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マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル|大河内文恵

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル

2018年10月18日 サントリーホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

<曲目>
ショパン:ノクターン 嬰ハ短調 op. 27-1
     ノクターン 変ニ長調 op. 27-2

     マズルカ ロ長調 op. 56-1
     マスルカ ハ長調 op. 56-2
     マズルカ ハ短調 op. 56-3

     ノクターン ヘ短調 op. 55-1
     ノクターン 変ホ長調 op. 55-2
     子守歌 変ニ長調 op. 57

~休憩~

ドビュッシー:前奏曲集第1巻
       デルフィの舞姫たち
       
       野を渡る風
       音と香りは夕べの大気の中に漂う
       アナカプリの丘
       雪の上の足あと
       西風の見たもの
       亜麻色の髪の乙女
       とだえたセレナード
       沈める寺
       パックの踊り
       ミンストレル

~アンコール~
ドビュッシー:前奏曲集第2巻より「花火」

 

かつてポリーニは神だった。ピアノを学ぶ者にとって、そしてピアノを愛する者にとって。完璧すぎてつまらないという批判もひっくるめた上で。その幻影を追い求める人々でサントリーホールは満員だった。と言いたいところだが、一部日程キャンセルと曲目変更のせいか、元々そうだったのかはわからないが、ちらほらと空席の目立つ会場であった。

当初の予定では、シェーンベルクの初期作品とベートーヴェンの『悲愴』『ハンマークラヴィーア』が演奏されるはずだったこの日は、キャンセルになった11日のプログラム、つまりショパンの『ノクターン作品55』と『ピアノ・ソナタ第3番』、ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』への変更が発表されていた。しかし、当日さらに変更され、上記のプログラムとなった。

舞台に現われたポリーニにかつての精悍な風貌はなく、足取りもおぼつかない様子でピアノにようやくたどり着く有りさま。弾き始めたノクターンに頸をかしげた。近年よく聴かれる、演奏解釈に工夫を凝らし弾き手の主張を前面に出す演奏に慣れた耳にとって、あまりにも古色蒼然としているのだ。ピアニストは伝統的なレパートリーを素晴らしく弾くのが使命であると固く信じられていた時代に、シェーンベルク、ブーレーズ、シュトックハウゼンといった当時最先端だったレパートリーに着手し、ポリーニは気でも狂ったか?と言われた当時の先進的なイメージが一気に崩れた。

茫然としつつ聴いていたら、2曲目の『作品27-2』で涙が溢れてきた。これは失望の涙なのか?かつてのスーパースターのこんな姿に涙が出るほど絶望したのか?いやちがう。音色が美しすぎるのだ。新しい解釈を示すでもなく、いまの耳にはのっぺりと聴こえてしまうその音楽の、1つ1つの音の美しさにこんなにも心が動くのか。正確なだけで一体何が弾きたいのか?という演奏に普段飽き飽きしているのに、それらとは確実に一線を画している。

そういえば、ポリーニは、晩年のホロヴィッツよろしく自分の楽器を会場に持ち込んでいる。この楽器でなければこの音色は出せない、この音色が出せると保証できる楽器でなければ自分が弾く意味はない。そう考えたにちがいない。

急遽加えられたマズルカ3曲はともかく、『ノクターン作品27-2』『55-1』と初日のアンコールで弾いたという『子守歌』はかつてのポリーニを聴きたいと思う人には充分な演奏だったと思う。

後半のドビュッシーが始まって、「懐かしい」と思った。昨今の立体感のある演奏ではなく、2Dだけれどもひたすら音色のキラキラ感を追求したドビュッシーは、20世紀のピアノ学生がみな求めていたゴールそのもの。今となっては「歴史的」とすら言える演奏だが、かつてのバブルを懐かしむような不思議な高揚感をおぼえる。

7曲目<西風の見たもの>を聴きながら、細かいパッセージの見事さに、あぁコレコレと思いだす。細かくて速いパッセージを120%正確にしかしながら機械的ではなく、よく聴かないとわからないレベルで音楽的に弾くのがポリーニだったなと。そのあたりからだんだんエンジンがかかってきて、10曲目の<沈める寺>でポリーニのピアニズムが全開となった。つづく<パックの踊り>はこれまた非常に音楽的な演奏で、とくに最後の終わり方の素敵さと言ったら。終曲<ミンストレル>ではプーランクを思わせる、フランス的なエスプリが漂った。やはり体力に自信が持てなくて、第2部の中盤あたりまでは自制して安全運転に徹していたのだなということが、終盤のようやく本気出してきた感からありありと感じられた。

このイタリアの伊達男は、最初から飛ばして後半ボロボロになってしまうことに耐えられなかったのだろう。とにかく慎重に慎重に歩を進めて、ここまで来たらもう大丈夫というところでようやく自分らしい演奏を自分に許すことができたのだ。その責任感の強さは招聘元のサイトに掲載された彼のメッセージからも読み取ることができる。約束を守るということ、ファンを大事にするということに、彼がどれだけ心を砕いてきたかが最後の2文によくあらわれている。

その責任を果たした安心感からだろうか。アンコールの<鬼火>はまるで別人のような「攻めた」演奏だった。アクセル全開で疾走するさまは、まさに全盛期のポリーニ、私が聴きたかったポリーニそのものだった。

後日、急にピアノが弾きたくなってピアノの前に座り、いま左肩を痛めている自分には左手に跳躍のある曲は弾けないと気づいたとき、ハッとした。彼には腕を痛める自由すらないのだ。何年先まで埋まっているのかわからないが、たくさんの「約束」のために自らを律し、「ポリーニ」でいるために生きている。約束なんていいから、好きな時に好きなピアノを弾けばいいんだよと誰か彼に言ってあげて欲しい。

(2018/11/15)