PickUp (19/3/15)|クルレンツィスとは何だろう|藤堂清

クルレンツィスとは何だろう

text by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh)
photos by 林 喜代種(Kiyotane Hayashi) 撮影:2/12@アークヒルズカフェ(トークセッション)

テオドール・クルレンツィスとムジカエテルナが初来日、東京で3回、大阪で1回、コンサートを行った。その間を縫い、ソリストのパトリツィア・コパチンスカヤ、ムジカエテルナの事務局長とともにトークセッションが急遽、開かれた。

来日公演のほぼ1年前、2018年2月22日に「クルレンツィス×ムジカエテルナ初来日記念スペシャル・イベントVOL.1 KICK OFF NIGHT! 」と題する、”記者会見&ドキュメンタリー放映&トークセッション”が行われ、筆者も参加した。
報道関係だけではなく、一般の希望者も抽選で、出席可能となっていた。その場で東京公演の3ホールセット券の予約販売も行われ、かなりの人が購入していたようだった。
その宣伝効果だけが理由ではないだろうが、一回券、特にソリストの出演する2公演のチケットは、2018年6月の発売後ほどなく売り切れとなった。
2017年のザルツブルク音楽祭での評判が高かったことやその公演のNHK-BSでの放映も後押しとなったのだろうが、他の来日オーケストラのチケット販売が苦戦しているなか、一人勝ちの様相を呈していた。

筆者が彼の名を聞いたのは、ピリオド楽器で尖った演奏をする指揮者・団体という情報で、まずモーツァルトの《レクイエム》の録音を聴いてみた。
録音で聴く限り、オーケストラ、合唱の精度は高い。また、ダイナミクスの幅を大きくとり、特に弱音部ではかなり音を絞る。テンポについても、通常では聴かれない揺れ幅で音楽を動かす。
数年後にみることができた実演の映像では、楽団員に細かく指示を出しコントロールするというより、音楽のイメージを体全体で表現、手を大きく振り回し、しゃがみ込んだり、伸び上がったり、あるパートの方に踏み込んだりと、様々な動きを見せる。それが楽員のエモーションを掻立てるようだ。
ムジカエテルナはすべての奏者(チェロや一部の管楽器をのぞく)が立って演奏するのが基本。可動域が大きくなることで、音のメリハリをつけやすいという利点は確かにあるのだろう。

では実演ではどうだったか。
筆者は、2月10日と13日のコンサートを聴き、また、トークセッションにも参加した。
コンサートについては、すでに多くの批評、ブログの記事が出ており、ここでは細部にふれることはしないが、何点か感じたことをあげておく。

まず、オーケストラの精度は録音で聴くほどには高くない。
また音自体についていうなら、世界のトップクラスのオーケストラの持つ美しさとはかなり差がある。とくに管楽器奏者の力量にはバラツキがある。
これが、来日したメンバーだけの問題なのかどうかは分からないが。
また、このムジカエテルナは創設時はそう多くない人数の団体であったはずだが、今回の公演ではステージにあふれんばかりの大所帯となっていたのには驚いた(1stVnが17人という編成)。

もう一点は即興性とは対極の演奏であること。
通常とは異なるような音楽の流れも、すでに細かく決められており、それをきっちりとやろうとする。すなわち、クルレンツィスの意のもとに修練を積み、磨き上げた「定型」が出来上がっており、その上をなぞるだけといった感じなのだ。
10日のコンサートの最初の曲、チャイコフスキーの《ヴァイオリン協奏曲》では、コパチンスカヤがその場の思い付きで仕掛け、それをオーケストラが受けとめて演奏していたように感じられたところも多くみられ、興味深く聴いた。
驚きは別のコンサートでのこと。
13日のコンサートでは、前半の《組曲第3番》のあとにアンコールとして、コンサートマスターがソリストとして立ち、同じ《ヴァイオリン協奏曲》の第3楽章を演奏した。彼はコパチンスカヤと同じような表情付けで弾き進めたが、そこにはコパチンスカヤの多様な音やウィットのようなものはみられなかった。
彼らにとってはこれがこの曲の解釈であり、ソリストもその一構成要素でしかなく、だれが弾こうが同じでなければならないということのように思えた。
もっともクルレンツィスはトークセッションでコパチンスカヤに笑いかけながら、「即興こそが音楽の命。」と言っていたのであるが。

聴衆は大いに熱狂していたが、いったい彼らに何を聴き、何に拍手を送ったのだろうか。
上に述べたような、指揮者、楽団員の大きな動き、その派手なパフォーマンスが聴き手を煽り、他とは異なる極端な音楽の表情(それが一見、即興風に見える)が「斬新さ」を感じさせたのだろうか。
だがその程度の違い、あるいは即興風演出に、どんな価値を見出し得ようか?
それは、クルレンツィスを「神」とまで信奉、のめり込ませるほどのものなのだろうか?

気になったことがある。
キックオフイベントで流されたモーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》のメイキング・ビデオの中のワンシーンだ。一人の歌手がクルレンツィスに異論をとなえたとき、周りの人間が彼をたしなめ「ここでは、すべてクルレンツィスのいうがままにするべきだ。」と言い、翌朝、その歌手が全員の前で謝って練習再開、となったのである。
彼らは一種の生活共同体的な場で日々訓練を重ね、クルレンツィスをあたかも神のように絶対視しているように見受けられた。
近年は、演奏者の意見を積極的に取り入れ、それによって全員のモチヴェイションを上げ、個を活かす指揮者がほとんどだ。
ある特定の指揮者が一つの団体に君臨し、自分の音楽を作りあげるのに奉仕させ続けるということの方がもはや少ない。
クルレンツィスとムジカエテルナのように監督と楽員が一体となって活動する団体は、古楽系以外では少数派となっている。
指揮者が独裁者のような地位を占めることも、今日ではまれだろう。

来日時のトークセッションで彼が語った言葉。
「作曲家が何を求めたのか…それを信念をもって突き詰めている。作曲家が客席で聴いていたとしたら、どう演奏すれば彼がハッピーになれるのだろう……ということだけを考えて音楽を作っている。」
「信念を持って物事を追究している人間のほうが奇妙に見えてしまう時代。真実を求めて生きることは重要だと思う。」
ひねくれた見方をするなら、自分(たち)の考えたことや信念だけが真実であり、それ以外は認められない、といっているようにも聞こえる。

このような意識と上記の独裁指向が結びついたとき、どのようなことがおこりうるだろう?
筆者は、今日、世界を覆っているポピュリズムと分断をつい想起してしまう。

やはりトークセッションの中で、2018-2019シーズンからシェフを務めるSWR交響楽団に就任した理由を問われ、「このオーケストラをムジカエテルナのようにしてほしいと頼まれたから」と答えている。
また、自分の理想として「修道院のようなところで、仲間と一緒に朝から晩まで音楽にひたりきっていたい。彼らとともに音楽の真実を探求したい」。「聴きたい人だけが私たちのところに聴きにきてくれればよい。」とも語った。
彼をシェフに迎えたオーケストラ側の意図がどうであったか、本当のところはわからないが、既存のオーケストラをそのような自分好みに仕立て上げるなど、果たして可能だろうか。彼らはそれを望むだろうか。
クルレンツィスの実力はいずれSWR交響楽団との活動ではっきりみえてくるだろう。幸い放送局のオーケストラという性格上、多くがインターネットで流されるであろうから聴くのは容易だろう。

トークセッションでは反商業主義、反グローバリズム、反アカデミズムなどといった言葉が頻繁に語られた。
だが、修道院にこもって共同体生活の中で仲間たちと音楽の真実を求め、聴きたい人が聴きにくればいいといった彼の理想と日本での一連の狂騒は、筆者の中でどうも結びつかない。
正直なところ、今回の来日公演では、筆者には彼の本当の姿は掴めなかったと言える。
今後、もしクルレンツィスが単独で来日し、在京のオーケストラを振ったらどうなるだろう。かつてセルジュ・チェリビダッケが、初来日で読売日本交響楽団を指揮したときのような「衝撃」があるだろうか。

関連評:テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ|平岡拓也
    テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ|能登原由美

(2019/3/15)