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Curious Chamber Players 東京公演2018|齋藤俊夫

Curious Chamber Players 東京公演2018

2018年12月12日 ルーテル市ヶ谷ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 稲木紫織/写真提供:Company Bene

〈演奏〉
フルート:ハンナ・カーリン・トネル・ヴェッテルマルク
クラリネット:ドリース・タック
打楽器・オブジェクト:ペル・マッティン・ヴェランデル
ギター:フレデリック・ムンク・ラーセン
ヴァイオリン:ソフィー・トーシブロー・ダン
チェロ:ミュー・リンダ・マリア・ヘルグレン
オブジェクト・プレーヤー:マーリン・ボン

〈曲目〉
マーリン・ボン:『溶解した光の構造』(日本初演)
  フルート、クラリネット、ギター、ヴァイオリン、チェロ、2人のオブジェクト・プレーヤーのための
小櫻秀樹:『Mofa』(2006年)
  ギターソロのための
鈴木治行:『Dischordance』(初演)
  バス・フルート、クラリネット、ギター、ヴァイオリン、チェロのための
イルバ・ルンド・バリナル『アケルナル(恒星)』(日本初演)
  バス・フルート、ヴァイオリン、2人のオブジェクト・プレーヤーのための
森田泰之進:『Soaring Cycles』(初演)
  クラリネット、ギター、チェロのための
宗像礼:『Tawan』(初演)
  フルート、クラリネット、ギター、ヴァイオリン、チェロ、2人のオブジェクト・プレーヤーのための
  (指揮:宗像礼)

(主催)Company Bene(鈴木治行、小櫻秀樹)

 

Curious Chamber Players(以下、CCPと略)は2003年に宗像礼とマーリン・ボンによって結成された現代音楽集団。スカンジナビアの若手作曲家との協働に重点を置いた活動を展開しており、今回が初来日である。

“curious”という単語を英辞書で引いてみると”having a strong desire to know about something”、また”strange and unusual”とある。だが、今回のCCPの音楽を聴いて、それが「優れた」ものであることは認めながらも、この”curious”の語義によってそれに疑問を感じざるを得なかった。

CCPの三人の作品についてまず記述したいが、彼らの音楽で最も「目につく」ものは「オブジェクト」、つまり「日常用品を打楽器のように叩いたりこすったり」するものの使用であろう。洗濯板のようなギザギザの板をこする、アルミホイルや紙やすりのようなもので弦を抑えて弾く、おはじきか何かを器に入れたものを振る、木の棒を折る、金ダライを弓で弾く、筒に息を吹き込む、録音された「油を炒めるような音」を鳴らす、掌をこする(ものすごい弱音なれど、確かにこれが聴こえたのだ)などなど、あまりにその「オブジェクト」なるものの数が多すぎて、一部を挙げただけでもこれほどになってしまう。

さて、ではその音楽は、というと、まずボン『溶解した光の構造』、オブジェクトの多用により、市街地の録音によるミュージックコンクレートを演奏する、といった趣の作品。ただ音を並べるだけでなく、音が音楽として構造化(コンポジション)されているのは見事である。武満徹は電子音楽などを彼のエッセイ内での「音の河」云々の言葉に反して、非常に綿密に計算しつくして構築していたのだが、このボン作品も非常に構築性の高い作品であり、また、終盤における「ものすごく軋んだ音のトゥッティ」も実に迫力があり、最後まで緩んだところがなかった。

バリナル『アケルナル(恒星)』、オブジェクトや楽器の特殊奏法づくしで、伝統的・教科書的な楽音ではなく、噪音、ホワイトノイズばかりなのだが、それが作る弱音の空間にたゆたうことが実に心地良い。フルート奏者の咳が止まらず、演奏途中で一旦舞台袖に引いた後、のど飴とお茶で回復してまた再開したのを会場の皆が拍手で迎えたのも大変良い気持ちにさせられた。

宗像『Tawan』、タイトルも、プログラムノートの「最後の接触の瞬間は、石の壁の反対側からのみやってきた」という作曲者のコメントも筆者にはその意味と意図がわからなかった。しかし、先述した「掌をこする」という超弱音からおそらくアレアトリーの技法によるカオスな大音量まで制御し、かつ、「神秘的儀式」といった「音楽とは直接関係のない雰囲気」に逃げることのない純然たる音楽作品。最後に「掌をこする」のが止まる瞬間、会場中に満ちた静寂は曰く言い難いものがあった。

「大変良い音楽だった」と感銘を受けてこの評に取り掛かったのだが、これらCCPの音楽について改めて考えてみると、それらは”curious”ではなかった、と言わざるを得ない。

「楽器とはただのオブジェクトではないか」というかつての前衛・実験音楽における主張のインパクトに対し、「良い音の出るオブジェクトは全て楽器である」という、CCPの純粋に音響的な探求に基づいて創られた作品には、音楽についての価値観、思考における個性や独創性、彼らにしかありえない視点は見当たらない。「音楽の極限を更に広げた」(チラシより)のはあくまでオブジェクト、「モノ」の段階においてであり、CCPの音楽は「音楽的には」既存のライン上のものなのである。

そこにあるのは”desire to know about something”ではなく、”need to elaborate technique”であり、その音楽は”strange and unusual”ではなく”intelligent and gentle”だったと言えよう。

真の意味で”curious”と言えたのは鈴木『Dischordance』の、特殊な楽器や特殊奏法なしに、微分音やクラリネットやフルートの低音域と高音域の音色の差異などで、最初から「ずれた」音が徐々に徐々に動いていき、最後にはやはり「和音」ではないのだが、何故か「調和した」ように聴こえる音で終わるという音楽であったと評価する。

小櫻の芯の太い叙情性に満ちたギターソロ作品、森田の3人が複雑かつ自由に飛び交いさえずり合う三重奏作品は一聴するとCCPの作品よりはるかに「古く伝統的」な様式であるように思えるが、作曲家の”desire”が直に感じられたという点で、ただ美しいだけの古い音楽、などとは決して言えない作品であった。

CCPの音楽がこの3人のそれらと相反するというわけではないだろう。実際、CCPによる演奏も卓越しており、プログラム構成でも6曲が皆それぞれを引き立て合っていた。筆者も彼らに惜しみない拍手を贈ったのだが、しかし、この評を書かざるを得なかった。

歴史や制度といった「必然」の支配の中から現れ、それを破壊する「特異点的存在」の不在こそが現在の「歴史の終わり」的状況を作っている。それを打破するのに必要なのは優劣や新旧ではなく、まさに”curious”たらんとする”desire”であり、それがCCPには欠けていたように思えてならなかったのだ。

(2019/1/15)

左から 森田泰之進、小櫻秀樹、
宗像礼、鈴木治行