サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団 |能登原由美
サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団
第56回大阪国際フェスティバル2018
2018年9月23日 フェスティバルホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 森口ミツル/写真提供:朝日新聞文化財団
<演奏>
指揮|サー・サイモン・ラトル
ピアノ|クリスチャン・ツィメルマン
管弦楽|ロンドン交響楽団
<曲目>
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」
マーラー:交響曲第9番
ここまで自らの世界を音にできる指揮者は、今の音楽界にいるのだろうか。確かに、作曲家や作品を丹念に研究し、楽譜を緻密に分析してそれを示せる指揮者は少なくない。けれども、作曲家の世界やその音楽の再現にとどまらない、奏者自身の音楽の世界もまた、一つの到達点であるはずだ。作曲者崇拝、楽譜至上主義の時代は過ぎ去ったものと思いたいが、このように自身の音楽を創り上げる奏者に出会う機会は、まだそう多くはない。
昨年ロンドン交響楽団の音楽監督に就任したサー・サイモン・ラトル。その来日ツアー幕開けとなった大阪公演では、今年生誕100年を迎えたバーンスタインの《交響曲第2番「不安の時代」》とマーラーの《交響曲第9番》を演奏した。初日にも関わらず2時間40分にも及ぶ熱演。ただしそれは、バーンスタインやマーラーの世界ではなく、徹頭徹尾、ラトルの世界であった。
前半のバーンスタイン「不安の時代」。第二次世界大戦末期から戦後の冷戦へと突き進む中で、若者たちの不安や孤独を描いたオーデンの詩を題材にしたものだ。本作については、ピアノ・ソロを務めるクリスチャン・ツィメルマンとともにすでに録音も手がけているだけに、ラトルの中の作品像ははっきりとした形を成していた。イメージのあまりの明確さゆえにその演奏は、オーデン=バーンスタインが抱く漠然とした不安の表出というよりも、ラトルの目線で描かれた「不安の時代」という名の絵画作品を見ているようでもあった。
曲の冒頭部、2本のクラリネット・ソロから木管楽器、弦楽器を経てピアノへと受け継がれていく旋律線は、ともすれば感傷に陥ってしまう。だが、ラトルもツィメルマンも淡々と音をたどることでこれを突き放していく。その後も大袈裟な身ぶりは抑えられ、細部の形象を際立たせることもなく全てが一つの流れの中へと収斂されていく。第2部冒頭のオーボエによるモチーフのように、時折いびつな音色をあえて強調することはあっても、それはあらかじめ想定された全体の一部にしかすぎないのだ。こうして、暗鬱とした空気の中で一つ一つの音が色を得、形を帯びて位置づけられていく。ラトルが描いたタブローの世界。こちらはそれを眺めているだけだとしても、決して飽くことのない世界だった。
後半のマーラー。一転して響きは明るくなるが、前半同様にまどろむような音の流れは変わらない。だが第2楽章になると、濁音混じりの半ば打楽器的奏法で低弦を唸らせ、それまでの夢の世界を瞬時にかき消した。逆に、大地に生きる人々の本能的な生の謳歌が胸を突き上げてきた。
第2楽章が終わったところで、ラトルは一旦指揮台を下りた。指揮棒をチェロ奏者の譜面台に置き、汗を拭って一呼吸する。残りの2楽章の連関を意図してのことだろう。実際、第3楽章は冒頭から怒涛のごとく進んでいき、末尾のさらなる加速で一挙にフィナーレへと運ばれていった。
その最終楽章。物憂い響きを放ちながらも前へ前へと進む力がより強く伝わってくる。そのためか、ここではよく言われるような人生の諦念や終焉、死の影といった悲哀は感じられない。むしろ伝わってくるのは、生に対する欲求と憧憬だ。あの大地に生きる人々の無垢な逞しさがその根底に流れているかのようだった。
思うに、彼ほど人好きのする指揮者はそういないだろう。就任2年目にしてすでに、オーケストラの団員たちとの信頼関係が出来上がっているのを見てもそう思う。もちろん、その多くが同郷人ということもあるかもしれないが、それにしても空気が実に和やかだ。いや、正確に言えば、人を好いているのは彼自身に違いない。彼の音楽から常に感じられるのは、人間への深い眼差しである。そして、この日のその長大なステージで突き詰めたのは、不安の時代を繰り返さざるを得ない人間の業と、そうした人間に対する愛情と信頼だったのではないだろうか。
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(2018/10/15)