テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ|平岡拓也

トリフォニーホール・グレイト・オーケストラ・シリーズ2018/19
テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ

2019年2月11日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影:2/13@サントリーホール

<演奏>
ヴァイオリン:パトリツィア・コパチンスカヤ
管弦楽:ムジカエテルナ
指揮:テオドール・クルレンツィス

<曲目>
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op. 35
~ソリスト・アンコール~
ミヨー:クラリネット、ヴァイオリンとピアノのための組曲 Op.157bより 第2曲
リゲティ:バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)より アンダンテ
ホルヘ・サンチェス=チョン:クリン―コパチンスカヤに捧げる(1996)

チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 Op. 36
~アンコール~
チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」

 

ギリシャ出身で、名教師イリヤ・ムーシンに学んだ最後の世代の指揮者であるテオドール・クルレンツィスが手兵・ムジカエテルナを率いて初来日した。3つのプログラムが用意され、すべてチャイコフスキーの作品で統一された。
日本のクラシック音楽界において、これほど事前に周到なプロモーションが打たれた例は無かったのではないか。来日決定後にはキックオフイヴェントが催され、様々な媒体で彼らの特集が組まれた。以前からリリースされる新譜が次々と賞を獲得し注目されていたとはいえ、異様なほどの盛り上がりであった。チケットは発売後即完売。筆者は当初入手しそびれ、追加発売で何とか一席もぎ取った次第である。
実際の音を聴く前からすでに聴衆が「出来上がった」状態での本公演。さてその実態はいかに。

一曲目の『ヴァイオリン協奏曲』(以降すべてチャイコフスキー)は、独奏のコパチンスカヤが指揮者とオーケストラの「触媒」の役割を果たしたといえる。触媒の語義は「その物質自体は変化せず、化学反応を促進する物質」であるが、まさにコパチンスカヤの持つ強烈な個性が指揮者、オーケストラに刺激を与え、より繊細かつ大胆な演奏へと仕向けたのである。そうして生まれた三位一体の協奏曲演奏が、面白くないわけがない。
よく聴かれる、独奏導入時やオーケストラのトゥッティ移行時の慣習的なリタルダンドは、徹底的に排される。チャイコフスキーが「ロマン的」「濃厚」としばしば評される理由のひとつに上述したようなテンポ変化があると筆者は考えているのだが、この日の演奏はそれらとは無縁だ。ムジカエテルナはコパチンスカヤが突如ダッシュを始めれば指揮者に率いられ即座に並走、即興的に盛り込まれる音色や奏法の遊び(粗野な音も敢えて用いられる)にもオペラ的な柔軟さをもって対応する。
喝采に応え、コパチンスカヤはクラリネットのトップ奏者(オケ内で群を抜いて表情豊か、3楽章の掛け合いがこれほど痛快に聴こえたことはなかった!)をステージ前に引き出して共に答礼し、それだけではなくアンコールも披露。続いてコンマスともアンコールを行い、最後には自らに献呈された同時代作品で歌い弾きも聴かせてくれた。コパチンスカヤここに有り、という暴れっぷりだが、彼女が聴衆に語りかけた言葉―「この素晴らしいオケのプレイヤー達と一緒に(アンコールを)演奏しないわけにはいきません」―の通り、独奏者と楽団という関係を超え、音楽的熱狂により結び付けられた絆であると強く感じた。

後半は『交響曲第4番』。テューバ、チェロを除いて立奏である。この「立奏」もまたクルレンツィスとムジカエテルナの特徴のひとつであるのだが(勿論彼らだけの専売特許ではない)、前半の協奏曲では一般的な楽団同様に座っての演奏であった。音楽的にどう変貌したのか?と問われると、正直なところ立奏による如実な効果は実感し難かった。弦が主題をたっぷりと歌う箇所やトゥッティの爆発において、座っていた時よりも表情のコントラストが強烈に感じられたが、視覚情報の斬新さに聴覚が引っ張られているようにも思えるからだ。
演奏の大枠は、意外なほどに外連がない―こう書いている時点で、自分も彼らに鮮烈さや刺激を求めており、術中にあるのかもしれないが(苦笑)。第1楽章第1主題の結尾で必ずスビトピアノにしたり、ロンド形式による第4楽章の3主題にあまり間を空けず奏したり、木管にはベルアップを要求するなど、細かなポイントで彼ら独自の視点はあったが、総じてストレートだ。印象付けられるのは前述した弦の起伏豊かな歌い方と、金管打楽器の大音響。
何が書きたいかというと、曲の解釈を掘り下げて聴かせるよりは、そのエモーショナルな大音響と立奏により、終演後の聴衆の熱狂を引き出すことに重点が置かれていたということだ。聴衆も彼らの(潜在的な)要求に見事に応え、ヨーロッパの名演後でよく見られるような拍子の揃った拍手になり彼らを讃えた。

なお楽曲の彫琢度、あるいは彼らと楽曲の相性という点では、アンコールで演奏された幻想序曲『ロメオとジュリエット』の方が良好だったようにも思える。最弱音をかそけく奏するあまり拍節感が希薄になる瞬間もあったが、楽曲が内包する感情を臆せずに曝け出す姿には圧倒された。

協奏曲では率直に感銘を受けたが、交響曲ではやや彼らの掘り下げに疑問を感じたというのが筆者の偽らざる思いである。指揮者とオーケストラがペルミに籠って(あたかも学生オケの合宿のように!)リハーサルを徹底して行い、各地を周って解釈を磨き上げてきた―という触れ込みがあったが、それならばより深い彫琢を聴きたかった。録音で聴く交響曲第6番『悲愴』は相当細部まで掘り下げてあったのだが、実演と録音芸術は全くの別物である、という大前提なのだろうか。
とはいえ、クルレンツィスとムジカエテルナがクラシック音楽界に新たな話題を提供した「台風の目」であることは間違いなく、その実演に触れられたことは貴重であった。再度の来日があるならば、音楽的修辞法がより如実に現れるラモーやモーツァルトなど、ロマン派以前のレパートリーにおける彼らの演奏を聴いてみたいところだ。

関連評:テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ|能登原由美
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