音させて対比的な効果を最大限に生かしていた。先に東京フィル絶好調と記したが、第1楽章での管楽器に続きこの楽章では正確ながら上滑りしない弦楽器が極上。楽章後半の主部再現からその音楽は明らかに感情移入の度を増したが、事実チョンは今までにない体全体の大きな動き(ここまでは指揮台上で脚がほとんど動いていない)と腕の振りを見せる。ここでのアッチェレランドは誠に鬼気迫るもの(拍手が起きないか不安になったほど)、しかし最後で微妙にリタルダンドを掛けたのは少々意外。
そして終楽章。ここでの演奏が明らかに白眉だ。東京フィルの弦楽器は誠に深みと厚みのある音を奏でて、こう言ってよければ日本のオケ離れした音楽を聴かせてくれたが、それはチョンの神経質にならない大らかで包容力溢れる指揮のたまものに違いない。ここでの音楽は巷間しばしば言われるような凄絶な葛藤、生からの別れといった物語とは別の、非常に明るく肯定的でさえあるようなものだったのではないか。それは通例よく聴かれる122小節前後のクライマックスが痛切な絶唱との印象よりももっと穏やかな―この箇所で穏やかというのも妙な話だが―観照の末の肯定を感じさせる音調であったのだ。これには意表を突かれたが、しかしこの上なく新鮮で美しい瞬間だった。
普段筆者が抱いている楽曲イメージとは異なるが(と言うよりもここでのチョンのような演奏はかつて聴いた試しがない)、第1楽章の記述での「齟齬」は微塵もなく完全に説得されていた。冒頭から演奏に抱いていた印象がここで明確になった気がしたが、チョンはマーラーの交響曲第9番を生と死の強烈な葛藤としてではなく、最終的には前作『大地の歌』終楽章のように生も死も自然や宇宙と幸福に合一するようなものとして捉えているのではないか。コーダも詠嘆調に陥らず、極端にテンポを緩めることもしない。最後の有名な「ersterbend」の指示も、それゆえ再生を前提とした死である。
全曲を聴き終えて、主に終楽章がそのイメージを決定付けたと思うが、この演奏には本稿冒頭に記したような「緊張感」やあるいは張り詰めた空気よりも従容として死に赴く、とでも喩えるべき平安な情感が勝っていたと感じる。第1楽章で感じたいくらかの齟齬はここで雲散霧消していたが、これが優れた演奏の持つ説得力ではないだろうか。
終結のヴィオラが鳴り終わっても会場はしばらく静まっているが、しかし予想よりも早くチョンが手を下ろしたこともありその静寂は比較的早くに破られて盛大な喝采。
何度かのカーテンコールの後、演奏者のほとんどがステージから去るも拍手は鳴り止まない。ややあってから既に普段着に着替えたチョンが喝采に応えて再登場したが、手招きで一旦は去った楽員が次々と現れる。コンマスの三浦章宏やヴィオラの須田祥子と抱擁を交わすチョン。無論演奏から明確に感知できるけれども、このシーンでチョンと東京フィルの絆というか信頼関係が伝わり、それは大変美しい光景だった。
関連評:東京フィルハーモニー交響楽団 第916回 サントリー定期シリーズ|佐野旭司
(2019/3/15)